東京オリンピックは日本のターニングポイント① [あんなこと、こんなこと]
東京オリンピックは日本のターニングポイント①
●斬新なデザインが話題になった代々木屋内体育競技場 1964.10
●総事業費は当時の金額で1兆5千億円とも2兆円ともいわれました。
●昨日のことのように思い出せる東京オリンピック
1964年(S39)は「東京オリンピック」の年でした。10月10日から24日まで、アジアで初めて開催されたオリンピック東京大会には94カ国が参加。100m陸上で10秒0のヘイズ。2回目は裸足ではなかったアベベのマラソン二連勝。女子水泳ではフレーザーの三連勝。体操の金メダルを3つも手にしたチャスラフスカ。日本から柔道の金を奪ったヘーシンク。
片や日本勢は、重量挙げの三宅義信。女子バレー・東洋の魔女チームの活躍。マラソンでは円谷幸吉の健闘。体操の山下治広、平行棒の遠藤幸雄の活躍などなど。
仕事仕事で、とてもオリンピックを観戦に行くどころではありませんでしたが、この日のために準備された初のカラーテレビ放送を観ていたせいか、その後何回も催されてきたどのオリンピック以上に、今でも「東京オリンピック」の有様を鮮明に思い出すことができます。
●聖火リレーを彩ったプリンス・グロリア・スーパー6
●カラーテレビ 上/日立16インチ 中/ゼネラル19インチ 下/松下19インチ
●日本の近代社会の基礎づくりに絶大な効果
オリンピックは国を挙げての大事業です。競技のための会場づくりに始まり、幹線道路をつくったり鉄道や地下鉄を整備したり、広大な選手村を設置したり…。これらの事業には莫大な資材が調達されます。その輸送や建設に多くの人材を必要とするため、雇用が促進されます。また、開催期間中は運営に膨大な人員と経費がかかります。つまりその準備と実施のために、わずか数年という極めて短期間に莫大な生産と消費が行われることで経済社会がフル回転し、あらゆる分野に波及効果が実現します。
このように、国内のインフラ整備と経済成長の加速を目論んで開催にこぎつけたオリンピックでしたが、世界中から観客を大量動員するというねらいは思ったほど望めなくても、それ以上に効果的だったのは国民の士気高揚でした。つまり、戦争に負けた国がわずか20年足らずでオリンピックをやれるほどの復活を遂げたのだという自信と誇り…それを自覚させる絶好のビッグイベントだったのです。
東京オリンピックはねらい通り高度経済成長への足がかりをつけました。その意味で1964年は日本の大きなターニングポイントでもありました。そして、この自信を得た頃から、日本人の価値観、ものの考え方が大きく変わり始めます。
●聖火コース18.000キロを走破した、ダイハツ「ベルリーナ」
●過程はどうでもいい。結果を出せ!
「所得倍増」「モータリゼーション」がキーワードだった1960年代は、「時は金なり」の考え方がきわめて明確に認識された時代でした。
昭和16年(1941)生まれ(つまり私)が高校生の頃までは、電車に遅れた時は次の電車がなかなか来ないこともあって、ひと駅間くらい歩くのは苦になりませんでした。ところが1960年代は、そのような時には迷わず車を使うようになりました。歩く代わりに車で急ぎ、その分の時間を有効に生かすのだという訳です。また、デートに1時間くらい遅れても、待っていたし、待っていてもらったし。(今はケータイがあるから、昔風に「恋人を待つ」なんてありえないのですね)
世の中がせわしくなったせいもあり、調理にもインスタント食品が現れ始めました。熱湯を入れて3分待てば出来上がるラーメンは確かに便利で、独身の時期には重宝しましたが、じっくり淹れてそのムードを味わっていたコーヒーさえ、インスタントになりました。
このころの社会が求めた合理化、省力化、無駄を省くという考え方は、仕事にとっては大事なことなのですが、それが次第に拡大解釈されると「努力」さえも「無駄」の仲間入りをし、「できるだけ楽をして目的を達成する」ことがすてきなことに変わりました。そこでは「いかにがんばったか」が評価されることはなく、「目標が達成できたか否か」という結果だけが評価の対象になりました。
●必死だった公団入居対策
1960年代は結婚ブームでもありました。新幹線の客席が新婚旅行のカップルで埋め尽くされた車両まであったようです。彼らが先ず考えなければならないのは新居です。当時は会社までの通勤時間は1時間半程度までと考えられ、「都会か郊外か」「一戸建てか、アパートか」が選択肢でした。マンションという概念、方式はまだありません。
モダンな生活に憧れる人たちに人気があったのは比較的安く入れる公団住宅でしたが、とても人気が高く、抽選です。その抽選も「30回落選したら優先的に考えてあげましょう」ということでした。公団が1年に募集する住宅は10箇所も無かったと思いますから、30回落選したあとに当選したとすると3年も先になってしまいます。ですからとりあえず落選回数を稼ぐことが先決で、募集のつど欠かさず応募はがきを送ることになります。1965(S40)年に結婚した私たちも、アパートで生活しながらせっせと公団住宅の申し込みを続けました。
●公団なんて言ってないで、モダンな一戸建てにしたら…?
