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キジが綱引く、エンヤラヤ。 [あんなこと、こんなこと]

あんなこと、こんなこと

キジが綱引く、エンヤラヤ。
3.終戦直後・小学校入学前 1945~1947 (s20-22)-②

 
山すそに集落。あとは田んぼ、また田んぼ

●できることはできる範囲で
   小学校入学前の子供でも、親にいろいろ頼まれてお手伝いをしました。日常的には豆腐を買いに行くこと。豆腐屋さんまで歩いて往復10分。家から水を入れたアルミのボールを持って行き、それに豆腐を一丁入れてもらいます。帰りは水がこぼれないようにうまくバランスをとりながら運びます。
   冷蔵庫などない時代なので、真夏には冷たい水が出る井戸をもつ家に、ヤカンを下げて水をもらいに行きました。ヤカンいっぱいの水は入学前の子供にとってはかなり重く、何度も持ち替えて運びました。近くの雑貨店までアイスキャンデーを買いに行く指令が出た時は弾んで出かけました。キャンデーは1本5円で氷に着色しただけの硬いものでしたが、あづきは噛むとポロット欠ける感じが良くて好きでした。値段は少し高かったかもしれません。

●家畜の世話は子供の仕事
   農家でも馬や牛を飼う家は少なかったのですが、ブタ、ヤギ、ニワトリはうちでも飼っていました。ブタの餌は残飯にふすまなどを加えて煮るのですが、時々消し炭も入れました。アルカリ食品として与えたのでしょうか。ヤギの餌はもっぱら、早朝田んぼの畦で刈ってきた新鮮な草です。ニワトリの餌には卵の殻になる成分を加えます。家の脇の川や田んぼから採ってきカワニナやタニシを石の台に乗せ、金槌でグシャグシャつぶしてそのまま混ぜるのです。ニワトリは毎日餌を上げているのに、卵をとる時つつくのでかわいいとは思いませんでしたが、ヤギはイヌのように連れて田んぼ道を散歩しましたし、ブタもとてもなついて、背にまたがって駆け足したこともあります。それだけに、成長したブタを屠殺場の車が迎えに来ると切なくてたまりませんでした。

●年中行事はそれなりに伝承
   3才年上の姉がいるので、3月にはお雛まつりをしました。おばあちゃんの嫁入り道具らしく、5段飾り用にすべての人形や小道具が揃っていましたので、飾り付けにはかなり時間がかかりましたが、なかなか立派なものでした。大きな菱餅をいつになったら食べられるのか気がかりでした。
   子供の日には、兄が祝ってもらった時の大きな真鯉と吹流しを立てました。父に誘われて田んぼの用水路脇に生えている菖蒲を採って帰り、菖蒲湯を沸かしました。まだ明るいうちにお風呂に入ったのは初めてでした。    七夕の日は願い事を書いた短冊を下げた笹竹を玄関脇に飾りましたが、見上げると空は文字通り満天の星。天の川は夜目にも白く、くっきりと見ることができました。

●ネコの手も借りたい時には
   秋の越後平野は、実った稲の穂で見渡す限り金色の波ですが、収穫時期になると刈り取った稲を干す高いはぜ(はさ・稲架)が農道の脇に屏風のように立ち並び、地上では全く見通しが利かなくなります。束ねた稲は8段ほども掛けてあったでしょうか。私には城壁のようにそびえて見えました。試しにひと束投げてご覧といわれてやってみましたが、4m近いはしご上の長兄の手には届きませんでした。 
   はぜの稲束が乾燥すると、大八車に山のように積んで家まで運びます。初めは父に山の頂上に放り上げられて「いい眺め」を決め込んでいるだけでよかったのですが、そのうち大八車の先導を担わされるようになりました。ちょうど「桃太郎」の話に出てくるキジのような格好で、太い綱を肩に担いで車を引く役です。実際には長兄が車を引き、家族みんなが後を押します。裸足の足に小砂利が刺さって痛かったのですが、足の裏が草履のようになって初めて生粋のお百姓(今はこれも差別用語?)と言える訳です。

●馬が勝ったら、牛はどうなる?
   農繁期の食事は、母も田畑の仕事があるため、ご飯は昼の分まで炊いていたようです。炊事場の壁をはさんで1.5畳ほどの火焚き場があり、ご飯を炊くかまどと鍋を吊るす場所が灰の中に並んでいました。火焚き場の手前は一段高い板場で、ここに座って火を使います。焚き物は主にわらと、豆をとった後の豆の木、それに、うちの山から集めてきた杉枝です。どれもカラカラに乾燥させてあります。豆を収穫した後の豆打ち(ごまめづくり)や杉枝拾いもよく手伝ったものです。
   ご飯を焚く時はわらをひとつかみし、輪にしてかまどにくべます。かまど全体に効率良く火が回っておいしく焚けます。こうして炊いたご飯は、朝食ではおかず・味噌汁といっしょに食べますが、野良からいったん戻ってからの昼食では、朝焚いたご飯を味噌汁鍋に入れて雑炊(おじや)にします。雑炊は消化がよく、すぐにおなかが空くのですが、腹いっぱい食べた子供たちは「ごちそうさま」とは言わずに、「ああうまかった、うしまけた」(馬勝った牛負けた)と唱えてごろんと横になるのでした。とにかく、腹いっぱいにさえなれば満足だったようです。

