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子供のカメラは蛇腹のカメラ。大人のカメラは二眼レフ。 [「動画」の自分史]

動画の自分史-6

子供のカメラは蛇腹のカメラ。大人のカメラは二眼レフ。


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●「スタート35」で撮影した写真(原寸は24×24mm) 1955(S30)年頃。 
  下右は「スタート35」のイメージ
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気持ちの上では、動く写真、つまり「映画の仕掛け」に大きな関心を抱いていた小学生時代でしたが、ブリキ製の手回し映写機を買ってもらえないことが分かると、もっと身近なカメラ(はじめは写真機と呼んでいた)に目が移りました。1950年(S25)前後の子供向けカメラといえばその多くが蛇腹式でした。レンズ部と本体が丈夫な紙を折り畳んだ蛇腹でつながっていて、撮影時にはレンズ部を前後にスライドさせてピントを合わせる仕組みです。携帯時には蛇腹を畳むと本体にきちんと収まるようにうまく作られていました。
 
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●種版に写す方式の初期の蛇腹式カメラ。ファインダーは上から覗き込みます。
 1951(S26)年「少年クラブ」の広告より。
 
 
ルム(当時はルムとは発音しなかった)はロールではなく「種板(たねばん/たねいた)」と呼びました。ケータイの2.8型画面位の大きさに切ったフイルムが1枚ずつ黒い紙の枠に入っていて、ふたで密封されています。カメラ本体の背中には摺りガラスが張ってあり、そこでピントが合ったことを確認すると、摺りガラスの前の溝に種板を差し込み、ふたを引き上げてフイルム面をカメラの中で露出させ、撮影準備OKです。シャッターを押して感光させた後は種版枠のふたを下ろして写真機から引き抜き、「現像Development」に出します。当時は写真はまだ高価なので、大抵は「引伸ばしEnlargiment」をせずに撮影したままの大きさで「焼付けPrinting」る「密着」がほとんどでした。この「現像」「焼付け」「引伸ばし」を略してDPEと呼ぶ訳です。

 それから間もなく、子供向け蛇腹式カメラも本体にロールフイルムを収め、手で巻き上げる方式に変わります。けれども蛇腹式は、プロ用大型機材は別として、更に使い勝手が良くデザインも斬新な新型カメラの出現により、急速に衰退していきます。

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●ロールフィルム使用の蛇腹式カメラ(スプリングカメラ)は、実は戦後間もない頃から作られ、実業面で使われていました。
左「ピース」、右「ミノルタ」共に1946(S21)年製。 講談社「日録20世紀 1946」および「同・スペシャル」より

 

 
この頃、実用品としてのカメラでは「リコーフレックスⅢ型」(1950年3月発売)に代表される「二眼レフ」が全盛を極めていました。レンズが縦に二個並んでいて、上のレンズはファインダー用、下のレンズが撮影用です。レフとはレフレックス(反射鏡)の略で、上のレンズから入った光を45度に傾けた鏡でカメラ上部の摺りガラスに結像させて見る方式です。それまではファインダーで見た画面と実際に写る画面がずれるという問題(パララックス)がありました(近いほど大きくずれるので、顔や片手が切れるようなことが良くありました)が、二つのレンズを垂直の同軸上に配置したことでその問題は一応解消されました。画面サイズは6×6センチで「66版(ろくろくばん)」と呼ばれ、そのまま「密着」にしても十分なので、多方面で重宝されたようです。

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●1950年代を風靡した二眼レフカメラ「リコーフレックスⅢ」7.500円なり。
 
講談社「日録20世紀 1950」より

 
 こうした動きの中で、1950(S25)年頃に児童も簡単に楽しめるカメラということで売り出されたのが一光社による「スタート35」でした。もう蛇腹式ではなく、万年筆の素材と同じエボナイト樹脂を使った形の良い黒いボディ。直径2センチほどの単玉・固定焦点のレンズが付き、シャッタースピードはインスタント(カメラ任せで1/30秒程度)とバルブ(シャッターを押している間は開いている)の2段階。カメラの上ぶたを外してフイルムを装てんします。フイルムは35ミリの「みのりフイルム」。穴が無く、写る画面は24ミリほどの真四角で、これはボルタ版と呼ばれました。フイルムスプールには等間隔に数字が印刷された裏紙がフイルムといっしょに巻かれていて、その数字をカメラの裏窓で確認しながら1枚ずつ巻き上げるという仕組みです。フイルムの装てんも撮影もとても簡単で、しかも良く映るというので、子供たちの間で大人気でした。

