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こころの奥の美空ひばり [昭和ガラクタ箱]

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こころの奥の美空ひばり

 
以前、ラジオ局の音楽番組のゲストに呼ばれたことがありました。番組は「ボニー・ジャックスと真理ヨシコの空色音楽館」。ボニーのリーダー、玉田元康さんからのお誘いでした。番組は毎回、ボニー・ジャックスのメンバーが交代で真理ヨシコさん(NHKの初代歌のお姉さん)と対談しながら進める形式です。「30分の番組2本ですが、あなたのカラーを出すためにあなたの選曲で進めますから、どうぞご自由に」とのお言葉。「では、1本はディズニー長編アニメのテーマ曲の中から。もう1本はがらりと趣向を変えて、美空ひばりということではいかがでしょうか」。音楽というジャンルはあまり馴染みのない私ですが、その時とっさに浮かんだのが、幼年時代の思い出が深い美空ひばりとディズニーだったのです。
 この突飛な申し入れに玉田さんは「この番組としては珍しい。でも面白いですね」ということになりました。また、曲の途中に挿入されるお二人との対談では、自分自身の生涯学習について話したいと伝えました。ディズニーも美空ひばりも、私の生涯学習のテーマであるからです。

 その頃私は、東京・多摩地域を対象とする広域の生涯学習拠点「TAMA市民塾」の運営に関わっていました。そこではたくさんの講師の方々と出会いましたが、中でも「美空ひばり学」というユニークな講座を開設された竹島嗣学(しがく)先生と親しくなり、講座終了後にできた「美空ひばり学会」の名前だけ顧問に祀り上げられていました。

 そうしたいきさつもあって、番組では「TAMA市民塾」と「美空ひばり学会」の趣旨やユニークな活動のさわりを述べさせて頂きましたが、選曲はかなり迷った末に、私が一番好きな「悲しき口笛」「越後獅子の唄」「東京キッド」「りんご追分」に決めました。昭和24年(1949)から昭和27年(1952)まで、つまり、美空ひばりがデビューした当時の曲を選んだ訳です。

 その頃の私は8歳から11歳。小学3年から6年生でした。幼年期はこころの形成期でもあります。その時期、美空ひばりの歌声は、ある種の刷り込み現象のように私の記憶の奥に定着しているのです。
 今、78回転のレコードに録音されたノイズだらけの彼女の歌声を聞くと、その中から湧き上ってくるのは、無垢だった幼い頃の思い出です。

 小学校はもちろん“流行歌”は禁止。けれども一歩学校を出ると、私の周りにはいつもラジオから流れる美空ひばりの歌声がありました。青い柿の実をぶつけ合っての戦争ごっこや、歳の離れた弟を背中にしょいながら日が暮れるまでメンコやビー玉で遊ぶ時、きまって聞こえていたのが美空ひばりの唄でした。父は、私が進駐軍のジープを追いかけてチョコレートをもらうことや、飴をしゃぶりながら洟垂れ小僧たちと紙芝居を見ることについては、決していい顔をしなかったのですが、美空ひばりの歌を“子供には不適”とダイヤルを切り替えたりはしませんでした。 美空ひばりはその頃、一部の人たちから大人びた唄い方を疎まれていたことがありましたが、当時は子供も大人もみんなが背伸びをしながら生きていた時代ではなかったかと思います。

 そんな美空ひばりの記憶が、ある時期から次第に薄れていきます。高校時代になると、いつしか私の好みは、時代劇でべらんめえ口調で啖呵を切るひばりよりも、洗練されたスタイルで甘いムードを漂わせる雪村いづみや、若尾文子、白川由美といった年上で清純派の映画女優に変わっていました。港町、ドラの音、マドロスさん、そういった風景は田舎の少年の感覚からすると、憧れを通り越して、やっぱり手の届かない現実に引き戻されるようなところもあって、どこか違和感がありました。

  思春期への到達とともに、彼女は私から遠ざかっていきました。美空ひばりの唄が思い出と連動するのは、昭和32年(1957)の「お祭りマンボ」までなのです。以後、美空ひばりをはじめとする歌謡曲や演歌とは疎遠になったまま今日に至っています。
 美空ひばりが私たちの前から姿を消してしまってから、いろいろな神話や伝説が生まれました。けれども私にとっての美空ひばりは、神話や伝説の中にあるのではなく、デビュー当時の彼女の姿と歌の中にあります。それは自分をいつでも幼年期に立ち返らせてくれるおまじないのようなものとして、私のこころの奥に存在し続けているのです。

