こんな社会に誰がした [キャラメル・エッセー]
キャラメルエッセー
回転ドアの向こうには-6
こんな社会に誰がした
●このエッセーは1998年2月13日付け「新潟日報」家庭欄に掲載されたものです。
題名も公開時期も定かでないのだが、サラリーマン映面で植木等が、「この世の中、おれたちがつくったんだぞ!」と叫ぶシーンを見た記憶がある。平和な社会で暖衣飽食をむさぼり、自由を謳歌している若者たちに向けて、その台詞は、ひたすら会社一筋で高度成長期を支えてきたキャラメル世代たちの気持ちを、ある意味で代弁していた。
1950年代から60年代はじめ、つまりオイルショックの直前まで、日本は「欧米に追いつけ。追い越せ」を掛け声に突っ走り、世界に冠たる経済社会を築き上げてきた。キャラメル世代にもその一翼を担ってきたという自負があった。ところが6~7年前から事情が変わった。いわゆる高度成長期の歪みが一挙に噴出し、あのバブル崩壊である。我々が築き上げてきた輝かしい業績…。それが、今日の大不況の引き金となった醜悪な経済機構に支えられていたとは、なんともやりきれない話である。ともあれ、見せ掛けだけの時代は終わった。これまでにも「本物志向」ということが言われたが、今は人の本質そのものが間われる時代になった。
こうした世の中になって思い出すことがある、デパートに勤務して2年。1960(S35 )年頃のことである。若手のらつ腕課長に従って、よく日本橋、浅草橋といった問屋街に仕入れに出向いた。掛け引きが必要なのは売り出しの目玉(おとり商品)集めである。問屋は正規の商品を仕入れてもらう見返りに超特価品を用意するのだが、それを出し渋ると課長は、「分かった。間屋はここだけじゃないからな」と言うのが常だった。言外に取引中止をにおわす訳である。
あとでその関西系の問屋の担当者が小声でささやいた。「わては課長に頭下げとるんやない。あんたの会社におじきしとるんや。戴くおあしに頭下げとるんや。あの課長はそれを知らんのや」。
「人よりも金の方が信用に値する」――それが関西の商売哲学かと一瞬、拝金主義のようで抵抗を感じたが、すぐにそれは人間性を指摘しているのだと気づいた。会社の看板を外したとき、果たしてどれほどの人物か…。彼は40年以上も前に会社人間の落とし穴をはっきりと予言していたのである。
●1960(S35)年頃の街の様子(国鉄・川崎駅前)
このように、生涯学習の視点から見ると、デパートに勤務していた時期は人間観察に大いに役立った。まずはお客さま。配達ではピンからキリまでの生活をのぞき見た。ざあます奥さまは安いものにも結構目が利いたし、金持ちは必ずしもケチではなかった。次に同僚。若さは決して革新的ではなかったし、美人は必ずしも冷たくはなかった。次に上司。または組織上の人間関係。これが一番勉強になった。反骨精神旺盛の若輩ものは真っ先に排斥の対象になった。
業績の伸び悩みはもちろんのこと、ごくささいなすきでも見つけようものなら、主流派にとってはしめたもの。吊し上げ、揚げ足取り、密告、いやがらせ…と、いじめのフルコース。会社の不条理に共に涙を流し、職場の良き理解者と思っていた先輩がある日突然体制側に転身したり、労組の執行委員長が課長に昇進したとたんに組合糾弾の急先鋒に早変わり、というように、変わり身、裏切りなど日常茶飯事。保身や出世のためのせめぎ合いがいかに人を偏狭にするか、「競争社会」のこれが現実か、「社会の縮図」とはこのことか、と大感激、大感動。
昔は「どんなにつらいことがあっても耐え抜け」というのが、就職する者へのはなむけだった。何かつらいことがあれば、ああ、これがあの「つらいこと」なのかと思って頑張った。そのキャラメル世代がいま、バブル崩嬢の連帯責任を負わされるように不況の矢面に立たされている。が、恐れるのはよそう。失うものなど初めからなにも持ってはいなかった。それが、戦後ゼロから出発したキャラメル世代なのだから。
●「キャラメルエッセー」の全体テーマは「生涯学習」。10年後の復刻として全14回を随時掲載させていただいております。なお、ここでは「生涯学習」を、文字通り「生涯が学びの場」と広くとらえています。
●記事は当時のままです。場合によって現在の認識とズレがあるところが出てきても、そのまま掲載しております。
自分探しのリセット人生 [キャラメル・エッセー]
「新潟日報」連載・10年後の復刻
キャラメルエッセー
回転ドアの向こうには-7
●このエッセーは1998年3月13日付「新潟日報」家庭欄に掲載されたものです。
自分探しのリセット人生