●土蔵の窓にヘビの影 
   父の言うことを聞かないと、よくお仕置きをされました。外に出されたことも、げんこつや平手打ちも、こちらが悪い子だから仕方ありません。怖かったのは炊事場の床下にあるコンクリートの地下貯蔵庫に入れられること。今で言う床下貯蔵庫などという生易しいものではなく、一坪ほどの広さに樽などが並んでいて、背が立たない深さなのです。そしてそれより怖いところが蔵でした。古い土蔵の戸は子供の力では開けられず、中は昼でも真っ暗で、その蔵の床下に入れられたら、もう万事休すです。「いい子になる~」と泣きじゃくりながら叫ぶのですが、助けはきません。大抵は泣き疲れて一眠りしたあとに母が「言うこと聞くんだよ。ほんとにいい子になるね。いっしょにあやまってやるから」と助けに来ました。このあたり、今思うと絶妙のコンビネーションでした。
  とはいえ、懲りずに何度も「お蔵入り」を続けるのですが、ある時、一つしかない蔵の窓に大きな蛇がのったりと這い上がっていくシルエットを見たことがあります。土蔵の内外にはたいがいねずみを探す青大将がいるのですが、この蛇が自分と同じ蔵の内側にいるのだったらどうしよう、と恐怖に思わず凍りつき、その時は泣き声すら立てることができませんでした。


怖かった蔵の地下室(左)と、ヘビ゙が昇っていた窓(右)。1990年に帰省の際のhi-8ビデオより。この蔵は2004年の中越地震で中破し、昨年、取り壊されました。

●犬が苦手になったわけ
   昔から、村ではお互いに屋号で呼んでいました。うちは「川下」というのですが、その名の通り、村の中を走る幅3メートルほどの川のいちばん下から4軒目に位置しています。家並みが途切れたその先には、だだっ広い田んぼだけが広がっています。川向うの家は農家ではなく、いなかにはまれなお金持ちの家柄だったようです。息子さんは私の長兄と同い年で、新しいカメラを買ったばかりという話でした。
  ある日私が一人で、田んぼの真ん中を流れるその川べりで遊んでいると、集落の方からシェパードを連れた彼が現れました。そして驚いたことに、手にした空気銃の狙いを私に定めて撃ってきたのです。かなり離れていましたから、弾はヒュルヒュルと数メートル脇をかすめていきましたが、びっくりする間もなく次に彼はシェパードをけしかけてきました。犬は川岸を駆け下って川を渡り、反対側の岸にいる私めがけてまっしぐらに駆けてきます。うちでは犬を飼っていなかったのでなすすべもなく立ちすくんでいると、駆けつけたシェパードは両足で立ち上がり、両手を私の肩にのせると大きな舌でペロリと私の顔を舐めたのです。私の背よりも高いシェパードにのしかかられて、あやうく転倒するところでした。程なく駆けつけた彼がすぐに止めてくれましたが、私は恐ろしさで一杯でした。
  思えば彼は単にいたずら心を起こしたに過ぎず、シェパードは親愛の情を示しただけなのですが、それ以来犬が怖くて近寄れなくなりました。「恐るべしトラウマ」です。


犬をけしかけられた川

●次回はまた新しいテーマを始めますが、そのあとに「あんなこと、こんなこと/小学校編」 を続けます。

ANAホテルズ
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furukaba

楽しく 懐かしく拝読させて頂きました。

逃げると追い掛けて来る犬。絶叫しながら
走った思い出があります。
by furukaba (2008-02-12 08:14) 

sig

おはようございます。furukabaさん。
子供の頃確かに、犬は逃げると追いかけてくるよ、と教えられましたね。
でも、ここに書いた犬の話は、そう教えられる前の話なのでした。
そういえば、昔の犬はつないでなかったようですね。
by sig (2008-02-12 10:14) 

カメキチ

思い出しました、私の父も厳格そのものの明治男でした。時々勉強をしているところを見に来るのです。そして「そんなことが分からんのか」と一喝と同時に煙管の雁首が頭に飛んでくるのです。何時勉強を覗かれるのかと戦々恐々でした。
私の家には外に大きな物置がありました。父の機嫌が極端に悪い時には昼夜を問わずその物置に放り込まれて鍵をかけられてしまうのです。不思議なことにその物置の中に深さ5メートルもあるような古井戸がぽっかりと口をあけているのです。これが何とも不気味で怖かった思い出があります。
by カメキチ (2008-02-12 17:06) 

sig

カメキチさん、ご丁寧なコメントありがとうございました。
私の場合は勉強のことよりも、もっぱら言う事を聞かないことで怒られていました。
カメキチさんのように、このブログがきっかけで、ご自分の昔を思い起こしていただければ幸いです。ありがとうございました。
by sig (2008-02-12 19:47) 

sig

kontentenさん、ようこそいらっしゃいました。
by sig (2008-02-13 17:26) 

sig

sazanさん、ようこそいらっしゃいました。
by sig (2008-02-14 00:26) 

sig

kemmさん、今日もありがとうございました。
by sig (2008-02-14 00:34) 

ヨタ8

先日は、ナイス頂いて、有難うございます。実家は長野なので、懐かしい部分も・・、中越地震大変でしたね、形として無くなってしまうのは、寂しいですよね、また、寄らせていただきます、楽しみにしてます。
by ヨタ8 (2008-02-14 13:15) 

sig

ヨタ8さん、ご訪問ありがとうございます。
このページ一番上の写真の山並みの向こう側が、中越沖地震最大の被災地・山古志村(現在は長岡市)です。長岡は先の中越地震とその後の中越沖地震のダブルパンチで本当に大変だったようです。
ぜひまた寄ってください。
by sig (2008-02-14 17:18) 

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