●来る5月29日は美空ひばりさんの生誕70周年に当たります。

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●写真は「美空ひばり学会」主宰・竹嶋嗣学先生によるスケッチです。
  写真と思えるほど写実的な見事な鉛筆画です。(2006年6月、NHKにおいて展示)
 なお「美空ひばり学会」については、後日「キャラメル・エッセー」でご紹介しま
  す。



●4/26(土)に北京五輪の聖火が長野入りしました。
この日は東京・府中市の多摩交流センターで「TAMAビデオクラブ」の例会がありましたが、会結成当時、同会の会長を務めておられた矢島健さんから、早朝、上記の記事に関するメールを頂きました。そのまま転載させて頂きます。矢島さん、どうもありがとうございました。


今日はオリンピックの聖火リレーの日。トップは星野。
是非見なくちゃ。でもまだ間があるな。
その前に、今週の「時計仕掛けの昭和館」をちょっと覗いてみよう。
うん、何々、ディズニーと美空ひばり!
うーん、「悲しき口笛」「東京キッド」「リンゴ追分け」思い出すなーあ!あのころを。

さて
聖火リレーの方は?星野は?どうなった!失敗った!もう終わっちゃたよ!・・・
まぁいいや。このままひばりの「昭和館」をもう一度読もう。

そうです。ひばりといえば私も、「悲しき口笛」「東京キッド」「リンゴ追分け」
なんです…が、私には一つだけ私だけの思い出の歌があります。

「知らず知らず歩いてきた細く長いこの道」

生まれて初めてビデオというものを自己流に作った。
TAMAビデオクラブに入会したばかり、そのビデオを恐れも知らず公開した。
そのビデオのBGMがこの歌なんです。
その他の部分はタイトルもBGMも全て手作りでした。

思い出すなぁ初期のTAMAビデオクラブ。
「いけねぇ」「今日はTAMAビデオの例会日じゃねえか」
忘れてた。

この頃は物忘れがひどくていろいろご迷惑お掛けしております。
これから直ぐ交流センターへ出かけます。
どうも失礼しました。
                               矢島 健



ファンが選んだ美空ひばり映画主題歌集~東宝編~

ファンが選んだ美空ひばり映画主題歌集~東宝編~

  • アーティスト: 美空ひばり,米山正夫,丘灯至夫,中村メイコ,原六朗,Edith Piaf,西沢爽,小沢不二夫,豊寿,古賀政男,村岡実
  • 出版社/メーカー: コロムビアミュージックエンタテインメント
  • 発売日: 2005/05/29
  • メディア: CD

    ファンが選んだ美空ひばり映画主題歌集~松竹編~

    ファンが選んだ美空ひばり映画主題歌集~松竹編~

    • アーティスト: 美空ひばり,近江俊郎,和田隆夫,西條八十,木下忠司,関沢新一,藤浦洸,吉岡治,菊田一夫,千嘉代子,田代与志
    • 出版社/メーカー: コロムビアミュージックエンタテインメント
    • 発売日: 2005/05/29
    • メディア: CD

「笛吹童子」から「蟹工船」「潮騒」まで [昭和ガラクタ箱]

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「笛吹童子」から「蟹工船」「潮騒」まで


 
戦後、何も無いところから出発した、生まれついての飢餓世代。それでも、世の中が「食」「衣」「住」の順に次第に満たされてくると、娯楽にも目を向けられるようになりました。その筆頭は家庭ではラジオ。外ではお天気に関係なくお金をかけずに時間をつぶせる映画でした。映画はまた、学校教育の一環としても積極的に採り入れられていました。

 小学校の頃から行われていた学校ぐるみの映画鑑賞会。年に1~2回ですが、文部省選定の優秀映画を全校生徒が揃って映画館に観に行く、今風に言えば課外授業・体験学習。それがとても楽しみでした。その中で強烈な印象を残してくれた映画が、6年生の頃に観たフランス映画「禁じられた遊び」(1951 日本公開1953・S28)です。