 
 その「スタート35」を中学校入学のお祝いか何かで買ってもらったらしいのです。もちろん頼んだから買ってもらえたはずなのですが、らしいという記憶は、この当時自分が本当に欲しいと思っていたのはオモチャの16ミリ映写機だったからで、うれしさも中くらいなり、といったものだったからかもしれません。いずれにせよ、子供にとってはフイルムも高価なので、やたらに撮るような無駄はできません。中学生で写真撮影といえば学校行事くらいしかなく、手元の古いアルバムには、中学生の制服を着て母校の小学校校庭で写したものや、春の遠足、夏の臨海学校などの写真が「密着」の小さい印画紙のまま、多少黄ばんで残っています。

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●自宅前の野菜畑     ミーちゃん       中学校、体育館の入口
 ネガはありませんので、いずれもアルバムからデジカメで接写したものです。

 当時の写真好きな人たちは、自分で機材や薬品を揃えて、いわゆる「押入れ現像」を行っていました。現像・焼付け・引伸ばしを行うには「暗室」が必要なため、夜になると押入れにこもって作業をしたのです。この頃私が「密着写真」に満足できず、もっと大きな写真をという方向に向かったとしたら、多分「押入れ現像」に進み、その先はスチル・カメラマンになっていたかも知れないと思うことがあります。幸か不幸か、私の場合、幼いながらも家の経済状況は分かっていましたから、フイルム以外にお金を掛けることなど思いもよらず、ただただ「本当は映写機が欲しい。動く写真をやりたい」と思い詰めていました。

●余談
 社会人になってから、仕事で「富士フイルム」「キヤノン」に出入りさせて頂きました。両社とも伝統ある社名に誇りを持ち、「うちの社名表記は<フルム>ではありませんよ」「キヤノンの<>は大文字であることをお間違いなきよう」と念を押されました。もちろん今も変わらず。両社の新聞広告、カタログ、WEBをよくご覧ください。「富士フルム株式会社」「キノン株式会社」と、両者とも大文字表記になっているはずです。

 

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手作り紙フィルムに明け暮れた少年時代 [「動画」の自分史]

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●おもちゃの35ミリフィルム(左手)と、手作り16ミリ紙フィルム(手前から右手)

手作り紙フィルムに明け暮れた少年時代

 おもちゃの16ミリ映写機が欲しい。欲しくてたまらない。けれども買ってもらえない。
おこづかいもない。それならばせめて動く写真の秘密の一つであるフィルムだけでも、と小学高学年から中学生時代、私の映画に対する興味は異常なほどにフィルムに向けられていきました。

 とはいっても、本物のフィルムは簡単に手に入りません。それなら自分で作ろう、ということで、紙テープを探してそれに万年筆で絵を書き込むことにしました。その絵を動かすためには、一コマごとに少しずつ動きを違えて書いていけばいいことは、教科書の隅に書いたパラパラ漫画で実証済みです。問題は細いテープですが、和服の縫製にちょうど16ミリ幅ほどの薄茶の紙を使うようで、母からもらってそのテープに等間隔に横線を引き、ひとコマごとに絵を書き込み、16ミリフィルムらしきものを何本も作りました。


  では、その手書きフィルムは動くのか。これが立派に動くのです。画が動くのは残像現象によるものですから、ひとコマずつ瞬間的に止めて見ればいい訳です。つまり、テープフィルムを一コマ分だけ引き上げる感覚を掴んで、一定のスピードでそれを繰り返すのです
。これには若干の訓練が必要ですが、慣れると自分の書いた絵がちゃんと動いて見えました(動画参照)。そのうち16ミリ幅では大した絵がかけないので、薄手の画用紙を35ミリ幅に裁断してつないだ35ミリ紙フィルムも何本か作りました。

「機関車の衝突」無音)

 この当時「少年クラブ」に連載されていた手塚治虫の「ロック冒険記 1952(S27)」の画風が大好きで、物語は自分で考え、そのキャラクターに動いてもらいました。
ちなみに、手塚治虫の「鉄腕アトム」が始まったのは1951(S26)年で、当時私は小学4年生。アトムは私が読んでいた「少年クラブ」のライバル誌「少年」に連載されていたため、私にはなじみがありませんでしたが、1952(S27)年、1年遅れで少年クラブは手塚治虫を「ロック冒険記」で登場させたのでした。