●板塀はやめて、こぎれいなガーデンフェンスにいたしましょう。
●システムキッチンの便利さを知ったら、もう元にはもどれない!
●自動給湯装置はこのころからでした。
●ベッドは憧れ、「東京ベッド」
抽選結果が待ち遠しいのですが、一つは不安もありました。それは住みたくない場所に当選したら困るからです。公団住宅は当選した住宅を辞退すると一から出直しになるのです。ですから「いいところに当たりますように。いやなところに当たりませんように」と願っていたものでした。
こうして六畳一間の新婚生活を1年くらい続け、20枚ほど公団住宅の落選通知がたまった頃、長男の出産を控え、一戸建て六畳と四畳半の二部屋、それにお勝手が付いた郊外の平屋に引っ越したのでした。 つづく
●写真はすべて「毎日グラフ オリンピック東京1964」に掲載の広告です。
東京五輪って僕が生まれる24年前なんですね!!
東洋の魔女はよく聞きます。日本の女子バレーって、当時は強かったんですよね♪
by とも (2009-01-29 01:57)
あんなテレビが昔有ったのを思い出しました
世の中便利になりましたけど、その分心の豊かさが失われていくような気がします
合理化・派遣切り、見ていると切なくなります
by Qoo (2009-01-29 08:26)
おはようございます。
東京オリンピックでは色々と取材しましたが、中でも聖火リレーの取材が印象的でした。オレンジ色の聖火がまだ舗装もされていない郊外の道を走る姿は本当に感動的でした。
カラーテレビも4本足のついたものでした。回すとかちゃかちゃと音のするチャンネルセレクトつまみ、懐かしいですね。
カラーテレビを開発途中の川崎の東芝工場内の研究室の取材のときは、こんなものが実用になるのかと思ったほどお粗末なものでしたが、しかし色付きの物が出来たらすごいなと感動したものです。
by カメキチ (2009-01-29 09:27)
xml_xslさん、こんにちは。早々にご来館ありがとうございます。
by sig (2009-01-29 11:23)
ともさん、こんにちは。
「東洋の魔女」というフレーズもイメージしやすくて良かったですね。
sigに大学生のお友だちができたことはとてもうれしいです。
おたがいにディズニー大好きというところもうれしいです。
景気回復にもう一度東京オリンピックもいいけれど、日本全体をディズニーランドに仕立てたら景気は回復するかも(笑)。
by sig (2009-01-29 11:29)
キュー太郎さん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-01-29 11:30)
Qooさん、こんにちは。
成長の陰で、良いこと、美しいことが失われていくことはつらいことですし、
弱者が切り捨てられていくことはもっと切ないですね。
時代と共に価値観が変わり、倫理、規範、常識、といったものが形を変えてしまったことに起因すると思っています。
by sig (2009-01-29 11:34)
shinさん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-01-29 11:35)
カメキチさん、こんにちは。
ひとは一生のうちで、いくつ歴史的な事柄に出会うか分かりませんが、たいていは傍観者の立場で接するわけですが、カメキチサンはオリンピックの取材という得がたい経験をなさったとは、うらやましい限りです。
カラーテレビも一足先に研究途上のものを取材されたとのこと。そういう経験はまだまだたくさんおありだと思います。いいお仕事を選ばれましたね。
by sig (2009-01-29 11:42)
amiさん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-01-29 11:42)
sigさん こんばんは
東京オリムピック 両親が結婚した年です
また東京にオリムピックの誘致の話しがありますが
45年前の東京オリムピックと同じような感動は味わえないのでしょうね
sigさんが暮らしていた平屋 僕が生まれてから引っ越した平屋と同じですね
幼稚園の途中まで暮らしていたけど 今までの家で一番良かった家(時かな)です
by いぬ (2009-01-29 19:05)
ChinchikoPapaさん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-01-29 19:52)
いぬさん、こんばんは。
今また東京オリンピックの話が出ていますが、この当時とは国情が違いますから、目的をどこにおいているのでしょうね。
私の結婚は1965年ですから、ご両親とほぼ同じですね。すると多分いぬさんは、私の長男と同じ位でしょうか。とても話がよく分かりますよ。
日本はこの頃からどんどん良くなっていくわけですが、今はどうでしょうか。
by sig (2009-01-29 20:07)
プリンさん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-01-29 20:07)
東京オリンピック開会式の日は、今でも鮮明に覚えてます。
ちょうど、親父が十二指腸潰瘍の手術の日でしてね
私は、小学1年生。
学校から帰り、ランドセルを放り出し
自転車に乗ってたら
上空を自衛隊の飛行機が、大きな五輪の輪を描いていきました。
by 八犬伝 (2009-01-29 21:36)
東京オリンピックの時は テレビがすべてオリンピック中継で
お気に入りのアニメ番組が見れず、とてもつまらなかったのが
思い出です。
競技が楽しめるようになったのは、札幌五輪からです。
ジャネット・リンとかね^^
by yann (2009-01-29 22:01)
そういえば、昔のテレビってガチャガチャとチャンネルを
回すタイプでしたねー!