 この映画では、スペイン民謡「愛のロマンス」をアレンジした名曲と全編から受けた深い感動はもちろんですが、まず冒頭のドイツ戦闘機の機銃掃射シーンで、がーんと一撃を食らいました。1本道を避難するフランスの民衆。その頭上に迫るナチのフォッケウルフ。橋のたもとに避難した両親と幼いポーレットの背後に機銃掃射の土ぼこりが見る間に迫る。次の瞬間、両親の背中がはじけ、悲鳴と共に絶命する両親。それは小学生の私にとっては大変なショックでした。その余波でポーレットに抱かれていた子犬も瀕死の状態に。足を痙攣させている子犬。このリアルな描写に息を呑み、映画館から帰っても、ポーレットの両親と子犬は本当に死んだのではないかと思っていました。一方で、でも映画だから人を殺すはずは無いのでは。ではどうしてあんな画面が撮れるのか。ということも気になっていました。
 
  
小学生も高学年になると、映画は学校で観に行くほかに友だちと行ったり一人で行くことも増えました。日本映画では、この頃NHKラジオドラマで全国的な人気を博した北村寿夫原作・新諸国物語シリーズが連続物として映画化され、短期間で次々と封切られました。その第一作は「白鳥の騎士」(1953 S28 新東宝)でした。買ってもらって間もないスタート35カメラをもって観に行き、スクリーンの映像が写せるかどうかをテスト撮影してみましたが、暗い場面が多かったし、手持ちでは当然ぶれてしまい、失敗に終わりました。

 シリーズ第二作の「笛吹童子」第1部(1954 S29)を観たのは小学校を卒業した頃でした。このシリーズからは東映製作に変わり、「笛吹童子」は3部作の連続物として公開されました。中村錦之助(のちの萬屋錦之助)がデビューを飾った話はご承知の通りです。中学生になった少年には多少子供だましの感がしないでもありませんでしたが、「笛吹童子」は絶賛を博し、その中の敵役をピックアップして主役に立てた「霧の小次郎」も大人気。いずれも当時の特撮技術を駆使して製作されたもので、特に「霧の小次郎」は忍者ですから特撮の独擅場。霧に乗って飛来したり、霧と共に姿を消したり、姿を変えたり、大友柳太郎の高笑いと共に映画ならではのトリックの面白さを堪能させてくれましたが、どの作品も40分程度で「つづく」となるのでした。それだけでは時間が短すぎるということで、この頃からメインの映画にもう1本の映画をつけて上映する二本立てという興行形態が生まれました。1回で2つの味が楽しめる。「一粒で二度おいしい」。当時人気のキャンデーの発想に通じるものがあります。
 
いずれにしても東映児童向け時代劇は、ラジオで先行していた「紅孔雀」が終了するまでのつなぎとして「霧の小次郎」「三日月童子」が作られた後、映画「紅孔雀」の公開へと継続されて行きます。

 
 中学生になった年の学校ぐるみの映画鑑賞はディズニーの「シンデレラ」(1950 日本公開1953・ S28)でした。「シンデレラ」は私にとっては「ダンボ」の次に観た2本目のディズニー長編映画です。ダンボのキャラクターは動物でしたがシンデレラは人間です。まずそのヒロインが、人間が演じていると見間違うほどに自然に動くことにびっくりしました。そして鮮やかな色彩と個性的な脇役たち。特にネズミやネコなど脇役を演じるキャラクターたちが、物語の中でしっかりとストーリーを膨らませ、そこで盛り上げられる追いかけのサスペンスに一喜一憂してのめり込んで観ていました。

 
 友だちといっしょに観た初めての西部劇は「シェーン」(日本公開1953・S28 中1)です。その頃愛読していた「少年クラブ」に紹介されていたので、いい映画に違いないと思い、友だちを誘ったのです。この映画は当時まだ圧倒的にモノクロ映画が多かった中で、総天然色と呼ばれたカラー映画で、とても期待して観に行きました。とにかくアラン・ラッドがカッコ良く、対する黒尽くめの殺し屋、ジャック・パランスもいかにもワルそうで、はらはらしながら観ていました。もちろんラストシーンは滂沱(ぼうだ)の涙でした。この映画のテーマ曲「遥かなる山の呼び声」は、美空ひばりの「和」に対して「洋」で臨んでいた雪村いづみが歌って大ヒットしましたが、そのリズムは私にとって西部劇のテーマ音楽の原点になったと同時に、以後、次第に外国映画に興味が向いていくきっかけになったような気がします。

