SSブログ

「ヒャラ~リ、ヒャラリコ」笛の音が。 [あんなこと、こんなこと]

あんなこと、こんなこと

「ヒャラ~リ、ヒャラリコ」笛の音が。
6.小学生の頃 1948~1953(S23-28)-③ 

P1030125-2.JPGP1030149-2.JPG

6年生の修学旅行は新潟へ。右後方は万代橋。
●宿泊した「福住旅館」。写真のすぐ右手は柳並木が続く掘割でした。

●朝鮮戦争勃発で、子供までもが鉄くず集め
  1950(S25)年6月25日は日曜日でした。この日はお天気で、珍しく明るいうちにお風呂に入った記憶があるので、お祭りの日でもあったのでしょうか。お風呂から出て身体を拭いていると母が来て、「また戦争が始まったそうだよ」と言いました。それが朝鮮動乱の始まりでした。太平洋戦争が終結してから5年しか経っていないので、日本は米国に従って戦争に巻き込まれてしまうのだろうかと不安になりました。

  しかしその懸念は払拭され、結果的に朝鮮戦争は、日本に拠点を置いた国連軍の特需が戦後の復興に総力を挙げていた日本の産業を後押しする形となり、経済力が一挙に戦前のレベルにまで高まったというのですから皮肉なことでした。自分たちも訳も分からず空き地や川で「鉄板なんかよりも銅の方が高く売れるんだ」などと言って金属くず漁りをしたものでした。国全体がそういうムードだったということなのでしょう。 

●学校でも授業中に先生のお手伝い
  当時は1年生から6年生まで全校生徒、400人弱。1学年1クラスで、私たちのクラスは64人でした。2クラスに分けるには足りなかったのでしょう。生徒は先生が決めたいろいろな係を担っていました。高学年になると私は企画係に任命されました。企画とは何かは理解できませんでしたが、展覧会や学芸会などについて考えをまとめたりしました。また企画とは関係なく、試験の前日、授業中に先生に呼ばれて、試験の答案用紙のガリ版切りを任されたりしました。明日自分が受ける試験問題を謄写版で刷るのです。

  またある時は保健の女先生から、赤いバラの花のセロファンで石鹸箱大に包装された黒い布を、メモした数に仕分けしておくように頼まれたこともあります。それやこれやで、全体をまとめる構想を立てるというようなことが何となく自分に合っているような気がしました。今考えると、小学生の頃に関心を持ったもの、体験したもの、感動したもの、そして、親や先生から示唆を受けたもの…それらの延長線上に今の自分があるような気がします。 

●家でもお手伝い
 高学年になると家の手伝いから逃げ出したい時もありましたが、取り掛かると面白くなるものです。田植え、稲刈りなどの田んぼ仕事はもちろんですが、畑や山でも結構手伝いました。春は鍬(くわ)で畑の畝(うね)づくり。冬眠中の蛙を真っ二つにしてしまいました。夏はまき割り。周りをニワトリが跳び回っていました。秋は山の杉枝拾い。枯れた枝がたくさん落ちているのですぐに集まるのですが、大きく束ねて背負うと背中がちくちくしました。

  冬は別棟の作業場で父のコーチで縄綯(な)い。また、味噌も納豆も自家製だったので、家の前庭に大きなドラム缶を据えて豆を煮込んだり、作業部屋の隅に仕込んだ納豆のわらに熱湯を注いだりする手伝いもしました。こんな風に農家仕事はひと通り体験しました。一人前に両手の指の付け根は全部マメだらけになり、硬いしこりは40歳を過ぎても消えませんでした。 

●反抗少年もこの時ばかりは深く反省
  学校では男の先生に宿直という役割があり、順番に学校に宿泊して火事や災害などの非常事態に備えていました。宿直室の入り口は階段の脇にあり、部屋は4畳半ほどの畳敷きです。夏休みや冬休み、大好きな先生が宿直の日には、友だちとそこに遊びに行きました。先生は授業とはまったくちがう楽しい話をしてくださいました。特に楽しかったのは、思い切り怖い話を聞いたあとで、学校の中でかくれんぼをするのです。電灯一つ点いていない真っ暗な校舎の1階から2階まで全部の教室が隠れ場所です。体育館の床に腹ばいになると見つからないのです。

  ある時、家の手伝いを言われて反抗し、父にひどく怒られました。その夜がたまたま大好きな先生が宿直だったことを思い出して、そっと2階の屋根からひさしを伝って抜け出して学校へ行きました。いつものように楽しい話を聞いて午後9時過ぎに帰ってくると、家がいやに賑やかです。親戚の人たち全員が集まっているようですが、雰囲気が穏やかではありません。何事があったんだろうと玄関に入ったとたん、「どこへ行ってたんだ!」と誰かに怒鳴られて、びっくりしました。「これから警察へも頼んで、みんなで山狩りを始めようというところだったんだぞ」。なんと私は、怒られて家出したと思われたのです。「まあ、無事に帰ってきたんだから良かった良かった」と叔父さんのとりなしで収まりましたが、あとで父にこっぴどく殴られお灸を据えられたことは言うまでもありません。人に迷惑をかけるとどういうことになるか、身をもって思い知らされた大事件でした。 