面白くって、おじいちゃんちのチャンネルをガチャガチャ
回して遊んで怒られた思い出が( ̄m ̄*)
楽して目的を達成・・・その結果、職人さんが少なくなって
しまっているのですね~。
公団に住むには大変な苦労が必要だったんですね。
by あい (2009-01-29 22:07)
オリンピックは花の美大生でした。よく覚えています、懐かしいです。
抽選に当たって公団に越しました。今日その場所に行ってきましたが
狭かったです。あれが当時高峯の花だったのですね
by OMOOMO (2009-01-29 23:24)
八犬伝さん、こんばんは。
小さい頃だったのに、よく覚えていますね。
お父さんからオリンピックのことをよく聞いていたのでしょうね。
コメントありがとうございました。
by sig (2009-01-29 23:37)
yannさん、こんばんは。
そうでしたね。テレビ放送はオリンピック一色でしたからね。
本当に国を挙げて興奮に浸っていたと思います。
1972年・札幌五輪もずいぶん盛り上がりましたね。
こんな記事を書いていますと、読んでくださる方々の世代が分かって楽しいです。(笑)
by sig (2009-01-29 23:44)
あいさん、こんばんは。
ガチャガチャ回すテレビを知ってるんですか。
いたずらしなくても、あのダイヤル部分が真っ先に壊れてしまうのでした。
楽をして目的を達成できたら申し分ないのですが、がんばることとか、労働の尊さとかが忘れられることによって、安易な生き方に流れてしまうと困りますね。
公団住宅は、当時はサラリーマンの憧れの住まいだったのです。だから抽選なのですが、じゃんけんでも買ったことのない私は、ついに当選しませんでした。その方が良かったのか悪かったのか。当たっていたらきっと人生も変わったかもしれませんよ。
by sig (2009-01-29 23:51)
OMOOMOさん、こんばんは。
美大生でしたか。憧れますねー。
公団に住まわれた経験がおありとは、うらやましいですね。
あの当時、私たちから見たら文化生活の最先端でしたから、ほんとにうらやましかったものでした。
by sig (2009-01-30 19:42)
walzさん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-01-30 19:42)
生まれる15年前だ(^_^;)
車のデザインは現在のものよりも好みです。
なのでミニクーパ(40年以上前のデザイン)に乗ってます。
by 猫屋福助(株) (2009-01-30 21:25)
新しい家電が目白押しだったんでしょうね~
オリンピックのためにテレビを....
いや、一般家庭にはまだ無理だったでしょうね~高級品ですよねぇ~
脚付きの家具調テレビは、町内の開館とかでみんなでみたような......
記憶が定かではないですが、そんな写真があったような.....???
(※注意ここだけの話にしといてね! 東京オリンピックは生まれ年です~)
by みかっち (2009-01-30 23:18)
猫屋福助(株)さん、こんばんは。
このつたないブログをみて、みなさんが猫屋さんのように、「生まれる○年前だ」とか「その年に生まれました」とか言ってくださるのがとてもうれしいです。
このブログは自分史ですが、当時を知らない方々に見て頂けることは密かな願いでしたから・・。
ミニクーパーって、WOW! ローバーでしょ? 私も最後の車にしたい車ですよ。
コメントありがとうございました。
by sig (2009-01-31 00:54)
みかっちさん、こんばんは。
うわ~い、みかっちさんの最高の秘密聞いちゃった! ここだけの話ね!