「ウインドウズ95」の登場で、パソコンがずいぶん使いやすくなったということで、遅まきながら昨年、新しいパソコンに買い替えた。複雑なソフトを満載しているせいか、よくハングアップ(入力不可状熊)する。はじめは、その状態で電源を切ったらどういうことになるのか不安で途方に暮れていたが、仕方なく電源を切ると、次には普通に起動してくれる。しかしあまり頻繁にそうなるので、しょっちゅうリセット(電源を切って初期の状熊に戻す)をかけるようになった。するとそれまでの作業成果はすべて消滅してしまい、初めからやりなおしである。けれども、入力の記憶をたどりながら思い出す過程で、もっと味のあるアイデアや文章が浮かんだりする。そうすればリセットも意味がある。
思えば自分もこれまでに二、三回、人生のリセットを重ねてきた。自分の意志でそうしたこともあるし、意志に反してそうしなけれぱならなかったこともある。とにかく、学校出たては可能性100%である。やりたいことを一応体験してみたい。
デパートの広告をやってみたくて、私はデパートに入社した。しかし、専門の知識も技術も持たないために、宣伝部には配属されなかった。売り場や仕入れの業務はそれなりに面白く、興味も湧いたが、どうしても広告をやりたかった。しかし、宣伝部への配属は望めなかったので、当時流行していた通信教育で広告やデザイン理論をかじったりした。そこで私は、自分で10年という期限を設定した。28歳まで様子を見よう。結果、宣伝部入りは遂に実現せず、予定通り10年後に転職した。
デパートからのリセットは180度の転換だった。「広告」に近づくようにと、小さなデザインプロダクションに入った。スタッフは少なく、企画書、コピー(広告文案)、取材、写真撮影、版下制作、印刷出稿、営業と、なんでもやった。オフィスは六本木にあった。個性的なデザイナー、イラストレーター、フォトグラファーたちと知り合い、テレビ局や新聞社の宣伝部署などへも出入りするようになった。自分もいっぱしのクリエーター気取りで、横文字の氾濫する異空間の雰囲気に浸っていた。この間、CMやPRなど、もう一つの興味であった映像制作への門戸も開けた。ようやく自分の方向性を見いだせたと感じたとき、すでに30代半ばになっていた。
●六本木交差点寸景
転職は大きなリスクである。特に家族を抱えての人生リセットの責任はすべて自分にある。しなければよかったと後悔するようなリセットは決してやってはいけないし、もしそうなら、やって良かったと言えるまでがんばらなければ意味がない。
リセットのたびにゼロからのスタートだった。それは戦後ゼロから出発した世代ということと無縁ではない。私の場合、それを実行する選択肢は「背水の陣」しかない。ただ進むだけの状況に自分を追い込み、決して逃げは許されないのだった。
結果的に10年間のデパート経験では、メーカー~問屋~小売業~消費者という物流の現場で「流通」を学ぶことができた。デザインプロダクションでは企画に携わり、情報の送り手としてのメーカー側の論理を「AD(広告)」「PR(広報)」「SP(販売促進)」という形で、受け手である生活者の立場に翻訳して伝える技を学ぶことができた。つまり、作る~伝える~売る、そして自分は「使う」という立場で「マーケティング」を総合的に学ぶことができたことは、私にとって大きな財産となった。
ともあれ、人は、最初100%の可能性が、現実との接点で80%となり、60%と低下していく焦燥感の中で、なおも自分の存在意義を追い求めるのである。考えようによれば、可能性の範囲が狭まるというのは、それだけ自分の向かうべき的が絞られてきたと見ることもできるのではないか。が、しょせん企業という組織の中では限界がある。そこでの仕事がすべてだった当時の私が、「自分探し」という回転ドアの向こうに、どんなに広い世界があるかを知るには、もう一回の人生リセットを経なければならなかった。
●「キャラメルエッセー」の全体テーマは「生涯学習」。10年後の復刻として全14回を随時掲載させていただいております。なお、ここでは「生涯学習」を、文字通り「生涯が学びの場」と広くとらえています。
●記事は当時のままです。場合によって現在の認識とズレがあるところが出てきても、そのまま掲載しております。
努力しないで○○する方法 [キャラメル・エッセー]
「新潟日報」連載・10年後の復刻
キャラメル・エッセー 回転ドアの向こうには-8
努力しないで○○する方法
●このエッセーは1998年4月20日付「新潟日報」家庭欄に掲載されたものです。