 また、小学校高学年から中学生時代には、ちょうど愛読書が、バラエティ誌的な講談社の「少年クラブ」から、高校受験向け旺文社の「中学時代」へ変わったように、映画の好みも、東映の時代劇や東宝の怪獣映画シリーズなど児童向け娯楽一辺倒のものから、社会的テーマを持つものや有名な文学作品、時代物など、結構難しそうな映画もたくさん観るようになりました。特に大映や東宝の時代劇映画はとてもよい歴史の勉強になりました。
 同時に大人の映画も観に行くようになりました。そのさきがけが「ローマの休日」でした。その清純なストーリーに大いに共感したものですが、対照的な作品として、日本映画では1956(S31)年
に現東京都知事の芥川賞受賞作品を映画化した「太陽の季節」が封切られ、大きな話題となりました。けれども中学生が観に行くには抵抗がありました。

 
飢餓世代は、観る映画も荒唐無稽な娯楽映画から、硬派の社会派ドラマ、そして堂々たる芸術作品まで玉石混交。お金があれば手当たり次第に観まくりました。特に名作と呼ばれるものを映画化した難しい作品を観るのは、もっぱら原作を読むより手っ取り早くて分かりやすいという安易さからでしたが、社会的な興味も少々芽生えて背伸びをしていた年頃でもあったからだと思います。

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●1955(S30)年の長岡市中心街。右の「GINEI(銀映)」は映画館。この並びが映画館街になっていました。写真集(誌名失念)から部分を掲載させて頂きました。

●中学生時代に見た映画(日本映画)
1953(S28)年
○「ひめゆりの塔」石野径一郎原作・今井正監督
○「蟹工船」小林多喜二原作・山村聡監督・主演
○「夜明け前」島崎藤村原作・吉村公三郎監督
○「地獄門」菊池寛原作・衣笠貞之助監督
1954(S29)年
○「二十四の瞳」壺井栄原作・木下恵介監督
○「潮騒」三島由紀夫原作・谷口千吉監督
○「やまびこ学校」
無着成恭編・今井正監督
○「七人の侍」黒澤明、橋本忍、小国英雄脚本・黒澤明監督
1955(S30)年
○「修善寺物語」岡本綺堂原作・中村登監督
○「新平家物語」吉川英治原作・溝口健二監督
○「野菊の如き君なりき」伊藤左千夫原作・木下恵介監督 

●中学生時代に見た映画(外国映画)
1953(S28)年
 
「地上最大のショウ」「
地上(ここ)より永遠(とわ)に」「キリマンジャロの雪」
1954(S29)年 
「恐怖の報酬」「ローマの休日」「グレン・ミラー物語」「ダイヤル
Mを回せ!」「帰らざる河」
1955(S30)年
「エデンの東」「裏窓」「慕情」「ヴェラクルス」

★上記の日本映画は「地獄門」「新・平家物語」を除いてすべてモノクロ(白黒)映画です。また外国映画のうち「エデンの東」はカラー/ワイドスクリーンです。
私の中学時代は、白黒映画から総天然色と呼ばれたカラー映画への転換期であると同時に、映画の画面サイズが、それまでの縦横比(アスペクト比3:4のスタンダードサイズからシネマスコープに代表される新形式のワイド画面への一大転換期だったのです。

二十四の瞳 デジタルリマスター2007

二十四の瞳 デジタルリマスター2007

  • 出版社/メーカー: 松竹ホームビデオ
  • メディア: DVD

「アサヒペンタックスSP」勝手に40周年記念 [昭和ガラクタ箱]

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「アサヒペンタックスSP」勝手に40周年記念

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●新宿小田急脇「モザイクロード」 アサペンにて1971   ●同じ場所2008.8 

●考えたら「アサペンSP」購入後40年経過
  今こそスチルカメラで一眼レフは当たり前の時代ですが、その歴史は40年以上も前に遡ります。それまで、ファインダー用と撮影用のレンズが2段に重なっていた二眼レフを、何とか1本のレンズで済ませられるように改良を重ねて実現した方式が一眼レフです。 1950年代初期にはカメラメーカー各社とも一眼レフを競って発売しますが、最初はミラー式で、現在のようなペンタプリズム方式になったのは1957年ころからでした。

