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無い、と言われると、欲しくなる [あんなこと、こんなこと]

P1030925b-3.JPG  あんなことこんなこと―22
高校時代 1956~1958(S31-33)-⑩
無い、と言われると、欲しくなる
トッテツと呼ばれたローカル線があった【下】 

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●大正末期の栃尾鉄道・悠久山駅 (図書刊行会「長岡」より)
  高校生の頃、この駅舎はまだそのまま使われていました。


●「悠久山」はトッテツきっての名所
 トッテツ沿線の名所を語る上で「悠久山」は欠かせません。悠久山へは栃尾鉄道「長岡」駅から10数分。市街地を抜け、広い田んぼを通り過ぎると間もなく山並みが近づき、そのふもとが「悠久山」駅です。悠久山は昔から桜の名所として親しまれてきました。
 駅舎は栃尾鉄道開業当時の大正モダンをほうふつさせる瀟洒な洋館で、駅前には近隣からの泊り客のための旅館も何軒かありました。中学生の頃の遠足で、こうした旅館で休憩したことがありました。
 
駅前右手からすぐに、長岡藩歴代藩主の菩提寺である「蒼柴神社(あおしじんじゃ)」への石畳が続きます。両側に桜並木を擁したこの参道のその先は、急に開けて悠久山公園となります。
 今では、長岡城を模した「郷土資料館」や「動物園」などが建っていますが、高校時代の思い出に残る悠久山公園は、いちばん低いところに大きな池。少し上がったところが広々とした広場。更に一段上がった小高い場所には、昭和の初めに開店した「パラダイス」というトンガり屋根の小洒落たパーラーがあったりして、ちょっとおしゃれな気分になれるすてきな場所でした。 

●冬は「長岡スキー場」で体育の試験
 
上越線沿線でスキー場といえば昔から石打、湯沢。長岡はスキー場としてはまったく無名でした。雪国で唯一良いところは、一歩外に出ればどこでもスキーが出来るということです。私たちが高校生の頃、スキー場に出かける人は本当のスポーツマンか選手で、普通はみんな家の近くの山や畑の傾斜を利用して滑っていました。
 
悠久山は広く切り開かれた公園ですが、後背地が丘陵部ですから、冬にはスキーが出来ました。みんなてんでに出かけていって滑っていたものですが、私たちが高校生になってから「長岡スキー場」と呼ばれるようになりました。スキー場といってもレストハウスやリフトが新設されたわけでもなく、いつもの傾斜地だったのですが、体育のY先生が「3学期の試験は悠久山でスキーだ」と突然思いつき、実行されることになりました。

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年生全員がトッテツで悠久山に向かいました。下見をしてきたY先生の引率でコースに到着。上から眺めると思わずたじろぐほどの急勾配です。その上、下り終えた先が上り坂になっています。これでは例え無事に下り終えたとしても、そのとたん、仰向けにひっくり返ってしまうでしょう。「技は直滑降。上手下手は問わない。滑りさえしたら単位を出す。参加することに意義があるんだ」と、オリンピックで聞いたような言葉でごまかされて、みんなしぶしぶ了承せざるを得ませんでした。
 直滑降は制動を掛けずにまっすぐに滑り降りる技法ですから、加速あるのみ。途中で転倒することが明白だったため、危険を避けるために一人ずつ順番です。次々と発進する級友たちは、数秒後にはもののみごとに転倒し、遥かなふもとまで滑り落ちて行きます。

 私の番がやってきました。スキーの先端に顔が触れるほどの前傾姿勢で重心を前に移して滑り出しました。あっという間にスピードが上がり、ゴーグルなどしていないため冷たい風に刺激された目に涙が溢れてきます。そのうち身体が少しずつ後ろへ引かれていき、「バランスが崩れる!」と思った瞬間、雪の出っ張りでバウンドし、そのまま横滑りに転倒。身体が回転し、訳が分からない状態で雪まみれになってかなり滑り落ちました。靴から脱げた片方のスキーだけが、ゴール目指して果敢に滑り降りて行く様子が見えました。転んだまま滑った距離を入れても、多分コース全体の半分くらいまでしか行けなかったと思います。
今なら無茶な話かも知れませんが、この体験が「いざ」という場合の決断と覚悟のようなものを自覚させてくれたように思います。 

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●スキー教室 トッテツで悠久山に向かう 1957(S32)

●「宮路さま」は草競馬のメッカ
 
私が利用する「浦瀬」駅の次の「宮下」駅は、田んぼの真ん中にある無人駅でした。最寄りの宮路町までは細い一本道をかなり歩かなければなりません。日頃はほとんど昇降客がないのですが、この一本道が年に一度、大変な行列を呈するのです。
 
宮路町には「宮路さま」と呼ばれて昔から厚い信仰を集めている石動(いするぎ)神社があり、5月はその例大祭。神事として恒例の奉納草競馬が催されるのでした。この日は近隣から集まる人たちでトッテツは超満員です。
 