●風呂焚き場とラジオの前を何回も往復
 週に1度は学校から帰ると風呂の水汲みと風呂焚きが役目。水道などというものはなく、うちでは家の脇を流れる川の水を台所脇の井戸に引き込み、つるべで汲み上げて浄水層に注ぎ、漉過したものを飲料水や調理に使っていました。浴室は農家には珍しい全面タイル張りで台所に隣接していました。浴槽は四角く、壁面と同じ明るい緑色のタイルです。風呂水は井戸からつるべで汲み上げたものを約50回運びます。重い桶の水を浴槽まで運ぶ作業を何回も何回も繰り返す仕事は結構きついものでした。

 その頃ラジオでは「笛吹童子」というドラマが子供たちの人気番組でした。この番組が風呂焚きの時間とちょうど重なるのです。風呂釜に杉の葉と薪を入れ、マッチで点火して、ようやく火が薪に燃え移った頃、「ヒャラ~リ、ヒャラリ~コ。ヒャリ~コ、ヒャラレロ」と福田蘭堂作曲のテーマが居間から聞こえてきます。もう居ても立ってもいられずに居間のラジオの前に飛んでいき、ドラマの成り行きに耳を傾けるのですが、風呂の火が心配で駆け戻ります。この繰り返しでドラマを断片的に聴くのですが、聞けなかった部分は想像したりして、本当に作者・北村寿夫のファンタジックな時代劇の世界に浸りきっていました。「笛吹童子」は「新諸国物語」シリーズの2作目で1953年(S28)放送開始。この前に「白鳥の騎士」があり、「笛吹童子」のあとの「紅孔雀」「七つの誓い」「オテナの塔」を加えた5作で完結。すべて映画化されましたが、ラジオと映画で楽しんだのは中学1年生まで。「紅孔雀」以降は卒業しました。 

6年生で初めての修学旅行。旅館で雑魚寝
 1953(S28)年、小学6年生になると1泊の修学旅行がありました。目的地は新潟県の首都・新潟市です。長岡から上越線を蒸気機関車で2時間くらいだったでしょうか。新潟港、県庁、新潟大学、新潟放送局などを見て回りました。宿は古町通りの「福住旅館」でした。当時の古町はまだ花柳界の面影が残っていて、宿の前には柳並木の掘割があり、子供ながらにどこか粋な香りを感じました。夜は大部屋で男女いっしょの相部屋。お決まりの座布団投げで騒いだあと、男女交互に横になりみんなで布団を頭までかぶってふざけあいました。パジャマなどという洒落たものは当時着た覚えがありませんので、消灯後はみんな学生服とセーラー服のままで雑魚寝だったように記憶しています。

 旅行のお小遣いは200円位だったと思います。母へのお土産を探していた私の眼にとまったものは、なぜか1本だけ30円で売られていたバナナ。まだ食べたことの無いバナナ。これをお土産にしたら喜んでくれるかな。ひと房では高価で買えないけれど、この値段なら買える、などとさんざん躊躇した挙句にそれを買いました。帰って母に「はい、お土産」と手渡すと、「お前は…」と一瞬絶句したあとに、「バナナをまだ知らなかったんだね。これはお前が食べなさい」と戻してくれました。そうか、みんなは食べたことがあるんだ。このとき初めて、自分は戦後、ゼロから出発した世代なんだということを自覚しました。

 P1020105-2.JPGP1030144-2.JPGP1030148.JPG

1948~53年(S23~28)頃の児童書籍。「ビルマの竪琴」「二十四の瞳」「ノンちゃん雲に乗る」「アンネの日記」などもこの時期に刊行されています。
1952(S27)年4月からNHKラジオで連続放送劇「君の名は」が始まりましたが、小学生が興味を持つにはまだ早すぎました。

ANAホテルズ Caves.I 125*125
nice!(9)  コメント(5)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 9

コメント 5

sig

kontentenさん、路渡カッパさん、kemmさん。
niceありがとうございます。
by sig (2008-03-19 15:39) 

sig

xml_xslさん、lamerさん、tosi-akiさん、niceありがとうございます。
by sig (2008-03-19 15:41) 

sig

furukabaさん、毎度niceありがとうございます。
by sig (2008-03-19 15:42) 

アヨアン・イゴカー

「笛吹き童子」名前と主題歌を聞いたことがあります。「白鳥の騎士」は、テレビ版を少しだけ見たことがあります。

バナナの話、痛く感動しました。一本の映像作品が作れるようなよい話ですね。
by アヨアン・イゴカー (2010-12-01 23:33) 

sig

アヨアン・イゴカーさん、こんにちは。
「白鳥の騎士」はこの新諸国物語の最初のお話で、まだ人気は出ていませんでした。これが土台になって「笛吹き童子」以降、大人気になりました。
戦前・戦中、台湾は日本の国でしたから、兄たちより上はバナナを食べたことがあったんですね。コメントありがとうございました。
by sig (2010-12-02 10:39) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。