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●手塚治虫「ロック冒険記」1952(S27)ロック少年がとにかくカッコ良かった。
 
下部には子持ちのヒョータンツギ。
 初め名前が分からなくて、勝手にブタトン草と呼んでいました。


  このように、休日は朝から晩まで紙フィルム作りに明け暮れていましたが、そんな私を兄たちは「フィルム気違い」と呼んでいました。「気違い」という言葉も差別用語ですが、私のことを言ったものですから構わないでしょう。今風に言えば「フィルム狂」「フィルムフリーク」と言うほどの意味合いでしかありません。


 とにかく、自分で書いた紙フィルムの絵が動いて見えたものですから、手元にある本物のフィルムの切れ端も同様な手法でひとコマずつ引っ張って写真が動くことを楽しんだことは言うまでもありません。下の写真はそのための手動式超簡易動画装置?ですが、このマッチ箱の隅をコンパスの足で1コマずつ引っかいている様子を見たら、誰だって「フィルム狂」に見えたことでしょう(動画参照)。 


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●写真左上/超簡易ビューア マッチ箱の裏はくり抜いてあり、窓ガラスに当ててコンパスで1コマずつ引っかいて見るのです。
●写真右上と下/漫画映画のフィルム 両方とも「日の丸旗之助」のように見えますが、キャラクターはかなり違います。両方とも中国戦線を戯画化したもののよう。


●上の右のフィルムを手動で動かしてみます。
猟師が撃った鉄砲の弾が大砲の弾のように大きくなって旗之助に迫ります。旗之助はその弾につかまり、空へ飛んで行きます。

  少年時代にある、こうしたある種偏執狂的傾向は、現在ならゲーム機やケータイなどに向けられるのかもしれません。私たちの場合はそこにある完成品で遊ぶのではなく、鉱石ラジオにしても模型ヒコーキにしても、それを組み立てる過程で多くの失敗を重ねながら、創意工夫でよりよいものへと作り上げていくプロセスを経なければなりませんでした。それだけに、うまくできたときの達成感は大きいものでした。

★上記の紙フィルムについては後日談がありますが、お話しするのはまだまだ先のことになります。

「毎日が発見ネット」モノマニア / 株式会社リツメイ・コーポレーション

ほめない父のほめ言葉 [「動画」の自分史]

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●1948(S23)東芝5球真空管式ラジオ受信機 文芸春秋「ノーサイド」より

ほめない父のほめ言葉 

 家庭の娯楽の中でもっとも大きな比率を占めていたラジオ放送に民間放送が加わったのは1951(S26)年から。けれどもそれを聴けるのは電波経路の整った大都市に限られ、長岡では相変わらずNHKしか聞くことができませんでした。
 
ちなみにNHKではこの年の正月3日に第1回紅白歌合戦が開かれたと資料にありますが、司会は加藤道子さんと藤倉修一アナ。藤山一郎、東海林太郎、近江俊郎、渡辺はま子、菅原都々子、暁テル子、赤坂小梅といった人気歌手たちが一堂に会して歌を競ったこのステージは、さぞ全国のお屠蘇気分で盛り上がるお茶の間をにぎわしたことでしょう。NHKのラジオは第一放送と第二放送と2局あり、第一は娯楽志向、第二は教養志向の番組が組まれていたように思います。

 当時のラジオの人気番組は、子供も大人も圧倒的に野球と相撲でした。人気は巨人軍で、水原監督の元に別所、川上、与那嶺などが活躍していましたが、子供たちにとっての人気者はやはり赤バットの川上と青バットの大下でした。相撲では横綱千代の山と鏡里。ボクシングでは日本初の世界チャンピオンとなった白井義男の試合を手に汗握って応援しました。どれもアナウンサーの実況放送を耳で聞くだけで画像で見ているわけではないのですが、名調子を聞くとその場の光景がはっきりと見て取れたような気がしたのは、今思うと不思議です。また、父の好きな浪曲や講談も聞きました。

