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小学生の頃、楽しみは村芝居とナトコ映画 [「動画」の自分史]

動画の自分史-2 

    小学生の頃、楽しみは村芝居とナトコ映画


 

  娯楽といえば雑誌とラジオしかなかったこの時代、村芝居は一大イベントでした。地元青年団の若者たちが村祭りの境内にしつらえた芝居小屋で「白波五人男」や「湯島の白梅」、あるいは自分たちで考えたオリジナルの出し物を演じます。主役は村の花形スターで、毎年時期が来ると、今年は誰がどんな芝居を演じるのだろうと、うわさもひとしきりでした。

 また、各地を回る劇団の芝居が来ると、小学校の屋内運動場(体育館)が会場なので、みんな早めに夕食を済ませ、隣近所に声を掛け合ってゴザを持って出かけていったものでした。床にじかに座ると砂がザラザラしてひざが痛いのです。
 演じられる芝居は菊池寛の「嬰児殺し」や、恋人の戦死で仕方なく別の男性と結婚し、子をなした女性の元に復員した恋人が戻ってくる、というような、どこかで戦争が影を落としている悲痛なストーリーが多く、子供ごころにも胸が痛みました。みんな涙涙で見終わると、帰路はひとしきり「良かったね」「ほんと良かったね」と感想の会話が弾むのでした。
 

 このような暮らしの中に、ある時点から画期的なイベントが加わりました。「ナトコ映画」という16ミリ映画の上映会が始まったのです。映画館でなくては見られない映画を、いつもの小学校の体育館で見られるようになったのです。1947( S22) 頃からで、ナトコとは映写機の名前。占領軍の総司令部(GHQ)が日本人に向けた民主化政策の一環としてナトコ映写機を全国的に配備し、各地で巡回映画会が催されました。1952年(S27)までの5年間で400本ほどの16ミリ映画を配給したとのことですが、ちょうど私は小学入学から卒業まで、ナトコ映画の洗礼を受け続けたことになります。 

 内容は、アメリカの自然や文化生活の様子などを紹介する教育的、啓発的なものが多かったようです。その中で初めて見たカラー映画の1本が忘れられません。一面に広がる黄一色の麦畑。その麦をバサバサと刈り取っていく大型トラクターの躍動感。初めて見る大規模農園の姿でした。その後30年以上も経って、その映画が「アメリカ・ザ・ビューティフル」というタイトルであったことを知ります。ア~メ~リカー、ア~メ~リカー…とリフレインしてアメリカ国家を賛美するテーマ曲は、第二の国歌と言われるほど米国民に親しまれている曲だということです。それですっかり洗脳されて、しばらくはアメリカびいきに仕立て上げられたのかもしれません。ああ恐るべし、ナトコ映画の、いや、その裏にあるGHQの陰謀。映像を駆使したPRというもののすごさを知るのは、ずうっと後、大人になって同じような仕事に就いてからなのですが、このようにナトコ映画は、大人にも子供にもガツンと一発のカルチャーショックを与える強烈なものでした。映画ってすごい! 私の映画好きはこんなところから始まったと言えそうです。
 

 

 「幼年クラブは」小学校入学前から読み始め、小学5年頃から「少年クラブ」にしました。読み物が多くてもルビ(読み仮名)が振ってあるので、漢字の読み方と意味をいっしょに吸収できたと思います。「少年クラブ」「少女クラブ」のライバルとして、光文社の「少年」「少女」も人気がありました。他には「譚海」「少女の友」「少女ブック」「ひまわり」など。これらは読み物が主体で、私たちは知らずに大仏次郎、高垣眸、江戸川乱歩、横溝正史、芹沢光冶良、吉屋信子、林房雄、村岡花子など、そうそうたる作家たちの小説に接していたのでした。また「おもしろブック」「少年画報」などは絵物語や漫画が多く、今日のコミック誌の先駆けとも言えるものでした。