最近気になる風潮がある。「努力」とか「がんばる」という言葉が死語になりつつあることだ。
若者の間では以前から、それを「ダサい」とか「割に合わない」とみて敬還する傾向があるらしかったが、バブル崩壊のころからその考え方が市民権を得て、堂々と大手を振って世間にまかり通るようになった。
この風潮を加速させたのは、三月初旬、長野で開催された「アートパラリンピック」で入選した習字である。「がんばらない」と墨書したのは西沢美枝さん。時代をつかんだフレーズにマスコミが飛びついてニュースにした。彼女はハンディキャッパーだから、この言葉の意味はそれなりによく分かる。分からないのは「そうだそうだ、よくぞ言ってくれた」と、その尻馬に乗って健常者が快哉(かいさい)を叫んでいることである。「肩の力を抜いて、等身大で生きよう」という姿勢なら共感できるが、その意味ではない。楽をすることに賛成なのだ。これで、「がんばること、努力することは無価値」と思う人たちがますます意を強くするとしたら、これは大事件だ。経済社会の減速で、がんばる意欲まで押しつぶされてしまったのだろうか。
こうした事例は枚挙にいとまがない。最近あるテレビドラマでも、「がんばることなんて、もうやめよう」というせりふを聞いた。それほどまでに打ちのめされた経験をしたのだろうか。
「がんばれ、がんばれって、どうがんばったらいいんだろう」と悩んでいる声に振り返ると、予備校のテレビコマーシャルである。
「やりたいことだけ、やっていたい」というキヤッチフレーズは旅行代理店の広告である。これを裏返せぱ、「得になること以外は無関心」「やりたくないことは、やらない」という強い意思表示だ。立派と言うほかはない。
努力したからといって報われる保証はない。それなら楽をするに越したことはない、という道理だろうが、そういう人間に限って、自分が楽をできるのはどこかでだれかが努力し、がんばってくれているからこそ、ということに思い及ばない。そんな大人にはなってほしくない、と子供たちを社会人に育て上げたばかりのキャラメル世代※は思う。
一方、成人の日の新聞広告に見た、息子と酒を酌み交わし、「これでおまえも一人前だ」と喜ぶ父親像。その場で何が語られるかこそが重要なのに、いっしょに酒を飲むというそれだけで、息子も成長したものだと感激する浅はかさ加減。まして、嫁ぐ娘に父親が「いつでも帰ってきなさい」とささやく住宅会社のテレビコマーシャルに至っては、言うこと無し、である。
「中身より外見」の軽薄な思考。はきちがえた愛情。これは、広告の作り手自体が、そうした価値観を持つ世代に変わってきているからだろうと思われるが、いったい、忍耐強く、律義で、勤勉、とされた国民性はどこにいったのだろうか。「待つ」とか「耐える」という言葉も聞かない。。キャラメル世代※は、息子や娘がそうした言葉を過去のものにしてほしくないのである。
努力しないで目的を達成できることはまずない。それが現実だろう。ただ、これまでのようにやみくもにがんばるのとは質的にちがう「がんばり方」があるはずだと思う。それが等身大の生き方というものではないだろうか。
それでもがんばりたくない人にはいい知恵を授けたい。それは「努力しないでスキルアップを実現する方法」。自分の意志で好きなテーマに取り組み、楽しみながら自分を成長させることができる生涯学習の現場にこそ、それがある。(趣味もブログも立派な生涯学習です)
※「キャラメル世代」とは http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2008-02-13-1
●「キャラメルエッセー」の全体テーマは「生涯学習」。10年後の復刻として全14回を随時掲載させていただいております。なお、ここでは「生涯学習」を、文字通り「生涯が学びの場」と広くとらえています。
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「目からうろこ」の新世界 [キャラメル・エッセー]
キャラメル・エッセー 回転ドアの向こうには-9
「目からうろこ」の新世界
●このエッセーは1998年5月18日付「新潟日報・せいかつ欄」に掲載されたものです。
●「キャラメルエッセー」の全体テーマは「生涯学習」。10年後の復刻として全14回を随時掲載させていただいております。なお、ここでは「生涯学習」を、文字通り「生涯が学びの場」と広くとらえています。
●記事は当時のままです。場合によって現在の認識とズレがあるところが出てきても、そのまま掲載しております。
