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「写真」の不思議への目覚め [「動画」の自分史]

動画の自分史-1

            「写真」の不思議への目覚め


 
 子供の頃、雪解けのようやく風も穏やかになった春先の太陽の下で、日光写真を楽しんだ記憶があります。トランプの箱のようなものに、ガラス板を貼り付けた紙製の枠が付いています。種紙と呼ぶ絵の付いたトレーシングペーパーの下に印画紙を置いてガラス板で押さえ、太陽にかざしておきます。カメラではないので、途中でずれたら失敗です。だから輪ゴムで留めておきます。すると3~4分で陽画が焼き上がるという寸法です。定着させないので数日で消えてしまうのですが、白黒逆に描かれた種紙の絵が、焼きあがるとちゃんとした絵に変わることがマジックのようで楽しみでした。出来上がりを待てず、途中で隅を持ち上げたりして、ぼかしてしまったりしました。

   種紙とはいわばネガにあたるもので、私の時代には長谷川一夫、鶴田浩二、中村錦之助などの時代劇スターや、ジョエル・マクリー、ランドルフ・スコット、ジョン・ウェインなど、当時全盛だった西部劇スターが描かれていました。いわばブロマイドの手書き版といったところです。それは子供の遊びの筆頭だったメンコの絵柄にも共通していました。ただ、まだ小学校入学前で、映画館へは連れて行ってもらったことがなかったので、スターの名前は知っていても、映画は全く見たことはありませんでした。

 この当時、つまり私が小学校に上がる前には、駄菓子屋さんで売っているようなおもちゃや雑誌の付録が、随分ためになることを教えてくれたような気がします。付録のほとんどは平らな厚紙から組み立てるもの。それは完全に工作です。私はずっと「幼年クラブ」「少年クラブ」のお世話になりましたが、付録といえば動く花火だったり、光る灯台だったり、あるいは幻灯機、映写機など、紙製とは思えないほど素晴らしいものでした。あれは立派な教育玩具として考案されていたのだということを感じます。「難しくて、ためにならない」教育ではなく、遊びながら学ぶ。講談社(当時は大日本雄弁会講談社)のキャッチフレーズではありませんが、「面白くて、ためになる」、この素晴らしい思想がいつの間にか刷り込まれ、万事そうありたいものだと、成人してからも仕事を通じてずっと頭の片隅にあったような気がします。そしてそれは未だに私の中に息づいていることを感じるのです。


 

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小学生の頃、楽しみは村芝居とナトコ映画 [「動画」の自分史]

動画の自分史-2 

    小学生の頃、楽しみは村芝居とナトコ映画


 

  娯楽といえば雑誌とラジオしかなかったこの時代、村芝居は一大イベントでした。地元青年団の若者たちが村祭りの境内にしつらえた芝居小屋で「白波五人男」や「湯島の白梅」、あるいは自分たちで考えたオリジナルの出し物を演じます。主役は村の花形スターで、毎年時期が来ると、今年は誰がどんな芝居を演じるのだろうと、うわさもひとしきりでした。

 また、各地を回る劇団の芝居が来ると、小学校の屋内運動場(体育館)が会場なので、みんな早めに夕食を済ませ、隣近所に声を掛け合ってゴザを持って出かけていったものでした。床にじかに座ると砂がザラザラしてひざが痛いのです。
 演じられる芝居は菊池寛の「嬰児殺し」や、恋人の戦死で仕方なく別の男性と結婚し、子をなした女性の元に復員した恋人が戻ってくる、というような、どこかで戦争が影を落としている悲痛なストーリーが多く、子供ごころにも胸が痛みました。みんな涙涙で見終わると、帰路はひとしきり「良かったね」「ほんと良かったね」と感想の会話が弾むのでした。
 

 このような暮らしの中に、ある時点から画期的なイベントが加わりました。「ナトコ映画」という16ミリ映画の上映会が始まったのです。映画館でなくては見られない映画を、いつもの小学校の体育館で見られるようになったのです。1947( S22) 頃からで、ナトコとは映写機の名前。占領軍の総司令部(GHQ)が日本人に向けた民主化政策の一環としてナトコ映写機を全国的に配備し、各地で巡回映画会が催されました。1952年(S27)までの5年間で400本ほどの16ミリ映画を配給したとのことですが、ちょうど私は小学入学から卒業まで、ナトコ映画の洗礼を受け続けたことになります。 