  これは、私が学校から帰ると勉強もそっちのけで、毎日のように手作り紙フィルムを作って遊んでいた1952(S27)年、小学5年生の頃のことですが、夕方になるといつも軽快な歌声が聞こえてくる子供番組がありました。サトウハチロー作「ジロリンタンものがたり」。サトウハチローという作家は「少年倶楽部」に熱血小説を連載していた佐藤紅禄という作家の子息だと聞いており、私が愛読していた「幼年クラブ」「少年クラブ」などに詩を書いていた人なので、その人の連続ドラマということでよく聞いていました。ストーリーはまったく覚えていませんが、テーマ曲の旋律は今でも頭に入っているくらいですから、よほど熱心に聴いていたのでしょう。

  ところがある日、その旋律を口ずさんでいるうちに、いつの間にか歌の歌詞とは別の言葉が浮かんできました。そこで、忘れないように書き留めていくうちにどんどん発展し、替え歌による物語が出来上がりました。それは現代ものの「ジロリンタンものがたり」とは似ても似つかない時代物でした。
 
一部を今も覚えていますが、恥ずかしながらこんな具合です。

「壷はどこかと 旅に出た、 
 
てく助テクテク 山道を、
 
歩けば怪しい 話し声、 
 
山賊組が 三人で、
 
ヒソヒソコソコソ 泥棒を、 
 
しようと話をしてました」

 
…と始まって、いよいよてく助と泥棒たちの間に剣劇の火蓋がきって落とされるのですが、その決着が付くまでのいきさつが延々と10番以上続くのです。
 
「壷」とは丹下左膳のこけざるの壷から思いついたものでしょう。山賊の発想は、兄たちが読んだお下がりの、宮尾しげを作「団子串助漫遊記」中島菊之介作「日の丸旗之助」「○□さんゝ介さん(まるかくさん、ちょんすけさん)」の単行本からの影響がありそうです。剣劇シーンの立ち回りはチャンバラ映画の影響があることは明白です。

  残念ながら途中はさすがに忘れてしまいましたが、最後は
「…コウモリすいと 空を飛ぶ 
  行方も知らない 旅の空、

  たった一羽の 旅がらす」
…と、長谷川伸作「一本刀土俵入り」のような股旅物もどきになって決着するのでした。

 この替え歌物語を書くことに熱中しているところに、野良から父が帰ってきました。いつも言うこと聞かない悪い子だった私は、父の姿を見るとすぐに逃げ隠れしていたのですが、その時は夢中だったので逃げそびれてしまい、ゲンコツが飛んでくることを覚悟で床の上にかしこまりました。父は床に広がった鉛筆と紙片を見て私が何をしていたかを確かめると、「見せてご覧」と手を伸ばしました。仕方なく恥ずかしい思いでその紙を手渡しました。すると父はひと通り読み終え、「お前は文章を書くことが上手だね」、と言ってくれたのです。

  てっきり怒られると観念していた私には、それはとても意外なことでした。なぜなら、今まで父にそのようないい方で褒めてもらった経験が無かったからです。だから、父の言葉は私の胸に響きました。父がこんな文章を褒めてくれた。そのことが、もしかして自分は物書きみたいな職業に向いているのかもしれない、という気にさせました。滅多に褒めない父の言葉は、小学5年生の息子にはそのような重さで届いたのでした。


ゴチャまぜの中に、映画の進化を見た [「動画」の自分史]

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●ディズニー長編アニメ「ファンタジア」(1940) 日本初公開1955

ゴチャまぜの中に、映画の進化を見た


 映画「ALWAYS三丁目の夕日」とその続編の大成功によって、巷では昭和30年代がますます脚光を浴びているようですが、映画をメディアとして考えると、昭和30年代(1955~1965)というくくりよりも1950年代(1950~1960)というくくりの方が分かりやすくなります。

 1950年代は、それまでほとんどの作品がモノクロ(白黒)、スタンダード画面(画面の縦横比3:4)、モノラル音響で上映されていたものが、技術革新の成果によって、まず「総天然色映画」(分かりやすくて絶妙な表現ですね)に変わりました。それだけでも画期的でしたが、その数年後にはシネマスコープに代表されるワイドスクリーンが登場し、映画の迫力が大幅にスケールアップしました。

画面が横に大きく広がれば、当然音響の広がりも求められます。業界はそれを当然のこととして、ワイドスクリーンの上映館はその導入と同時に場内をステレオ音響空間に改造しました。こうした大きな変化が1950年代の10年間に進んだのでした。映画史上いろいろな上映形式が混在した激動と混迷の10年間。それが1950年代と言えるでしょう。