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●逆ガリレオ式透視ファインダーを備えた「アサヒフレックスⅠ」1952と「アサヒペンタックスSP」1964

   私が購入を決めた旭光学の「アサヒペンタックスSP」は、1960(S35)年のフォトキナに出展された世界初のTTL(Through The Lens)35mm一眼レフカメラとして話題を呼んでいました。レンズから入った光で露出を測るという現在では当たり前のことも、当時は画期的なことだったのです。
    「アサヒペンタックスSP」の発売は1964(S39)年7月。購入は3年後の1967(S42)年7月。26歳の時でした。この間改良が加えられましたが、購入時、3年経ってもモデルチェンジのないベストセラー機でした。

●撮影会もひと通り経験。ねらいはゲージツ写真
 
 一眼レフを持てば、気分はもういっぱしのカメラマン。交換レンズはもっともポピュラーとされる最低限の広角28ミリと望遠135ミリを購入。フィルターもひと通り揃えて、頑丈で重いアルミのカメラケースに一式を詰め込んで、休日といえば撮影に出かけていきました。
  
若かったから格好もそれらしく決めたい。ポケットがたくさん付いていて撮影に何かと便利ということあって、流行の白のサファリルックに身を包んで総仕上げです。だれも見ているわけでもないのに、今思えばなりきりの自己満足です。

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●上/左・広角28mm、本体に標準55mm、右/望遠135mm
●下/本体にリングをかませて望遠135mmを270mmとして使用


  そのうち風景だけでは物足りず、やはり人物を撮りたくなります。周りにモデルさんはいないので、メーカーやカメラ店が主催する撮影会には何度も参加しました。
 そのころ大映で売出し中だった、まだあどけなさが残る関根恵子(現在は高橋恵子)さんのゆかた姿も撮影させて頂きました。当時彼女は危急存亡の映画会社・大映を一人で背負って立っていたのでした。程なく大映は倒産し、彼女は東宝に移ることになります。

●誰もがとらわれるフィルムカメラの誘惑?
  
私は現在、日常の風物や出来事をデジカメで気軽にスナップ撮影しているだけですが、「アサヒペンタックスSP」を使い始めた頃は、大方の写真マニアの例に漏れず、興味本位で現像・焼付け・引き伸ばしの道具一式を揃えて、いわゆる「押入れ現像」をした経験があります。失敗したら取り返しがきかないフィルム現像はさすがに怖くて、ラボに出しましたが、この「押入れ現像」はフィルムカメラマニアの誰もがかかる病気ではないでしょうか。

  家族が寝静まった休日前の深夜、写真雑誌の別冊の指南書を手元に、解説と照らし合わせながら、現像液、定着液を調合し、焼き上がりの写真を水洗いするための水をたっぷりと張った大型バット(四角で浅い容器)を用意したら、押入の中はにわか写真屋に早変わり。
  赤い小さなランプをつけての作業は窮屈でしたが、焼付け機にフィルムを通した後、印画紙に何秒感光させるかも勘なら、現像液に何秒浸けるかも勘。分かっているのは仕上げの水洗は薬品が完全に流れ去るまでということだけ。
  ネガの濃さ加減を読んで感光時間を決め、白い印画紙にネガ像のピントを合わせ、ぶれないように注意しながらライトを照射するときのハラハラドキドキ。それを現像液に浸すと、白色だった印画紙にじんわりと像が現れるときのトキメキ。作業は結構時間もかかり、ふすまを開けたら朝、ということも一度ならずありました。

  この楽しみも間もなくカラーの時代を迎えて、現像が難しくなってやめてしまいました。けれども、すべてが勘と手作業によるこの緊張と至福の時間は、今思うとまさにアナログならではの楽しみだったのでした。

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●上/1972年の年賀状用に使った写真 佐島マリーナにて 1971  
●中/仕事の現場でポスター撮影のモデルさんをちょっと拝借して撮影 1971
●下/六本木の仕事場近くの公園にてスナップ 1971


   この記事を書いていて、私がこのカメラを手にしてから40年も経ったことに気がつきました。これまでに何回かオーバーホールを重ねてきたせいか、今でも十分に使えます。数年前、このカメラを持って出かけたことがありましたが、偶然同じカメラを下げた人と出会いました。通り過ぎただけでしたが、一瞬顔が合った瞬間、気持ちが伝わった気がしました。