 内容は、アメリカの自然や文化生活の様子などを紹介する教育的、啓発的なものが多かったようです。その中で初めて見たカラー映画の1本が忘れられません。一面に広がる黄一色の麦畑。その麦をバサバサと刈り取っていく大型トラクターの躍動感。初めて見る大規模農園の姿でした。その後30年以上も経って、その映画が「アメリカ・ザ・ビューティフル」というタイトルであったことを知ります。ア~メ~リカー、ア~メ~リカー…とリフレインしてアメリカ国家を賛美するテーマ曲は、第二の国歌と言われるほど米国民に親しまれている曲だということです。それですっかり洗脳されて、しばらくはアメリカびいきに仕立て上げられたのかもしれません。ああ恐るべし、ナトコ映画の、いや、その裏にあるGHQの陰謀。映像を駆使したPRというもののすごさを知るのは、ずうっと後、大人になって同じような仕事に就いてからなのですが、このようにナトコ映画は、大人にも子供にもガツンと一発のカルチャーショックを与える強烈なものでした。映画ってすごい! 私の映画好きはこんなところから始まったと言えそうです。
 

 

 「幼年クラブは」小学校入学前から読み始め、小学5年頃から「少年クラブ」にしました。読み物が多くてもルビ(読み仮名)が振ってあるので、漢字の読み方と意味をいっしょに吸収できたと思います。「少年クラブ」「少女クラブ」のライバルとして、光文社の「少年」「少女」も人気がありました。他には「譚海」「少女の友」「少女ブック」「ひまわり」など。これらは読み物が主体で、私たちは知らずに大仏次郎、高垣眸、江戸川乱歩、横溝正史、芹沢光冶良、吉屋信子、林房雄、村岡花子など、そうそうたる作家たちの小説に接していたのでした。また「おもしろブック」「少年画報」などは絵物語や漫画が多く、今日のコミック誌の先駆けとも言えるものでした。

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「ダンボ」で、魔法にかけられて・・・ [「動画」の自分史]

動画の自分史-3

        「ダンボ」で、魔法にかけられて…

 ダンボ.JPG 

  太平洋戦争が始まった年・1941(S16)年に国民学校令が布かれ、戦時中は初等科6年・高等科2年の編成となっていたそうですが、戦後、私たちが小学校に入学した1948(S23)年から今日の6年制の小学校に変わりました。そのため私たちの入学時には、元高等科にあたる生徒たちが残っており、その人たちが卒業するまでの2年間は同じ小学校で同居する形になりました。6、7才も年上の生徒たちは小学1年生にはとても大きく見えました。

  ある日、小学校で授業の時間に特別な映画を見せてくれるということで、元高等科にあたる大きい生徒たちといっしょに屋内体育館に集められました。戦時中、天皇・皇后両陛下のご真影を祀った奉安殿(当時は閉鎖されていましたが、天皇の写真が曲がったまま掛かっていました)の前に大きなスクリーンが下げられ、反対側には卓球台が横に2台。それぞれに生まれて始めてみる大型映写機が並べられています。どうして映写機が2台もあるのか。どのようにして操作するのか。私の興味はもっぱらその茶色の映写機にあり、もっとそばで観察したいと思いましたが、みんなきちんと席順で並んでいるため、映写機のそばに行くことはできませんでした。

  暗幕が引かれ、体育館全体の窓ガラスが覆われて場内が暗くなると、いよいよ映画が始まりました。高らかに鳴り響くサーカスの音楽とともに「ダンボ」のタイトル。それは初めて見るカラー映画でした。その鮮明な画面。魅力的なキャラクターたち。本物が演技をしているような滑らかな動きに、まず度肝を抜かれてしまいました。そして音楽のすばらしさ。特に檻に入れられた母象が、尋ねてきたダンボを鉄格子越しに鼻で抱き上げて子守唄を歌う場面では涙が出ました。

  後半はがらりと変わって、おせっかいなカラスたちが登場します。彼らの歌う歌のリズムの何と新鮮だったことか。そして歌詞の楽しさ。特にダンボが酒の勢いで自分でも知らずに空を飛んだあとで、「そんなの、信じられるかい」という意味で歌うカラスたちの歌。「丸い卵が立ったとて、月が四角に照ったとて、こんな驚いた話は無いよ。象が空飛ぶよ。猫がワンワン吼えても、犬がニャオニャオ鳴いても、こんな驚いた話は無いよ。象が空飛ぶよ」。このくだりは今でもよく覚えているのです。今思うと「ダンボ」のあのモダンな音楽は、当時アメリカで大流行だったスィング・ジャズだと思いますが、とにかくこんなに長い漫画映画を観たことも初めて。何もかもびっくり仰天の体験でした。この時点では、なぜ映写機が2台並べてあるのか、その理由をつかむことは出来ませんでした。たまに後ろの映写機を振り返ってみたりしていれば、その理由がつかめたと思うのですが、私の心はすでにディズニー・マジックの虜となり、両目はスクリーンに釘付けでした。このただ1回の映画会、このただ1本の映画で、私の心にウォルト・ディズニーという名がしっかりと刻み込まれたのです。