当時、小学生高学年から中学生を経て高校生に至る10年間、奇しくも私はその真っ只中で、劇的に変化し続けるスクリーンを見つめ続けたことになります。それはまた、映画そのものを楽しむという興味の他に、映像という文化を支える技術革新のすばらしさを気づかせてくれました。そしてそれが、フィルムに定着された連続写真がなぜ動くのかという疑問に始まった私のもうひとつの興味になったのでした。

 それはともかく、戦後の子供たちのヒーローは断然ターザンでした。ターザン映画は1918年、エルモ・リンカーン主演の無声映画に始まって、どこまでがエドガー・ライス・バローズの原作ものか分からないくらい続々と製作されました。6代目の的を射止めたオリンピック水泳選手ジョニー・ワイズミュラーが歴代で最高との評価が高いのですが、それらはすべて1940年代の話。私たちが観たのは1951(S28)年の「ターザンと密林の王女」ともう1本くらい。主演はレックス・パーカーでした。そんな訳でターザン映画は東映子供向け時代劇からの卒業と同時に卒業しました。その先に待っていたものが、現在の図書館の資料区分で言うところのヤングアダルトを対象とした放射能や宇宙をテーマにしたSFものです。

朝鮮戦争で開けた1950年代は、米国とソ連の核開発競争が熾烈を極めた時代です。一方で、米ソは宇宙開発においても激しく競り合っていました。日本では、ビキニ環礁で核実験の被害を直接受けた第五福竜丸の悲劇が引き金となって「ゴジラ(1954 S29)」が生まれました。また、アメリカではネバダ砂漠の水爆実験による放射能で巨大化したアリが、ロサンゼルスを恐怖のどん底に落としいれる「放射能X」が同年公開。更に1956(S31)年にはアメリカで「ゴジラ」にそっくりの「原始怪獣現わる」という巨大恐竜映画が製作されました。このように、怪獣映画の発生源として「核」が存在していた訳ですが、その他にもワクワクドキドキして見たB級映画に「大アマゾンの半魚人」「猿人ジョー・ヤング」(共に1954 S29)があります。

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●「放射能X(エックス)」1954       ●「原子怪獣現わる」1956
たまたま発見! 絶対お勧め。
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「半魚人」の原題は「Creature from the Black Lagoon
」で、アマゾンとはまったく関係が無いのですが、英語が分からない私たちは完全にごまかされていたことになります。「猿人ジョー・ヤング」は「キング・コング」(1933 S8)の亜流と評されることもありますが、当時「キング・コング」を知らなかった私には、ジョーのマペットアニメがすばらしく(「キング・コング」を動かした練達のレイ・ハリーハウゼンによる)、自分を育ててくれた少女を身を挺して大火災から救出するシーンでは本当に感動しながら観ていました。

この頃の映画はモノクロ、スタンダード画面で、音響は広い館内にくまなく音声を響かせるための複数のスピーカーシステムはとられていても、音声そのものはステレオではありませんでした。

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●「大アマゾンの半魚人」1954       ●「猿人ジョー・ヤング」1954


  ところが1956(S31)年だけを見ても、「居酒屋」「ヘッドライト」「黄金の腕」「必死の逃亡者」はモノクロ/スタンダード(画面縦横比3:4)。

「赤い風船」「白鯨」「禁断の惑星」「空中ブランコ」はカラー/スタンダード。

「王様と私」「エデンの東」「理由なき反抗」「ジャイアンツ」「戦争と平和」はカラー/ワイド/ステレオ音響です。

これだけメニューが多いと、今日は総天然色で行こうか、大スクリーンで楽しもうか、あるいはモノトーンでシックに行こうかと、いろいろチョイスして楽しむことができます。もちろんスクリーンサイズによって映画館も異なるので、映画そのものの他に、少しリッチに楽しみたい場合はワイドスクリーンのロードショーを、というように選択できたのでした。

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●上「白鯨」1956             ●「エデンの東」1956


  この頃、ディズニー映画もたくさん上映されました。1955(S30)年にはドキュメンタリー映画第1作で、サボテンの花がスローモーションで開く美しさにうっとりさせられた「砂漠は生きている」。世界の名曲をアニメ化し、「目で見る音楽。耳で聞く映像」と銘打って驚異的な展開を見せた「ファンタジア」。いつまでも年を取らないという、うらやましい少年が活躍する「ピーターパン」。こ
の3作品です。これらの作品はカラーでしたが画面はスタンダードでした。
 