目からうろこが落ちる。何かをきっかけにそれまで分からなかったことが一気に理解できるようになることをいうが、私はこれまでに二回そういう体験をした。文字通り目の前が突然、ぱぁーっと目もくらむほどに明るく輝くのである。それは、瞳(ひとみ)を覆っていた白濁したコンタクトレソズが剥(は)がれ落ちた感じに似て、まったく異なる次元の地平を見たような清新な気分なのである。ある種のさとりに似た境地とでも言おうか。こんな世界があったのか、と感動に震える、まさに「開眼」といった感じなのである。
サラリーマン時代は上意下達の徹底した縦割り組織の中にあったが、広告の世界では、企画から制作・実施に至る複雑な業務が、クリエーター同士の横の連携で動いている。極めて細分化された専門職の集合体であるため、お互いが相手を尊重し協力し合う、とても良い仕事環境が出来上がっていることに対する驚きもあった。「これこそ求めていた仕事場だ」と思った。
それに千変万化する魅力的なクライアント(広告主)。国内初の個人向けコンピューターが「パソコン」とネーミングされる場に立ち会い、博覧会、フェア、コンべンションなど、大きなイベントが次々と生み出される企画会議に同席した。エレクトロニクスをはじめ、アパレル、化粧品、食品、航空・運輸、建設、レジャー、果ては石油化学に至るまで、いろいろな企業に出入りする日々。毎日が新鮮で充実し、まさに高度経済成長の実感をメーカーと共有してきた感があった。
二回目の「目からうろこ」の体験は、わずか三年ほど前(当時)。「もうひとつの東京」と呼ばれる東京西部の多摩地域※で、「TAMA市民塾」という広域的な生涯学習の場の立ち上げと運営に参加したときである。
人生の折り返し点を迎えたころから生涯学習に関心を持ち始めていたのだが、故郷で過ごしたよりもはるかに長い年月をこの地で暮らしてきたことを思うと、名実ともに第二の故郷となった多摩の地で、自分はどう生きたいのか、そのために何をしたいのか、と考えるようになった。若いときは「世の中のために」と思っていた。それが年を重ねるにつれ、「自分のことも不如意なのに、世の中のためなんて」と思うようになった。そこから「まず、自分を高めたい」という欲求が生まれ、それがボランティアに目を向けさせた。
はじめは仕事をリタイアした後で、自分の技能を生かせる地域活動をやりたいと考えていた。しかし、日常のほとんどを都心で過ごし、地元との結びつきがなかったことに思い至った。「引退してからでは遅い。今、できるところから地域に溶け込んで行きたい」。そう考えた時、「生涯学習」は私にとって大きな行動指標となったのである。
●6階「TAMA市民塾」東京都府中市
「TAMA市民塾」は多摩全域三十一市町村・三百五十万人の住民(当時。現在は30市町村、413万人)を対象とした広域的な生涯学習の場である。カルチャーセンターとは異なり、運営も講師もボランティア。現在その両方に参加させてもらっている(当時)。
「TAMA市民塾」では、すべて自分のためにしていることなのに、いろいろな人たちに喜んでいただける。ここでは、損得勘定を伴わない純粋な人間関係のすばらしさを肌で感じることができる。「自分探し」を共通テーマとする仲間同士が、心を開いて結ぴついている。その中に包まれている自分を感じるとき、心から「いいなあ」と実感できるこのごろなのである。
私は今世紀中(20世紀中)に、まだまだ「目からうろこが落ちる」体験をしたい。それには、未知の領域に進んで入り込んでいく好奇心と行動力を持つことだと思う。
★三回目の「目からうろこ」の体験は、ついに20世紀中には実現しませんでした。昨年から始めたこのブログが、もしかしたらそうかも知れません。
※多摩地域とは東京都の区部を除いた西部地域の市町村全体をいいます。
映画史ビデオの自主制作 [キャラメル・エッセー]
キャラメル・エッセー 回転ドアの向こうには-10
映画史ビデオの自主制作 プロがアマに変わるとき
●このシリーズの写真は「隠し絵」で展開
●このエッセーは1998年6月22日付「新潟日報・せいかつ欄」に掲載されたものです。
●「キャラメル・エッセー」の全体テーマは「生涯学習」。10年後の復刻として全14回を随時掲載させていただいております。なお、ここでは「生涯学習」を文字通り「生涯が学びの場」と広くとらえています。
●記事は当時のままです。場合によっては現在の認識とズレがあるところが出てきても、そのまま掲載しております。