  その頃から、文部省選定の映画が封切られると、授業の一環として先生に引率され、長岡の映画館へクラス全員で観に行くようになりました。空襲で焼けてしまったのか、戦後何年も経っていない映画館は板で囲っただけのバラックで、隙間から漏れ込む外光で足元は明るく、外の騒音が聞こえていました。こんな映画館とは呼べない環境で、「手をつなぐ子等(1948稲垣浩監督)」「鐘の鳴る丘(?)」「長崎の鐘(1948大庭秀雄監督)」「忘れられた子等(1949 稲垣浩監督)」を見ました。

 ★この記事を書いたあと、確認の段階で大きな矛盾が出てきました。「ダンボ」はウォルト・ディズニー長編アニメーション第4作として1941年10月、アメリカ初公開。日本初公開の記録は戦後の1954年3月となっているのです。とすると私が中学1年生になる年に当たるのですが、私が観たのは確かに小学1年生の時だと記憶しているので、このずれに戸惑っています。当時「ダンボ」が1954年以前に非公式に上映されたということは無かったのでしょうか。

初めて観たディズニー長編アニメは「白雪姫」と記憶している人も多いようです。「白雪姫」(1937長編第1作)の日本初公開は1950.9.16。大映が洋画部を新設し、サミュエル・ゴールドウィンを通じてディズニー映画を輸入・配給することになった第1回配給作品でした。

★この3月14日から、ディズニー最新作「魔法にかけられて」が全国いっせいに公開されました。 名匠アラン・メンケン作曲のテーマ曲が早くも第80回アカデミー賞主題歌賞にノミネート。「ダンボ」から67年後のディズニー。さあ、いちばん新しいディズニー映画はどんな趣向で楽しませてくれるでしょうか。詳しくは下のアドレスをクリック! 予告編もどうぞ。

ダンボ

ダンボ


「ナトコ映画」をもうひとくさり。 [「動画」の自分史]

動画の自分史-4

「ナトコ映画」をもうひとくさり。  

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●16ミリ映画のフィルム。左が漫画など10分程度のリールで直径は12cm。 

  前(3/7)に「動画の自分史-2」にナトコ映画のことを書きましたが、ナトコ映画会ではGHQ (連合国軍最高司令官総司令部)で製作されたアメリカの紹介や民主主義啓発映画だけを上映するのではなく、戦後、日本で製作された16ミリ映画もいっしょに上映していたようです。つまり、映画が新しい社会意識や生活向上の知識を高めるために大変有効な手段だということを学んだ日本の行政や教育機関が、ナトコ映画会で国産の16ミリ文化映画や教育映画をいっしょに上映することを考えついたらしいのです。その中で「腰の曲がる話」(1950/S25)という映画がありました。内容は全く覚えていませんが、題名が面白かったのでタイトルだけ覚えています。

  また、影絵タッチの「かかし」という国産アニメーションがありました。アニメーションは「漫画」と呼ばれていましたが、漫画は他の映画よりもフイルムの巻きが小さいので、子供たちは映写機に小巻きのフイルムが掛けられると「あ、漫画だ、漫画だ」と騒いで大喜びしました。「かかし」はちょうどその映画を見た頃、シナリオが国語の教科書に載っていました。映画のシーンが端的な言葉で表現されていて、自分が見た映画の場面をはっきりと思い浮かべることが出来ました。それで、「ああ、映画の元になるシナリオはこんな形で書かれているのか」と、大変興味を覚えました。

  さて、村で最大の娯楽であった映画会は、それからもたびたび小学校の体育館で開催されるのですが、暗幕が常設されていないため開催は夜に限定されていました。映写機は卓球台の上に。スクリーンはシーツのような薄い白布を継ぎ合わせたもので、張りを持たせるために下に鉄パイプを渡して重石にしてありました。