ところが翌1956(S31)に公開された「海底二万哩」と「わんわん物語」 はガラリとスタイルが変わりました。シネマスコープが本格導入され、「海底二万哩」では人が操る大ダコとの死闘シーンが大画面いっぱいに繰り広げられ、ジュール・ベルヌのSF世界を見事に視覚化してくれました。また「わんわん物語」はディズニーのシネマスコープ長編アニメ第1作として公開されたのでした。このように毎年押し寄せるディズニー映画、それも押し寄せるたびに進化しているディズニー映画の魅力に、私のディズニー熱が加速度的に昂じて行ったことは言うまでもありません。

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フィルムフリーク、中三で映写技師になる。 [「動画」の自分史]

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フィルムフリーク、中三で映写技師になる。 

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●長岡市立山本中学校の航空写真(
1977/S52「創立30年記念誌」より) 
 山中坂(写真下方)を上り詰めると正面が職員玄関。生徒は左の体育館入口にある
 玄関から入ります。
  

 1953年から55(S28~30)年にかけての中学生時代。学校の授業で定期的に映画の時間が設けられていました。文部省選定の教育映画、文化映画、記録映画といったものを見せられたのですが、岩波映画、学研映画、英映画社、桜映画社(順不同)などの優秀な作品が配給されていました。また時々は東映教育映画部製作の児童向け劇映画もありました。 

 
人気が高かったのはやはり劇映画でした。東映映画はもっぱら映画館で、中村錦之助、東千代之介、大友柳太郎などの美剣士や、高千穂ひづる、丘さとみ、大川恵子などのお姫様が登場する時代劇でなじみが深かっただけに、映画館で見るのと同じあの暗い海に波が砕ける東映マークが教室のスクリーンに映し出されるのはどこか違和感がありましたが、中学生だけが大勢で無人島生活をする十五少年漂流記のような冒険映画や、野口英世の半生を描いた偉人伝などを観た記憶があります。どれも1時限50分の範囲でちょうど収まる長さに作られていました。(これらの分野から、その後そうそうたる映画人が多数輩出されたのでした)

 映画の時間がある日には、映写機を設置したり、上映前に点検整備したりする必要があって、それも勉強になるということから「映写班」というものが設けられました。私はクラブ活動では「演劇部」に所属し、「放送部」と「図書部」にも関心があったのですが掛け持ちはNOでした。けれども「映写班」はクラブ活動と違って授業中のお手伝いなので、他の部に入っていても参加できるのです。大好きな映写機のそばにいられるなら、と考えてすぐに「映写班」に入ったことは言うまでもありません。
 映写機は16ミリ。映写技師は先生です。16ミリ映写機は学校の備品ではなく、登校路・山中坂のふもとにあった町役場から映写班が借り出して、そのつどスピーカーなどといっしょにリヤカーで学校まで運び上げていました。

 
この頃、別の学校で教師をしていた二番目の兄がたまたま視聴覚を担当していて、16ミリ映写機の説明書やフィルムリストなどがたくさん兄の部屋においてありました。それは私にとってはとてもありがたいことでした。いなかでは簡単に図書館に行って調べるというわけには行きませんし、例え映画に関する専門書が見つかったとしても、きっと難しすぎたと思います。兄の書棚にある16ミリ関係の解説書やマニュアルはその点とても具体的で分かりやすく、毎日興味深く読み込んでいきました。

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●左/これは8ミリ映写機ですが、フィルムを掛ける要領が分かりやすいと思います。
 レンズ部を挟んで上下にあるスプロケット(歯車)にフィルムのパーフォレーション(穴)を合わせて留める際、上下にフィルムのループ(たるみ)を付けることが必須。これが適正でないとフィルムが切れてしまいます。
●右/16ミリ映画フィルムのリーダー部分(カウントダウンの最後は②) 