このころ、一般家庭では14インチのモノクロテレビだったと思います。カラーはまだまだ高嶺の花でしたね。それに色も全然良くなかったんですよ。
広告を見ると、今の生活用品の原点がこの時代にあるようですね。
このブログがフリーズしたりしてご迷惑をおかけしている件で、Microsoftに先日電話で問い合わせ、サービスパック3とIE7を組み込み直したのですが、あまり変わりません。Microsoftでは他の原因かも、ということでしたので、あきらめました。そんな訳で申し訳ありません。
by sig (2009-01-31 01:05)
私は小学生でした、東京オリンピックの時には。
オリンピックと言えば、東京オリンピックした記憶に無い位、別格のオリンピックでした。小学校の時に先生に引率されて、映画「東京オリンピック」を見に行きました。写りの悪いテレビで見ていた競技が、大きな画面で見られて、まるであたかも自分がその場に居合わせたかのような感動がありました。
円谷幸吉選手のことは、あの場面よく覚えています。あの時私はテレビの前で、リアルタイムであのマラソン競技を見ていたのです。国立競技場に二位で入ってきてから、イギリスのヒートリー選手に抜かれて、三位になりました。悔しかった。でも、私がこの時応援していたのは、4年後のメキシコオリンピックで銀メダルを取った君原選手でした。マラソンには全く興味のなかった子供でしたが、なぜオリンピックの花と言われるのか、あの時分かったような気がしました。
後年の円谷幸吉選手の遺書。それは、20年ほど前に書いた「とびっくら」と言う童話の中で一部使わせて頂きました。円谷選手の気持ちが余りに悲しかったので。
オリンピックは、あの当時、まだ純粋で、素朴で、平和でした。
by アヨアン・イゴカー (2009-01-31 15:56)
アヨアン・イゴカーさん。こんばんは。
市川崑監督の「東京オリンピック」ははじめて選手という人間を描いた記録映画として高い評価を得ていますね。
アヨアン・イゴカーさんは童話もお書きになるのですか。円谷選手の「父上さま、母上さま、3日とろろ美味しうございました」に始まる遺書は切ないですね。心を打ちますね。
おっしゃるとおり、あの頃のオリンピックはそれほどコマーシャリズムに毒されていなくて、純粋でしたね。
コメントありがとうございました。
by sig (2009-01-31 18:26)
Ja-Kou66さん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-01-31 18:26)
kakashisannpoさん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-01-31 18:27)
実家が電気屋だったので(過去形)、テレビの広告には興味深々でした!
しかし… 高かったのですね…。
公団住宅の応募、ワタシも出していました。当たらないでほしい物件も、ありました。(笑)
外れ30枚になる前に、マンションを購入してしまいましたが…。
by うに (2009-01-31 21:52)
うにさん、こんばんは。
テレビの広告、楽しんでいただいてうれしいです。6万円というのは当時の大卒給料の4か月分位でしょうか。
公団、思い出しますね。落選30回までは待てませんものね。うにさんもやっぱり・・・ね。
次回はちょっと辛らつな話になりそうですが、どうぞよろしく。
by sig (2009-01-31 23:34)
rebeccaさん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-02-01 21:17)
kemmさん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-02-02 15:35)
チョコシナモンさん、こんにちは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-02-02 15:35)
mitsuさん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-02-03 01:04)
leoさん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-02-03 01:05)
whitesoxさん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-02-05 23:58)
ヨタ8さん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-02-16 18:51)
聖火が通る国道へ先生引率で旗振りに
開会式は学校半ドン
あの赤いジャケットは覚えています
テレビは白黒だったけど
褐色の弾丸ボブヘイズ、水泳のショランダー、重量挙げのジャボチンスキー
私の近所には公団があり友人の多くが住んでいた
モダンを絵に描いたような生活
彼らの朝食はパン食で、パパママと親を呼んでいた
モダンな団地族と街場の悪がきのコンビでしたね
by pace (2009-12-06 23:25)
paceさん、こんにちは。
仕事に忙殺されてオリンピックの記憶はほとんどなく、この記事の元になった「毎日グラフ臨時増刊が無かったら1行も書けなかったでしょう。
公団は憧れの的でしたね。そこにはみんながあこがれる「文化生活」がありましたから。
by sig (2009-12-07 13:54)