「宮路さま」の社殿の奥には農業用水を貯めておく大池があり、その周りが200mほどの競馬のコース。この大池を見下ろす傾斜が、雑草を刈り取っただけのにわか作りの観覧席となります。出場する馬はすべて、日頃田畑で人の手助けをしてくれている農耕馬。馬主は飼い主です。晴れの日のために練習を積んできたとはいえ、人馬ともども競馬に慣れている訳ではありませんから、いろいろなハプニングがあって観客も大いに沸き、とにかく愉快で明るいトトカルチョというイメージを受けました。 

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●1974(S49)年、廃止前年の越後交通・栃尾線 車両脇に広告掲示
●「浦瀬」駅より「加津保」駅に向かう(無音)

●1975(S50)年4月、全線廃線へ
 トッテツは、高校入学から卒業までのわずか3年間、それもほとんど通学で利用したに過ぎなかったのですが、それまではジーゼル(ディーゼルエンジンを動力とする気動車)だったものが、高校を卒業して2年後に完全電化になり、社名も「栃尾鉄道」から「越後交通」へと変わりました。けれどもみんなの間に定着した「トッテツ」の愛称は変わりませんでした。
 
トッテツはそれから15年ほど続きますが、車社会が一挙に加速した1970年代、東京並みにみんなが自家用車を持つようになると、待たずに寄らずに目的地へ一直線。場合によっては電車よりも早く着くクルマの方が便利になってしまったのです。こうしてトッテツはついに1975(S50)年4月に全線廃止となり、すべてバス路線に転換されたのでした。 

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●1960(S35)、越後交通となり、車両脇にEKKの文字が入る

●エピローグ

 社会人になってからの数年間、トッテツがまだ運行していた頃の話。子供たちを連れて初めて長岡に帰省する時、見せたいものはたくさんありました。田んぼだらけの風景、子供の頃遊んだ神社の境内、雑魚がうようよ泳いでいる小川……。その中で第一級の大目玉がトッテツでした。案の定息子たちは、初めて出会ったおもちゃのように小さな車両に歓声を上げ、手で開けるドアに驚き、いかにもいなかに遊びに来たという楽しさを強く感じたようでした。
 その後帰省のたびに、思い出の大事な要素としてトッテツを8ミリ映画にスナップしました。今、スローライフとかいう言葉が生まれたり、昭和30年代を懐かしがる風潮が盛んな中で、あのトッテツが今もトコトコと走っていたら、必ずしも名所が多いとはいえない長岡市の名物になっていたかもしれないと思うのです。

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●廃線後、レールが取り除かれたトッテツ線路跡 1977(S52)年8月
 「浦瀬」より「加津保」駅(正面奥の小高い山のふもと)を望む

■栃尾鉄道 沿革概略
1915(T4)2月 「栃尾鉄道」として、当時盛んだった東山油田に関する資材などを運搬する目的で、栃尾-浦瀬間開通。
 
同年より 浦瀬―下長岡―長岡―悠久山 と延伸工事を継続。
1924(T13)5月 栃尾鉄道全線開通(栃尾―長岡―悠久山) 全26.5km 
1948(S23)4月 全線電化完了
1956(S31)11月「栃尾電鉄」と改称
1960(S35)10月 長岡鉄道、中越自動車、栃尾電鉄との3社併合で「越後交通」となり、同路線を「栃尾線」と呼称
1973(S48)4月より路線縮小開始
1975(S50)4月 全線廃止 バス路線に転換

 
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ChinchikoPapa

トッテツの話、面白かったです。
子供のころに見た情景の一部でも、もしいま現在まで残されていたら、その存在が見直されて「名物」になっていたと思われるものは、けっこうたくさんありますね。そこに存在していた風景や風情、関係、人々の想いといったものが、当時を生きた人たちの精神を半ば形成しているとすれば、ノスタルジックな「懐かしさ」を超えて、後世に伝えなければならないものがたくさんあるように思います。
惜しげもなく毀されていったそれらの風景は、単にモノが消滅する以上に、多くの人々の「物語」も同時に薄れさせ、どこかへ忘却させる作用をともないますが、忘れてはマズイ「物語」や精神もたくさんあるわけで、それらを少しでもつなぎとめるために、わたしが子供時代をすごした場所や下町へ、うちのオスガキどもを連れまわしていたような気がします。
8月15日が近いせいか、つれづれそんなことを考えてしまいました。
by ChinchikoPapa (2008-08-12 12:52) 