映像制作を生業(なりわい)としてきた者として、永年考え続けてきたことがあった。二十世紀は初めて動く映像で記録された世紀である。その意義を「映画の歴史」という切り口で検証してみたい、との願いである。
書籍による映画史は多い。しかし、映像そのもので編纂(へんさん)された映画史は見当たらない。それは、著作権、肖像権など複雑な権利関係によるものと推測される。欲しいものが無いのなら自分の手でまとめてみよう。それが発端だった。二十年前のことである。
企画・構成・編集からナレーションまで一人何役ものビデオ自主制作。ホームビデオが編集に耐えられる面質と機構を傭えるようになったのは、ここ五、六年のことだ。それまでの十数年間は、もっぱら作品集めに集中した。
映画史に登場するタイトルがテレビ放映されるとすかさず録画。一方で市販ビデオやLDも購入してライブラリーを増やしていった。洋画のビデオ化は当然外国の方が早い。日本では入手できないタイトルは輸入版を探した。発売されるころを見計らって、大雨の日でも何度もショップに立ち寄った。
映画の誕生は一八九五年。どうしても百周年を迎える一年前に、私家版「世界映画史」をまとめ上げたかった。テレビが映画百周年記念特番を組むようになってからでは、自分で努力してまとめる意義が半減する。映画そのもので描く映画百年史は、ささやかながらも自分の仕事の集大成というべきものにしたかったのだ。覚悟はしていたものの、映画史に関する資料の入手は、書籍、映像ともに困難を極めた。
いつの間にか、読めもしない洋書が書棚を埋めていた。映像資料をある程度整えることができたのは、ひとえに最初のビデオデッキを購入以来、長期にわたってテレビの番組をチェックしてきたからである。それぞれの時代を語る映像も必要だったので、常々ニュースやドキュメンタリーも録画してきた。
●編集のためのカット表(編集リスト)、コンテ付きシナリオ、録音台本
アメリカ映画史と世界映画史のニシリーズに分けることにし、「二十世紀・映画の時代」「幻影の時空間」とタイトルをつけた。構成の流れは、基本的に映画の誕生から現在までをたどるオーソドックスなものとし、それぞれ二巻、各巻九十分を目安とした。全四巻のシナリオは膨大なものとなった。つないだ結果が早く見たくて、編集作業とシナリオの執筆を並行させた。ある区切りまでシナリオができたら、その部分をすぐに編集する。仕事では普通そういった作り方はしないが、このやり方は、新しい情報や映像が手に人ると、すぐに取り入れられるという点で極めて合理的だった。
こうして、編集に三年半をかけて、全四巻・六時間半におよぶ「映画百年史」は完成した。収録作品は三百五十本に上る。
「二十世紀…」の方はアメリカ映画主体で娯楽色が濃いため、「いやあ、映画って、ほんとにいいものですね」といった水野晴郎調。万人向けである。
「幻影…」は社会的な重いテーマを扱った作品も多いため、「映画って、こわいですね」と淀川長治風。少し専門的な展開となっている。
この作業を通じて、映画自体から、書物から、いろいろなことを学んだ。知的所有権関連には細心の注意を、との助言も受けた。新聞の取材を受け、記事になったときは(下に記事写真)、映画関係からの反応を懸念した。幸い危惧(きぐ)に終わったが、「目で見る映画史」としてまとめたのは自分であることに満足している。
私は映像制作の道を選んでから、仕事と趣昧が一緒になっている。プロは制作期間の制約を受ける。アマは撮影や編集での機材が弱体だ。プロでできないことはアマの場でやってみる。アマでできないことをプロの場で実現する。こうした考え方は「生涯学習」で学んだことだ。私家版「世界映画史」は、その後もよりきれいな映像に入れ替えたり、ワイド作品はワイドで収めるようにバージョンアップを重ねている。
●前々回に関連記事あり
■補足
●このビデオはアナログ時代に制作したもの(リニア編集)ですから、下記の制作機材を使用しています。
録画機材 ベータマックス・ビデオデッキ 1台
S-VHS ビデオデッキ 3台
撮影機材 Hi8ビデオカメラ 1台
AVエフェクター 1台
タイトラー 1台
編集コントローラー 1台
14インチ ステレオテレビモニター 2台
●現在はパソコンによるノンリニア編集の時代。
上記の機材は全く必要なく、パソコンとビデオ編集ソフトだけで済んでしまいます。上記の機材を一人で操作した当時の苦労を思い起こすと隔世の感があります。
現在は
画面・音声をパソコン上で微修正したものを、テープとDVDで保管しています。
●1996.12.12付 毎日新聞「自主制作映画史ビデオ上映会」を伝える記事