 上映プログラムは次第に娯楽性を帯び、長谷川一夫、エンタツ/アチャコ、堺駿二、嵐寛寿郎、美空ひばりなどが活躍する「時代劇」のシリーズや、三益愛子のいわゆる「母もの」と呼ばれるシリーズなども上映されました。ただ、これらの上映がナトコ映画会として行われたものか、別途に開催されたものかは区別がつきません。1953(S28)年公開で、当時話題の「君の名は」も、このような上映会で大人といっしょに見たのですが、調べてみるとナトコ映画はその前年で収束したということなので、この「君の名は」は長岡の映画館による有料の出張映画会だったのかも知れません。同様に「銭形平次」や「鞍馬天狗」も、35ミリによる有料の上映会だったのかもしれません。

 いずれにしても各地で展開された16ミリ映画会は、ナトコ映画会終了後もその映写機を流用する形でそのまま、娯楽の乏しい全国各地で受け入れられていったようです。映画会では、子供たちの座る場所は大人より前の方とみんなが認めていました。会場は大変な混雑をきたしていたこともあり、ふざけも手伝って、スクリーンの裏側に仰向けに寝転んで、逆に映る映像を見て大喜びしたりしていました。

 それにしても、映画はどうしてこんなに楽しいのだろう。写真が動くカラクリを知りたい。もっとたくさん映画を観てみたい。私は、ますます高まっていく映画に対する好奇心を抑えることができませんでした。


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35ミリから16ミリに進化した子供用映写機 [「動画」の自分史]

動画の自分史 5 

35ミリから16ミリに進化した子供用映写機 

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●おもちゃの35ミリ映写機。フィルムリールがプラスティックであることから、私の時代より数年後のものでしょう。この展示で掛けてあるフィルムは動画ではなくスライドです。映画用のフィルムがなかったのだと思います。

 子供の頃、教科書の隅に簡単な漫画を書いて、パラパラめくって動かして遊んだことを覚えておりますか。また、雑誌の付録についた紙製のカメラや映写機を組み立てて、実際に写真を写して現像してみたり、あるいは紙フィルムを掛けて動画を楽しんだりした経験があるのではないでしょうか。私の場合、小学校の教科書のほとんどに、パラパラ漫画を書き込んでおりました。適度な反発力を持つ紙の厚さと、きちんと揃っている裁断面がパラパラ漫画に最適でした。絵が不得意なのと、手っ取り早く動かしてみたいのとで、描いたのはもっぱら線画です。頭は丸く、手足は棒だけ。それでも1ページごとに少しずつ動きを変化させて描いていけば、見事に動いてくれました。横移動だけでは面白味が無いので、近づくと大きく、遠ざかると小さく描いて、遠近感を出すなど工夫しました。こうした知識は兄たちの書いたものを真似たり、クラスで友だちと見せ合ったり、時々付録に付くフリップブック(パラパラ漫画のこと)の絵を良く観察することで磨かれていきました。実はこのパラパラ漫画が動画の原点である訳ですが、通常は児童の一過性の遊びです。私はそれを卒業できずに今日まで来てしまったのでした。

  小学生の頃から、私がいちばん欲しかったものはおもちゃの映写機でした。前部がフィルムを通して動かす機構、後部がメッキすらされていない薄い鉄板で囲われたランプハウスで、その中に上から裸電球を吊るします。フィルムは35ミリ幅で1巻は50フィート(約15m)。昔、映画館で使用済みの時代劇映画のフィルムを活劇シーンだけを選んで切り分けたようなものでした。もちろん音声はありません。1巻の上映時間は手回しですから自由自在。早く回せばチョコマカ動き、遅く回せばスローモーション。5分くらいは楽しめたようです。雑誌の隅に映写機の広告が載っていて、上と下にフィルムリールがあるものと、上のリール(フィルム供給リール)だけのタイプがありました。当然リールが二つ付いたものの方が高価でした。見掛けも断然二つリールの方がいい訳ですが、値段を考えると、フィルム垂れ流し方式の一つリールでも仕方ないかなと考えたりしていました。

  当時は、お正月だ、子供の日だ、と言っても、子供たちがお小遣いをもらうようなことは無く、必要に応じて出してもらっていましたから、貯めたお金がある訳ではありません。それに、野球のグローブを買ってもらったばかりでした。それまでは学校の備品を使っていたのですが、いつの頃からか自分のグローブで野球をするようになったのです。友たちが先に皮製の黄色いグローブを買ってもらい、得意そうに見せてくれました。けれども私にはグローブなどはどうでもよく、仕方なく買うものでした。「みんな皮のを持ってるの?」と聞く母に「布のでいいよ」と言ってお金をもらいました。色は暗い緑。ほぼ真ん中に薄い丸い豚皮が張ってあり、ボールを受けるとバシーンと音がして手のひらが赤くなるような代物でした。そんなこともあって、子供ながらに気が引けて「映写機を買って」とは言い出しかねているうちに中学生になりました。