 
兄の資料は教科書。そして私にとって実技にあたるものが学校の映画の時間でした。
 先生に教わりながら実際に映写機をセットし、電源をつなぎます。フィルムリールから2メートルほどフィルムを引き出し、床に垂れないように肩に掛け、リールを上のアームに掛けます。それから映写レンズとランプハウスの間のプレッシャープレートと呼ぶ部分にフィルムを通すのですが、その上下にスプロケットと呼ぶ歯車があり、その突起にフィルムの穴(パーフォレーション)を合わせてパチンと止めます。その際、適正なループを上下に作らなければなりません。このフィルム装填作業はとても細かくて面倒なのですが、ちょっとしたコツを覚えると楽しい作業に変わります。こうして残ったフィルムの先端を巻き取りリールに巻き付けたあと、スレディング・ノブを指先で回してフィルムを送り、確実に運ばれることを確認します。これで映写準備完了。
 映写レンズの前に手の平をかざして、モーターのスイッチを入れるとフィルムが回り始めます。2秒後にランプを点灯。…8…7…6…と続くカウントダウンの数字を手の平に受けて、2の数字が閃いた直後に素早く手を引くと、ジャーン、と格好良く、ちょうど頭から映画がスクリーンに映し出されます。
 この映画が始まるまでの助走時間(リーダーフィルムの規格)は国際的に決まっているのです。これら一連の作業がうまくいくと、自分が映写技師になったようで、本当にうれしい気分でした。

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●映写班のメンバー 1~3年生で編成
 写真撮影の時、16ミリ映写機がなかったので、スライド映写機を急きょ用意。

 
さて、授業がなくなるのでみんなが楽しみにしている映画の時間なのですが、ある時、<今日は女子だけ、男子は自習>ということがありました。いつもは映写窓越しに壁を隔てた隣の教室に映画を映すのですが、その時は映写機を隣の教室の中に据えるように言われました。その日はそれで「映写班」はお払い箱です。こちらの教室には、好奇心の強い腕白坊主たちだけが取り残されたかたちで蚊帳の外。自習にも打ち込めず、「どうして女子だけなんだー」と映写窓から覗こうとしましたが、窓は内側から厳重にふさがれておりました。当時、あの方面の教育は、学校ではこの程度で済まされていたようでした。

 
この頃、中学校に初めて録音機(テープレコーダー)が導入されました。メーカーは当時「東京通信工業(東通工)」と名乗っていたSONY(このネーミングは1955年から使用)でした。東通工がテープレコーダーを初めて発売したのは1950(S25)とありますから、それから5年後。価格もかなりこなれて、学校での導入が可能となったものでしょうか。機体はみかん箱を一回り大きくしたような重量級です。録音テープのベースは紙製で、そこに茶色の磁気粉を塗布したものでした。
 学校では録音機導入記念として「音楽部」の演奏などを録音したように記憶していますが、私の所属していた「演劇部」では放送劇をやることになりました。みんなで話し合ってトルストイの「コーカサスの虜(とりこ)」に決め、選曲ではレコードを何曲も聞き比べた結果、荒涼とした風景やストーリーのイメージにいちばん近いと思われた「中央アジアの草原にて」に決めました。テスト録音で自分の声を聞いたとき、何か別人の声のように変わって聞こえたことがとても不思議だったことを覚えています。

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●東通工(現ソニー)、日本初のG
型録音機  1950(S25) 講談社「昭和」⑨より
 私たちが使ったのはこの5年ほどあとなので、デザインも機能も進化していました。

 
高校生になってからのことですが、同窓会をやることになりました。幹事が集まって中学校の教室を借りることになり、その件を打診するために中学校を訪れました。話が済んだあと懐かしい校舎の中を見せてもらいました。応対してくださった方は新しい先生でした。「放送室」にも入れてもらいました。
 部屋はすっかり替わり、機材も新しくなっていました。そこで「中学時代にこの部屋で放送劇を作ったんですよ。当時は録音テープが紙でした」という話をすると、案内してくださった先生が突然、「そう言えばこの前、昔の放送劇のテープが見つかったとか聞いたなあ。紙テープだというんで、学校ではちょっとした話題でしたよ」と言われました。当然、聞かせてください、と頼んではみたのですが、「さあ、どこにしまわれたか、ちょうど夏休みで誰もいないし、私には…」とのことでした。もし残っていれば、ぜひ聞いてみたいものです。といっても、それから数えても、もう50年も経ってしまいました。
 

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●社会人になってから手にした「16ミリ発声映写機操作講習終了証」。
 数字の50は昭和50年(1975)のこと。

  
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