川崎名物・駅前屋台村 [「動画」の自分史]
川崎名物・駅前屋台村
1961年・20歳、8ミリ映画事始め―1
「アート・プロダクション」発足
●国鉄・川崎駅と駅前広場 手前はトロリーバス 並行する線路は京浜急行 1960
●昭和36年。夜の川崎駅前は屋台村だった
神奈川県川崎市。今でこそ人口139万人を超える(2008.10.1現在)指折りの大都会ですが、50年ほど前の人口は確か70数万人。重工業や化学工業のプラントが林立する京浜工業地帯を形成する労働者の街として知られていました。日本の振興の要である鉄や石炭に代表される基幹産業が集積していたところですから、辺りを見回すとブルーカラー族ばかり。国鉄・川崎駅を一歩出たら、もう油臭さが漂っているような街でした。(ブルーカラーはホワイトカラーの対語で、ホワイトカラーは事務職。ブルーカラーは作業服の色から労働者層を指しました)
私が川崎に就職した1959(S34)年は、川崎駅が新しく生まれ変わった翌年でした。西口には改札を出てすぐに東芝(東京芝浦電気)の工場が陣取り、夜は全く人気がなく、文字通りの真っ暗闇。東芝に用のない人には無関係の地域でした。
●左/川崎駅前ロータリー ●駅前を横切る京浜急行(写真の右)
●駅前商店街 上/銀柳街 下/仲見世通り 1960
東口は駅前ロータリーを経て繁華な市街地が広がり、デパートや商店街、映画街などがありましたが、目の前を横断している京浜急行の踏切が通せんぼをしていました。駅の両サイドからは2本の太い通りが東に向かって延び、第一京浜国道を横切って、京浜工業地帯と呼ばれるエリアにつながりますが、その間に川崎球場、競輪場、競馬場があります。
●駅の南「さいか屋デパート」(左)と新川通り(右) 1960
早朝の第一国道。それは一種のハローワーク。次々に大型トラックが止まると、その日の仕事を求めて集まった労務者の群れから何人かが引き抜かれて、荷台に乗せられてどこかへ走り去って行きます。全員に仕事があてがわれることはなく、いつも何人かが取り残されていました。日雇い労務者は日当が240円だったところから「ニコヨン」と呼ばれていましたが、このころはもう少し高かったと思います。
●左/川崎駅の北、多摩川 鉄橋は国鉄・東海道線
●昭文社「川崎市街図」1967.7刊行
第一京浜国道に接して多摩川寄りには「堀の内」、反対の横浜寄りには「南町」という、知る人ぞ知る花街がありました。1956(S31)年に売春防止法が施行されましたが、夜になると二つの街はまだその余波を残している雰囲気でした。また川崎の駅前は、朝は三和銀行前に陣取ったバナナの叩き売りで始まり、夜はずらりと飲み屋が並ぶ屋台村に様変わり。仕事帰りに一杯引っ掛ける作業員たちや、飲んだくれて千鳥足の労務者などで、いつも遅くまで賑わっていました。
●成人のお祝い。自分に8ミリカメラをプレゼント
さて、カテゴリー「動画の自分史」の14回で、高校3年生の時に、借りた8ミリカメラで上野や有楽町界隈を撮影した話を書きましたが、私が自分の8ミリカメラを始めて手にしたのは、1961(S36)年12月。自分自身の成人のお祝いに、高卒後社会人3年目の冬のボーナスに貯金を加えてようやく購入したのが始まりでした。今で言う「がんばった自分へのプレゼント」のはしりです。
●ダブルエイト 8ミリシネカメラ 「ヤシカ8U-s」
機種は「ヤシカ8-Us」。一眼レフ、3倍ズーム、自動露出付きの新鋭機。それまでに散々各社のカタログを比較して、絞りは0まで絞りきれるか、フィルムの巻き戻しができるか、1駒撮りができるか、というふるいに掛けて最後に残った機種で、新発売の時点から決めていたものでした。撮影したものをそのまま映写して見るだけで十分というなら、そんな小難しいメカは全く必要ないのですが、本物の映画の真似事をやってみたいということになると機種は絞られます。その中で高性能・高品質・低価格という観点から選んだものでした。
8ミリ映画は今日のビデオのように、撮ってきたカメラをそのままテレビにつなげば見られるというものではありません。撮影したフィルムを現像し、そのフィルムを映写機に掛けて上映しなくては動きを楽しむことはできません。けれども、一度にカメラと映写機を買うのは無理なので、とりあえずカメラを買い、フィルムを何本か写したあとに映写機を、と考えました。カメラは付属品とも27,800円。当時の給料は手取り9,792円。約2ヵ月半分の生活費をはたいたことになります。
●1961.4月の小遣い帳 仕事で寝る間もない時間を割いての走り書き
給料は手取額。それにしてもネクタイ90円とは…。格好なんか気にしない?