 数年経ったこともあって、もっと格好のいい映写機が現れたことを少年雑誌の広告で知りました。まずカタログだけでもと早速取り寄せました。写真を見ただけで、小学生時代に欲しかった35ミリ映写機とは大ちがいです。いちばん大きな違いは、使用するフィルムの規格です。35ミリではなく16ミリなのです。機体も安っぽい鉄板ではなくダイキャスト(鋳造品)で、ちゃんと上下にリールが付いています。手回しは変わりませんが、普通の電球ではなく専用の映写電球を使います。そのためランプハウスも小さく、全体がコンパクトで、本物の映写機のミニ版といった感じのすてきなスタイルです。残念ながら機種名を忘れてしまいましたが、東京の三和映材という会社が製作したものでした。フィルムは40フィート(約12m)しか掛からないのですが、1コマの画面が小さい分だけ同尺の35ミリよりコマ数はほぼ倍になり、その分長時間楽しむことができます。待ってて良かった、と思いましたが、中学生の頃は汗にまみれる農家の手伝いがいやでたまらず、逃げてばかりいたことあって、やはり「買って」とは言えませんでした。

 けれども、欲しい気持ちは募るばかりです。そこで苦肉の策として、とりあえずフィルムを1本買うことにしました。500円。少年雑誌が100円ほどの時代です。手元にある小銭を集めれば何とかなりそうです。カタログを見ると、何と、「ダンボ」で一気に大好きになったディズニーの短編アニメも並んでいます。ただし全部モノクロです。たくさんのリストの中から1本を選ぶのはとても大変でしたが、「ミッキーの猛獣狩」という作品を選んで発注しました。インターネットで申し込むと2~3日で宅配されてくる現在と違って、郵便局へ行って現金書留を使って申し込み、届くまでに10日は掛かったと思います。

  さて、フィルムは届きましたが、映写機は無いのですから動画として見ることはできません。やりたいことが出来なければ工夫するしかありません。私には、映画が動く秘密は1コマずつ変化するフィルムにあるということが分かっていましたから、映写はあきらめて、とりあえずフィルムを1コマずつ掻き落として見ることにしました。菓子箱の白い厚紙を敷き、その上にフィルムを引き出して左手で抑えると、人差し指の爪くらいの小さい画面が連続して見えます。機械でフィルムを送るための穴(パーフォレーション)にコンパスのとがった先端を入れて1コマずつ下に送る。慣れたら少し早く。すると何とか漫画が動くことを確かめることができました。私が工作少年だったら、きっと自分でフィルム送り機構を考え出し、後ろにランプハウスを付けた映写機を作り上げたのでしょうが、あいにく工作は苦手だったので、それからはもっぱらフィルム遊びにはまり込んでいくことになります。時に1955(S30)年、中学2年生でした。

  惚れ込んだら何年でも待つ。何年経っても気持ちが変わらなかったら、それは本物・・・。何か、古い時代の恋愛談義のようになってしまいましたが、欲しい映写機を「我慢すること」で、それがどれ位自分にとって大事なことなのか、本当に価値のあるものなのか、この気持ちは本物なのか、ということを見極めることが出来るのだということを学んだ気がするのです。

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●上は16ミリ手回し映写機と「ミッキーの猛獣狩」(1937製作)のフィルム。フィルムは通常の1秒24駒のものからわざわざ等間隔にコマを抜いて、手回しスピードでちょうどいい動きを得られるように短縮されています。ですから12mでも内容的にはほぼ映画の始めから終わりまで収めてある良心的なものでした。買った時からフィルムがつないであったのもご愛嬌(ミッキーの顔の右下)。

●中央は猛獣が木の枝を中心に回転するシーンの描かれ方。ひと齣ひと齣虫眼鏡で覗いて、飽きずにその変化を観察したものですが、実写と違い、不要なものが写りこんでいないアニメーションはその観察に最適でした。

●下左は「ミッキーの猛獣狩」のパッケージ。リールの直径は7cm。1巻の長さは約12m。私が実際にこの作品をトーキー/カラー映画としてWOWOWで見たのは、この時から40年程も後のことでした。

下右は通常の上映に使われる10分リールとの比較です。

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