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カメキチ

ナトコ映画と言うのは知りませんでした。私が戦後始めてみたアメリカ映画は、新宿の帝都座で、延々3時間あまりの行列のあと入場して見た「我が生涯最良の年」アカデミー受賞作品でした。始めて見たアメリカ映画に大感動、以来洋画ファンになってしまいました。
by カメキチ (2008-03-07 17:05) 

sig

カメキチさん、こんにちは。
映画に3時間も並ぶほど、当時の人たちは文化や娯楽を渇望していたということでしょうね。
カメキチさんの映画好きも、やはり出発点はアメリカ映画だったのですね。
by sig (2010-02-22 07:56) 

アヨアン・イゴカー

>ナトコ映画
そういう物があったのですね。昔、TVのディズニーアワーのようなもので、戦後間も無い日本の小学生達にアメリカの映画を見せている場面がありました。それがとても印象的に記憶に残っています。まるで未開地のような空間に、子供達が坐って写される漫画映画などを楽しそうに見ているところだったと思います。少年たちは、戦後で、いかにもみすぼらしい服装でした。

ちなみに、私の母はソ連映画『シベリア物語』を見て、シベリアが素晴らしい場所だと思いこんだと言っていました。30年も経った後で、宣伝映画だったのね、などと言っています。

映画の洗脳力は相当なもので、冷静な判断力が必要です。
by アヨアン・イゴカー (2010-12-01 23:22) 

sig

アヨアン・イゴカーさん、こんにちは。
ナトコ映画は子供だけでなく、大人もいっしょに民主主義の洗脳を受けました。
子供たちの様子は丸坊主かおかっぱ頭。着衣は兄弟たちのお下がりで、足ははだしでした。冬にはズック靴(布靴)をはくだけで、靴下など知りませんでした。これが雪国での話です。
『シベリア物語』、私は観ていませんが、評価の高かった映画だと思います。
でも、やはりソビエトの魅力をアピールしていたのでしょうね。
by sig (2010-12-02 10:47) 

河西文彦

今突然貴方の余命は後一年です!と宣告されたら、昭和22年にタイムスリップして其処から 昭和60年までの映画(洋画,邦画 ともに)を見ながら、演歌を聴き フォークやグループサウンズを聴き、少し本を読み 人生を 終わりたい。
ナトコ映画!!懐かしい響きです、お寺の幼稚園 で見た、水戸黄門と
青の洞門  一房の葡萄 が忘れられません。
それにしても アメリカ の日本占領政策は大成功 と言えるのでは?

昭和20年8月15日から 日本を作り上げたリーダー(達) は日米ともに
凄いものです。勿論 日本人全部が 凄いことでもありますが
by 河西文彦 (2011-07-24 20:03) 

sig

河西文彦様、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
このブログは自分史のつもりで書いているものです。ブログというメディアが生まれなければ書くことが無かった事柄です。ナトコ映画は子供時代の記憶の中に深く残り、映画好きを経て映像製作を生業にするまでに大きな影響を与えてくれました。戦前・戦中のことは知りませんが、少なくともすごい時代を生きてきたんだな、という気がしています。コメントありがとうございました。ナトコについてはもう1本「ナトコ映画をもうひとくさり」という記事を書いています。
by sig (2011-07-24 22:03) 

sig

森田惠子さん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2013-04-23 11:31) 

フレディオヤジ

懐かしいブログサイトですね。私の小学生時代のお話満載でした。
by フレディオヤジ (2015-08-29 07:21) 

sig

フレディオヤジさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
この時代を知る世代はもう25%位しかいないらしいですね。いや、25%も占めていて、高齢化社会を形成しているということですね。
by sig (2015-08-29 23:36) 

小野 修

懐かしいですね。
私のパソコンボランティアの生徒さんたちは80歳を過ぎた人もチラホラいますので、こんな昔話を紹介しています。
by 小野 修 (2019-04-12 08:29) 

sig

小野修さん、こんにちは。コメントありがとうございます。
私は2019年3月で78歳になりました。同年齢でもナトコ映画を知らない人がかなりおります。このブログは表題の下の副題にあるようにブログという新しい形式の自分史です。これらの記事がボランティアのお役に立つとは嬉しいお話です。
by sig (2019-04-12 11:47) 

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