●1962(S37)年、アート・プロダクション発足
8ミリカメラを買った動機は、口幅ったいことながら「映画を撮る」ことでした。学生なら友だちを集めてドラマを作るということも考えられますが、社会人では難しい話です。私は始めから、自分が働いている川崎という地域をドキュメンタリーとしてまとめてみようと考えていました。またこの先、アマチュアとして結婚や育児記録などのプライベートな作品づくりは当然からんでくるとしても、それだけではいきたくないという気持ちが強く働いていました。
私はもう、いっぱしの映画会社を立ち上げたプロデューサーの気分でした。とりあえずは社名とシンボルマーク(ロゴタイプ)を決めなければ。社名はこれまでの苗字を冠した「○○映画社」ではいかにもダサい。マークももっと斬新なものに。それに、ライティングで影が出るように立体的なものが欲しい。
●「アート・プロダクション」の初期のロゴタイプ(のちに変更)
こうしていろいろ検討の末、社名はやはり横文字がいいだろうと思い、アルファベットの最初のaを使うことを考えたらスラスラと「art」という言葉が浮かび、「アート・プロダクション」と決定。ロゴはなぜか小文字の「a」をデザインしたもので、1cmの厚さのラワン板をイトノコで切り抜いて白いポスターカラーを塗ったもの。「Art Production」の文字は厚紙の切り抜き。そして背景にはカーテン地を敷くことにしました。
こうして、1962年1月1日をもって、バーチャルカンパニー「アート・プロダクション」が発足することになりました。
(結局、「アート」にふさわしい作品など作れなかったのですが…爆) つづく
再生できない場合、ダウンロードは🎥こちら
●記録映画「川崎」より抜粋 1962年6月より撮影開始
川崎駅前、駅前商店街、第一京浜国道、夜の駅前 駅前屋台村
この「川崎」の一部は、NHK「映像の戦後60年」で放送されました。
若き日のsigさんの胸に詰まった大きな夢が伝わりましたよ!
それにしても映像に驚きです....
こんな昔なのに、車の交通量の多いことっ☆ 人もいっぱいっ☆
都会を感じますね~
夜の街もBGMがピッタリで素敵でした♪
屋台のいろんな美味しそうなにおいが漂っていたんやろなぁ~♪
by みかっち (2008-11-07 09:46)
この時代にこのような素晴らしい映像を撮影されたとは驚きです。
何より復興途上の日本を象徴するような川崎の活力に満ちた様子を確りと捉えていることに感動しました。
by カメキチ (2008-11-07 10:21)
みかっちさん、こんにちは。
いつもうれしいコメント、ありがとうございます。
「ブログよる自分史の試み」として自分自身のためにまとめているので、脚色なしのありのままを書いていますから、独りよがりだったり、かなり恥さらしの部分があります。でも、映像に対する思いが伝わってうれしいです。
この当時は経済の発展による、いわゆる車社会の始まりです。
出来立ての国道をダンプやトラックなど産業用大型車両がガンガン走っていました。
一方ではマイカー時代一歩手前で、自動車教習所の人気が上昇していました。
街の上空を、そろそろスモッグが覆い始めていましたし、間もなく河川は洗剤で泡立ち始めるようになるのです。ああ・・・
by sig (2008-11-07 15:17)
カメキチさん、こんにちは。
当時は経済は上向きで、本当に活気がありましたよね。
川崎の労働者は自分も含めてがんばっているぞ、という自負がありましたから、この作品もそういったトーンが基調でした。
ただ、発展の反対側にある影の部分も述べていこうという狙いもあり、素人が仕事の余暇にどこまでできるのかという限界は感じていました。
8ミリを始めた直後ですから、ドキュメンタリーの真似事をしてみたかったのです。
by sig (2008-11-07 15:26)
xml_xslさん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2008-11-07 15:27)
こんばんは。
子供のころ、川崎駅でいちばん印象に残っているのは、湘南電車が川崎駅から東京へ向けて走り出したとき、左手の車窓から見える明治製菓のビルでした。アップされた地図にも、左寄りの多摩川べりに載ってますね。そのビルを見るたびに、「マーブルチョコレートや板チョコは、ここで作ってるんだ!」・・・と、子供心に思ったものです。明治製菓があるせいか、川崎駅には同社のお菓子の看板がたくさん出ていたような記憶もありますね。だから、よけいに印象に残ったものでしょうか。
1960年代の川崎駅から東京界隈といいますと、午前中にもかかわらずスモッグで日光が遮られ、まるで午後のような日差しになっていましたので、もちろん京浜工業地帯・・・というイメージもありますが、川崎は明治チョコレート工場の街・・・という印象も強いのです。^^
by ChinchikoPapa (2008-11-07 17:51)
ChinchikoPapaさん、こんばんは。
明治製菓はたしかクラシックな感じの明るいレンガか何かのビルだったような気がします。(定かではありません)
60年代も後半になると、はっきりと高度経済成長の負の部分の象徴である排気ガスやスモッグが青空を隠すほどになっていました。多摩川も洗剤の泡が川面を覆い、風で吹き飛ぶようになりました。
その状況をよくぞここまで戻したもの、と思います。一度懲り懲りしないと動かないのは困ったものですね。