  さあて、今年の紅葉は40年ぶりにアサペンで撮ってみるか。


●「アサヒペンタックスSP」の主な仕様
・レンズは、フレアが出にくいスーパー・マルチ・コーティング(SMC)を施したスーパーマルチタクマー ※タクマーレンズのタクマーとは「切磋琢磨」の琢磨のことだそうです。
・シャッターはフォーカルプレーン
・シャッタースピード B、1、1/2、1/4、1/8、1/15、1/30、1/60、1/125、/1/250、1/500、1/1000
・フィルム感度 ASA20~1600に対応(当時の感度はASA400が最高)
・露出計は水銀電池を使用
・レンズ交換はスクリューマウント式(当時は唯一の国際マウント)

●「アサヒペンタックスSP」の価格(発売当時)
・ボディは白と黒の2種  ボディ価格 ¥30,000
・50mm f1.4 付き    ボディとも  ¥49,900
・55mm f1.8付き   ボディとも  ¥42,000
・皮ケース                    ¥2,500

 

「ペンタックス」の隠し技 [昭和ガラクタ箱]

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「ペンタックス」の隠し技…立体写真

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 前回のブログでは、購入してから40年も経った「アサヒペンタックスSP」を持ち出して、その頃の自分の写真生活を思い出しておりましたが、実はこのペンタックスには知る人ぞ知る、他のメーカーのカメラにはない特殊な隠し技が秘められていたのでした。それは立体写真。今で言う「3Dフォト」です。うれしいことにこうした遊びごごろが、つい最近までペンタックスには付加価値として考えられていたのでした。


 立体写真…ステレオスコープ(双眼写真鏡)は、1839年にダゲールによる銀板写真が生まれて間もなく考えられ始めたようです。風景や人物を印画紙に写し撮る技術が生まれれば、それを平面で見るのではなく、実際に見た目のように立体的に出来ないものかと考えるのは人間のさが。ステレオスコープは1851年のロンドン万国博に出展されて大人気となり、ビクトリア朝の英国で一大ブームを引き起こしたと伝えられています。

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●上/19世紀中頃のステレオスコープ 上部はスチル写真を拡大する凸レンズ、

   その下がステレオスコープ
●下/ビクトリア朝時代の貴族の立体記念写真

 それをきっかけに、人間の両眼に相当する2本のレンズを並べた立体写真撮影専門の大型カメラで、エジプト、ローマ、ニューヨークなど世界の名所を撮影した立体写真が販売されたり、貴族階級やお金持ちの家庭では家族の肖像を立体写真で記念撮影したりするようになりました。そのうち次第に普及するにつれ、中流家庭の客間にはこぞってステレオビューアーが置かれるようになったということです。
 ここに私たちは、映画やテレビが生まれる前の人たちの映像への接し方を見ることができます。まだ動画を知らない人たちの関心は、「動く写真」を求める前に、臨場感溢れる大型パノラマや立体写真に向かったのでした。


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●上/第二次世界大戦頃のステレオカメラ 建築や戦争記録などに使用
 中・下/ヒトラーを喜ばせたフランス戦線の立体写真

 それはさておき、1964年に発売された「アサヒペンタックスSP」には、オプションで55ミリ標準レンズ専用のステレオアダプター(¥3,800)が用意されていました(写真参照)。

アサペン自体は一眼ですからレンズは1本。そのため人の両眼に相当するアダプターを標準レンズの前に装着して撮影します。

すると、アダプター内部に仕組まれたミラーによって、1回の撮影で右目で見た像と左目で見た像が1コマの中に並んで写し込まれます。それを同梱のステレオビューアーで眺めると立体像として見えるのです。

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●左/ステレオアダプターを装着した「アサヒペンタックスSP」
 右/現像上がりのマウントされた写真とステレオビューアー

 なお、立体写真を撮る時はネガではなく、リバーサルフィルム(反転フィルム…白は白、赤は赤に発色)を使います。また、ステレオビューアーで立体写真を見るときには1コマずつしか装着できませんので、現像に出すときに1コマずつマウントするように指定します。