いぬ

こんにちは
僕は「廃線跡を行くと」言う番組が好きでした
住民の方々の想い出 線路は人と人の気持ちを結んでいて
電車は人を運ぶだけじゃなく いろいろな物 思いも運んでいたんだなぁと
有った物が無くなる寂しいけど
無くなるからこそ人の気持ちが そこに残るのでしょうか


by いぬ (2008-08-12 15:24) 

lamer

・・・あったでしょう♪
って大事だし、凄い事です。
by lamer (2008-08-12 15:49) 

sig

ChinchikoPapaさん、こんにちは。
仰るとおり、風景や状況が消滅すれば、それに関わるほとんどすべてのものが忘れ去られていく。かといって、それを維持するためには誰かが肩代わりしたりアクションを起こさなければならない訳で、個人では荷が重過ぎます。
そこで、せめて子供たちには見せたおきたい、話しておきたい、ということで、私も自分の思い出が残っているところに子供たちを連れまわしました。
けれども、自分が受けたインパクトと子供たちのそれとは当然レベルが違うと思うので、結局は自己満足に過ぎなかったのでは、と思うことがあります。(そうした親の気持ちがどれだけ伝わったかということです)
by sig (2008-08-12 19:28) 

sig

yannさん、こんばんは。ご来館ありがとうございました。
by sig (2008-08-12 19:29) 

sig

いぬさん、こんばんは。
「電車は人を運ぶだけじゃなく いろいろな物 思いも運んでいた」・・・いい言葉ですね。その通りですね。
私の場合、ずっと地元に居たら、おそらくトッテツのことなど思い出しもしないと思うのですが、帰省するたびに必ず思い出すのです。
それは離れているためではないかと思います。
私にとって帰省とは、いくつになっても、タイムトンネルで少年時代へさかのぼる旅なのです。ですから、そこにトッテツがないと、どうも収まりが悪いのですよね。(笑)
by sig (2008-08-12 19:41) 

sig

lamerさん、こんばんは。
「今は無いけれど、昔はこんなものが(こんなことが)あったんだよ」ということ。トッテツに限らずそういうことを伝えていくことって大事だと思います。
終戦(敗戦)記念日も近いことですし・・・。
by sig (2008-08-12 19:50) 

sig

チョコシナモンさん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2008-08-12 23:16) 

sig

八犬伝さん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2008-08-13 07:59) 

sig

kemmさん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2008-08-14 15:46) 

corrado

直下降で単位なんて・・・
下手をすると骨折しそうですね(^^;
恐ろしい・・

確かに鉄道が消えるのは悲しいです。
近所では渡良瀬渓谷鉄道(元JR)が風前の灯火・・・
(群馬の桐生市から栃木県の足尾まで通じる線路です)
by corrado (2008-08-15 03:48) 

sig

corradoさん、こんにちは。
スキーの直滑降は決断力を試されたのだと思います。
方法の是非はともかく、社会に出る前に、いざというときに人に頼らず、自分の意志で決断することを学べたという気がします。

渡良瀬へは行ったことがありませんが、テレビなどで紹介されるローカル線ががんばっている例のように、渓谷鉄道も何らかの形で継続されていくといいですね。
by sig (2008-08-15 09:06) 

puripuri

スキーの直滑降、どんな様子かほぼ分かりますよ。親戚の家に遊びに行って滑って似たような経験をしています(層雲峡へ行く途中の山の中に家がありました)。
D51のように復活を・・・と思いながら読んでいたのですが、線路がないのですね。
バスに変わっても、今では採算が取れないとバスも廃止されていく。
そのような番組を見た事があります。

by puripuri (2008-08-15 13:14) 

sig

puripuriさん、こんばんは。
スキーの直滑降は基本形で誰にでもできるものですが、傾斜は程度の問題ですよね。

残念ながらトッテツは廃止後30年以上経ちますから、今ではその跡を探すのも難しいのではないでしょうか。

写真の最後に「浦瀬行」の電車のプレートがありますが、廃線2年後の1977.8に、なんと銀座松屋の「骨董市」を覗いて遭遇したものなんです。奇遇と思い、購入しておいたものが、このブログで役に立ちました。
by sig (2008-08-15 21:33) 

sig

銀猫さん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2008-08-16 14:41) 

Qoo

栃尾鉄道はじめて聞きました
トッテツの話、興味深く読ませて頂きました(^^)
鉄道の廃止は全国で色々とありますけど、寂しいですよね
僕の田舎も弥彦線(弥彦東線というのかな?)の越後長沢という駅だったのですが
越後長沢~東三条間が廃止になった時は悲しかったな~
今、線路跡は大きな道路になってショッピングセンターやパチンコ屋になってます

by Qoo (2008-08-17 11:00) 

sig

Qooさん、こんにちは。
Qooさんは弥彦線でしたか。弥彦から日本海側の線路が廃線になったのですね。私も長岡に居た頃に弥彦へ行き、乗ったことがあるかもしれません。いずれにしてもあまり貢献しませんでした。(苦笑)
廃線のまま残されているだけでも違いますけれどね。
by sig (2008-08-17 16:16) 

sig

みかっちさん、こんばんは。ご来館ありがとうございました。
by sig (2008-08-20 20:53) 

sig

kurakichiさん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2010-10-05 11:05) 

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