by sig (2008-11-07 22:51)
八犬伝さん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2008-11-07 22:52)
駅には凄い人達、、まるで今の渋谷と変わらないくらいと思いながら見ていました。
映画喫茶と言うのもあるのですね。忙しそうな人、車、、当時は活気に溢れていた
のでしょうね。京浜工業地帯・・・問題もあったような気か゛するのですが。
川﨑駅前周辺は、随分と変わったようですよ。
念願のご自分へのご褒美を手にした時の喜び、、伝わって来ます。
さすがsigさん、当時のをキチンと保管されていますね。
by puripuri (2008-11-07 22:52)
yannさん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2008-11-07 22:52)
puripuriさん、こんばんは。
通勤時間帯はいつもこんな感じでしたね。ほんとに活気を感じました。
上にコメントしたように、確かに急速な経済発展が巻き起こした後遺症は、その後長く続くわけです。
川崎はいつでも行けるのですが、つい新宿に出てしまいます。
この記事に合わせて写真を取りに行く予定だったのですが、つい・・・。
今年は暮れの賑わいでも嗅ぎに行ってみたいと思っています。
by sig (2008-11-07 23:41)
20歳のsigさんが目に浮かぶようです。
これだけ打ち込めるものがあったということは素晴らしいことですね。
今、当時の記録を整理してこんな形に出来るのもそれだけ集中していたかろと言えますね。
自分を振り替えって見ると恥ずかしいような気持ちになりますね。
by kemm (2008-11-08 11:10)
花火師さん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2008-11-08 14:14)
チョコシナモンさん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2008-11-08 14:14)
kemmさん、こんにちは。
本当は趣味ではなく、最初から映像の道に入りたかったのです。
けれども特殊な分野ですし、当時は今と違って情報不足で、どこへ行けばそちらへ向かうのか全く分かりませんでした。
結果的に川崎で10年間遠回りをしてしまいました。だから褒められることは何もないのです。まあ、それはそれで別の経験をしましたので無駄ではないのですが。コメント、ありがとうございました。
by sig (2008-11-08 14:23)
月夜さん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2008-11-08 14:23)
川崎の映像を拝見させて頂きました。
1966年~67年川崎に居た関係で懐かしく思います。
柳町~堀川町は工場があるだけで改札を出ると工場でした。
フィルム記録があることは貴重な財産ですね。
by furukaba (2008-11-08 15:45)
furukabaさん、こんばんは。
川崎駅の西口が堀川町でしたでしょうか。改札は東芝のためにあったんですよね。柳町の東芝の前はよく通りました。
私は川崎に1968年まで居ましたから、どこかでお会いしてるかもしれませんね。駅前の写真、懐かしいでしょう。
by sig (2008-11-08 19:53)
1960年ごろと言えば50年近く前の写真ですが、すべてsigさんが撮って保管されてきたのでしょうか。どれも当時の様子がよく伝わりますね。
三輪トラックが走ってたり・・。
ただがむしゃらに働くだけでなく、ご自分の夢を大切にされてきたsigさんの生き方が素敵だな、と思います。
アート・プロダクションの行方が楽しみです。
by BlackTiger (2008-11-09 11:59)
BlackTigerさん、こんにちは。
そうですね、もうかれこれ50年も経ってしまいましたね。
写真や動画はすべて休日に自分で撮影したものです。
軽三輪は「ダイハツ・ミゼット」で、小回りが効いて商店などに必須のアイテムでした。また、まだ和服姿の人が歩いているとか、写真の背景は広い空(今は高層ビルがあります)というのも注目点です。
年内に一度行ってみたいと思っているのですが、どうなりますか。
コメントありがとうございました。
by sig (2008-11-09 12:25)
こんにちは、随分昔の写真ですね。
sig さんは多分同年配では無いでしょうかね。
by 吉之輔 (2008-11-09 13:14)
吉之輔さん、こんにちは。コメントありがとうございます。
表題に書いた通り「1961年・20歳」ということは1941年生まれです。
このブログは「ブログによる自分史の試み」として、これまで関心を持ち携わってきた「アナログ映像(映画とビデオ)」を軸に、まったくプライベートなことを書いております。
これからもよろしくお願いいたします。
by sig (2008-11-09 14:40)
takemoviesさん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2008-11-09 14:42)
毎回思うのですが、資料の保存がすばらしいですね!