 この立体写真、理屈はとに角、慣れるとビューアーなしで肉眼で立体視することができるようになります。初めての方はどうぞ下の写真で試してみてください。
 2枚の写真を真正面にして、ちょっと寄り眼になるような感じで、二つの写真が中央で重なるように見つめてください。すると像が3つ並びます。その真ん中が立体写真になっているはずです。ちょっと難しいかもしれませんが…どうです? 花が浮き出して見えましたか。


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 さて、名機と呼ばれた「アサヒペンタックスSP」から39年後。デジカメの画素数が300万になり、ようやくスナップ程度ならこれで十分と考え、検討していたら、同じペンタックス社の「Optio-S」(2003)が眼にとまりました。その当時最もコンパクトなデジカメで、マクロが2段階で超接写可能。その上録音もできるという特徴を備えていました。そしてそこにもう一つ、あの立体写真の機能が付いていたのです。「ペンタックスだけの…」という商品差別化の観点から残されたのでしょうが、昔アサペンで立体写真を楽しんだ私にとって、それは大きな購入決定ポイントとなりました。


P1030119.JPG●ペンタックス「Optio-S」初代 2003P1030121.JPG
●3Dモードでは縦1/2画面になり、先ず左を撮影したあと両目の間隔だけ右に平行移
 動させて右画面を撮影します。

 「Optio-S」の立体写真撮影の仕組みは簡便になっていて、二つ目玉のステレオアダプターは使いません。3D(立体)モードに切り替えると画面が2分されるので、先ず左の画面を撮影した後、右目の位置にカメラを勘で平行移動させてもう一回撮影するというやり方です。同時に2枚を撮影できないため、被写体が風で揺れたりして左右の画像が極端に違っては立体にはなりませんし、平行移動の要領に慣れないと、2枚の写真はうまく重ならないので立体には見えません。ただ、こうした遊びごころを忘れずにいてくれた「ペンタックス」に好感を覚えました。

 そのペンタックス社は今年2008年3月31日にHOYAと合併して消滅。「ペンタックス」のブランド名は残されたとはいえ、昔からのペンタックスファンにとっては寂しい限りです。


そのシートって、どのシート? [昭和ガラクタ箱]

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     そのシートって、どのシート?
        「見て読んで聞く雑誌」の登場

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●直径25cm、33・1/3回転の両面LPシートレコード

●マルチメディアを先取りした「ソノシート」
 
1958S33)年。この年は新聞社や雑誌社が出版する週刊誌が揃いぶみとなったことを背景に、「少年マガジン」(講談社)と「少年サンデー」(小学館)の少年週刊誌2誌が新発売になった年でした。当時は少年誌や漫画誌を大人が読む風習はありませんでしたし、その頃私は17歳でしたからどちらも読んだことはないのですが、その年にもうひとつの新しいメディアが誕生し、私の興味はそちらに向けられました。

 それは「見て読んで聞く雑誌」という触れ込みで登場した「朝日ソノラマ」です。雑誌とレコードを合体させたもので、そのレコードを「ソノシート」と呼びました。従って「そのシート」と言ったらどのシートでもなく「朝日ソノラマのソノシート」を指すものでした。後発は「ソノシート」というネーミングを使えず、「フォノシート」「シートレコード」「レコードブックス」などと呼んで売り出しましたが、先発の商品名にはかなわず、一般にはどれも十把ひとからげで「ソノシート」とか「サウンドシート」として認識されていました。
 
今思うとそれは、形式はアナログとはいえ、写真情報、文字情報、音声情報を統合したマルチメディアのさきがけともいえるものなのですが、「写真も立体、絵本も立体」が大好きな私は、まず本が音を発するというそのアイディアに興味が湧きました。 
 

●読んでから聴くか、聴いてから読むか
 
私が初めて手にした「朝日ソノラマ」は「世界民謡集」(1961)というタイトルでした。表紙や内容は忘れてしまいましたが、体裁はよく覚えています。大きさは20センチほどの正方形。これは直径17センチのLPレコードがちょうど収まる大きさです。厚手の紙で20ページほどの本誌は中綴じではなくカード式で、白いプラスチックのバインダーで綴じられています。その中にペラペラの乳白色のビニールシートが2枚。それが331/3回転のLPソノシートでした。
  本誌にはソノシートに関連のある記事や写真が掲載されています。面白いのは本の真中に穴があいていること。ソノシートのページを開いて他のページを裏に折り返すと、そのままレコード・プレーヤーの回転軸にはまるようになっていました。