「仲見世通り」は、アーケードじゃなかったんですね。
おぉ、さいか屋、だぁ!
大昔に、お中元だかお歳暮だかの
短期バイトをやった記憶が蘇りました(^ ^)
by Ja-Kou66 (2008-11-09 23:56)
>「アート・プロダクション」
ナイスネーミングですね♪
電話帳でも最初の方に出て来そうです(^^)
by kontenten (2008-11-10 14:41)
こんばんは。
初めてコメントさせていただきます。
川崎・・・とても懐かしいです。なぜなら、私の生まれ育った町だから。
この頃は、さいか屋と小美屋?(この字だったかなー)のデパートが駅ビルをはさんで両側にあってとても、とても懐かしいですよ。
今は駅前のバスターミナルの下の大きな地下街、何も無かった西口も東芝跡地にショッピングモールが出来て、昔の面影はありませんよ。
写真を見て、ここにあるこの木も覚えているーとか、この頃の川崎を知っている者として感動です。
又、寄らせていただきます。
by leo (2008-11-10 23:33)
Ja-Kou66さん、こんにちは。
資料の保存なんてものではなく、いわゆる捨てられない性分なんですね。
昔の川崎、ご覧頂いてうれしいです。Ja-Kou66さんともどこかでお会いしているかも。
仲見世通りはアーチだけですね。
時代を感じさせるのは、車、看板、服装、ヘアスタイルなどですね。
こんな記事を書いていますと、50年があっという間に感じます。
by sig (2008-11-11 09:59)
kontentenさん、こんにちは。
このころはプロダクションという言い方が流行っていたんですね。
「アートプロダクション」という会社名は、確かに電話帳では真っ先に表示されていますね。(笑)
この名は次に「アートプロ」と短縮され、現在は仕事で使っている「メディア・プラン」というネーミングです。そのあたりのことをこれから書いて行きますから、また見てくださいね。
by sig (2008-11-11 10:05)
leoさん、こんにちは。
コメントは初めてでしたか。もうずっと知り合いという感じでおりました(笑)。
昔の私の写真が思い出のよすがになってうれしいです。
西口が変わったということで、行ってみたいと思いながら、まだです。
この記事も、実は現在の様子と対比してみたかったのですが・・・。
川崎の記事、次回は11/14の予定です。
どうぞまたおいでください。コメントありがとうございました。
by sig (2008-11-11 10:13)
当時は活気に溢れていたのでしょうね
今でも地下も地上も賑やかですが「活気」という感じではない気がします
屋台村、数年前に流行りましたが
その当時の雰囲気を再現したものだったのかな~
by Qoo (2008-11-11 10:44)
Qooさん、こんにちは。
今の時代そのものがこの20年間沈滞ムードから脱却できていませんから、どことなく元気がないのは全国的な傾向だと思います。未来に希望がなければ活気は生まれませんからね。
かといって私の場合は、世の中の世知辛さ、悪辣さに反抗することで自分を燃え立たせていたようなところがありましたが・・・。
屋台村、確かに人気が出た時期がありましたが、一過性のイベントで終わってしまいましたね。
by sig (2008-11-11 14:46)
ヨタ8改さん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2008-11-12 09:27)
sun-highさん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2013-05-12 22:33)