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●初期のシートは片面のみでした。

 
このような仕様では、当然本格的な音声は望めません。「ソノシート」は最初から、音響にうるさいレコードショップや楽器店の顧客ではなく、手軽に音楽を楽しみたいという一般大衆向けに企画された商品なのです。そのため販売ルートは書店でした。
 
なおバインダー形式は、針のヘッドが重いと回転がストップしてしまうし、軽ければ針が飛ぶという不具合があったためか、間もなくバインダー形式は無くなり、背綴じに変わりました。
 

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1961「未完成交響楽」東京エンゼル社
1962「名曲をラテンで」「真夜中のファンタジー」日本エンゼルレコード社「エンゼルブックス」
1962「ウェストサイド物語」ディスク社 映画はアメリカで同年公開 ジャケットは映画のスチルを使用しているものの、中身は1957年ロンドン公演のステージの録音
下の写真は「ウェストサイド物語」を開いたところ

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●ジャズ、ラテン、映画音楽からクラシックまで、演奏の質を問わなければひと通りの音楽が揃っていました。
 写真のシリーズはビニールも厚くなり、両面録音されています。
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●「ソノシート」には「ポータブル電蓄」が良く似合う
 
ところで1960年代は、その昔「蓄音機の盤」と呼んでいたSPレコード(直径約30cm1分間に78回転) がほぼLPレコード(直径30センチ、1分間に331/3回転)に変わった時代です。価格は11500円から2000円。一回り小さいドーナツ版(直径17.5センチ)は1350円から400円でした。では「ソノシート」はというと、これも大体1350円から450円。価格はほとんどドーナツ版と変りがないのですが、なぜソノシートかというと、その再生装置、つまりプレーヤーとの関係がありました。

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●1961年(S36)、堂々たるステレオプレーヤー(ビクター製)。
 このあと、1セットで畳1畳分も場所を取る大型のセットがブームになります。

 
1960年代は白黒テレビがかなり家庭に浸透し、次の需要として音響製品に目が向けられ始めた時代でした。当時ステレオプレーヤーは「電蓄(電気蓄音機の略)」と呼ばれ、音響機器としての機能よりも豪華なインテリアとして富裕層の居間に鎮座している一種の家具でした。薄給の身ではそのような立派なプレーヤーは買えません。でも音楽が聞きたい。そういった層にアピールしていたのが「ポータブル電蓄」でした。
  小型で操作は簡単。私も
1台購入しましたが、ターンテーブルと針の付いたヘッド、ボリュウムつまみと直径7センチの丸いモノラルスピーカーだけという飾り気の無い装置は、ペラペラなソノシートを掛けて音楽を聴くにはピッタリのチープさでした。

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●上/1954(S29)年、日本ビクター社のLPレコードプレーヤー 価格9,200円
 下/1962(S37)年、日本エンゼルレコード社ステレオプレーヤー 7,500円

●昭和30年代は代用品が通用した時代
 
 
「ソノシート」およびその亜流は1960年代半ばに全盛を迎え、児童向け雑誌の付録やイベントのノベルティ(PR用のおみやげ)など、いろいろな方面で利用されていましたが、各家庭に本格的なステレオ・プレーヤーが普及するに連れ、いつの間にか消滅してしまいました。

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 この「ソノシート」や「ポータブル電蓄」のように、本格的なものの代用品がたくさん誕生し、よく売れた時代が昭和30年代の特徴のひとつでもあったと思います。
 やがて代用品では満足できなくなるのですが、身の回りのすべてを本物で整えるのは無理であることに気づくと、せめていちばん欲しいものだけでも、とする「一点豪華主義」の時代を迎えます。そしてその先に「本物志向」がありました。
 昭和は人々の留まるところを知らない物欲を背景に、経済成長を遂げてきたのでした。

 たまたま今朝(1/15)の新聞で、レーザーディスク(LD)のデッキ(再生装置)を作り続けていた最後のメーカー、パイオニアが、この3月で生産を終了するということを知りました。DVDやBD(ブルーレイ・ディスク)の伸びに押された形ですが、このようにして、ニューメディアはいつの間にかオールドメディアになり、やがて忘れ去られていくのでしょうね。

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