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終戦の年 1945(S20)年 [あんなこと、こんなこと]

あんなこと、こんなこと

 子供の頃を思い起こしながらこのブログ書いていると、いろいろなことが思い出されてきました。この「あんなこと、こんなこと」カテゴリーはブログのテーマとは直接関係ありませんが、<映像>として頭に焼き付けられた記憶を、戦中・戦後の自分自身の備忘録として、思いつくままに記してみたいと思います。人間形成の源が幼児期にあるとするなら、良くも悪くもこれらの記憶が内在されて今の自分が出来ていると思うのです。


1.終戦の年 1945(S20)年

●空襲の記憶
  私の記憶のはじまりは終戦の年の夏頃(満4歳)からのようです。毎日のように空襲があり、庭には非常用に、ありったけのバケツに水を張って並べてありました。家の脇は川なので、いざというときは川から汲むつもりだったと思います。空襲による火事をバケツリレーで消そうという時代ですから、それが精一杯の備えだったのでしょう。戸のガラスにはすべて飛び散らないように×印に紙が張られ、夜は電灯の笠に風呂敷を垂らして光が外に漏れないようしました。こうした連絡や確認は隣組や警防団というつながりによって徹底されていたようです。またよく停電し、ろうそくは必需品でした。一番参ったのは、真夏の暑いさなかに服を着たまま寝なければならないことでした。その上、不意の空襲警報でたびたび起こされました。

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●ボーイングB29 爆撃機

 
ある日、空襲警報で爆音が聞こえ、家の中に立っている自分の目の前のガラス窓の真正面に機影が見えたかと思うと、ぐんぐん近づき、窓いっぱいになり、轟音とともに屋根を飛び越えていきました。飛行機の窓の形がよく見えました。機銃掃射をされなくて命拾いしました。
 
ある晩、大空襲になり、おばあちゃんも一緒に家族みんなで布団を頭上にかざして田んぼに逃げました。見晴るかす田んぼの先は南北に長く広がる長岡の市街地で、上空をB29が飛び交い、探照灯が機影を追って交叉していました。爆撃は街の端から端までにおよび、爆発と火災で次々と延焼し、炎が赤々と天を焦がしていました。まだ幼すぎたせいか、恐怖を感じた覚えはありません。 

●出征兵士を送る
  家の近くの私鉄の駅に出征兵士を送りに行った記憶もあります。町内総出で手に手に日の丸の旗を持ち、ホームでおとなたちが万歳三唱するのを見ていました。そのときの感情は希薄ですから、長兄を送ったのではないと思います。
 
また、提灯行列の記憶もおぼろげにあります。いつの戦勝祝いだったのでしょうか、家の前が県道で、誰かに手を引かれて出てみると、暗い提灯の明かりが一杯にあふれ、大勢の人が道幅一杯に、バンザイを叫びながら進んでいきました。

●匂いガラスとチャフがたからもの
  米軍の空襲があったりすると、兄たちと田んぼに出かけました。いろいろ珍しいものが落ちているのです。土に刺さっている六角形をした焼夷弾の薬きょうはお墓の花立てにしました。たまに緑色に輝く分厚いガラスの破片が落ちていて、板に強くこすり付けるととても甘い香りがして、みんなが欲しがりました。これはプラスチックの一種で、米軍機の風防ガラスだということは大人になってから分かったことでした。銀色をした金属性の細いテープの束が絡まったままあちこちに落ちていましたが、地上の信号を撹乱するチャフと呼ばれるものだったと思います。戦後、長兄が幻灯機を作って、ランプハウスの内側に貼り付けました。電球の反射率が高まって、それまで暗かった幻灯が明るく、見やすくなりました。

●最初のうまいものの記憶
 うちは農家でしたが、食べ物に関してはいずこも同じで、満足な食事はありませんでした。ある晩、母が鍋を作ってくれました。入っていたのはサツマイモのつるとナスのへた。油が入っていたようなので多少贅沢したのかもしれません。つるとへたは歯でしごいて筋を出します。これがなかなかの味で、おいしかったことを覚えています。これなんか、当時としては結構なご馳走だったのでは。今でもぜひ試してみたいと思っているのですが…。

 

●最初の甘いものの記憶
  終戦直前、どういう理由か分かりませんが、海軍大佐一家が我が家に同居するということになり、急きょ母屋の裏に2部屋ほど建て増しをしました。棟続きで、同い年の男の子がおりましたが、普段の交流はありませんでした。夏のある日、大佐の奥さんが、茶碗の底に濃い茶色のトロリとしたものを入れて持ってきてくださいました。手作りの芋あめだということでした。その甘かったこと。世の中にこんなにおいしいものがあるのかと驚くほどのうまさでした。母にそういうと、「お前はうまいものを知らないで育ったからね」と言いました。男の子とは終戦後文通をしましたが、鹿児島という遠さもあって次第に疎遠になりました。

●終戦の日の記憶はどこに
 ここまで書いて来て、はっと気が付きました。終戦の日の記憶が私にはまったくないのです。皇居前で大勢の人たちが土下座をしたという日、うちでも大きな動揺があったはずだと思いますが、昼寝でもしていたのでしょうか。同様に広島、長崎に落とされた原爆についても、当時の周囲の反応を全く記憶していないのです。終戦時4才と5ヶ月の子供にとって、聞いたとしても話の内容を理解できずに忘れ去り、眼で見た情景だけが映像のように記憶に残っているのではないでしょうか。

 秋頃でしょうか、海軍兵学校予科生だった長兄が帰還しました。大きな荷物の中身を期待していると、30センチもある白や茶色のねじり飴が出てきました。甘いだけではなくてとても微妙な味でした。それと乾パン。海軍で使っていたチクチクする白い毛布は私が掛けることになりました。ハンモックは寝間(ねま)と呼んでいた六畳間で、蚊帳を吊る紐を丈夫なものに代え、部屋を斜めに横断するように吊るして兄姉たちと遊びました。
 

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大寒、小寒、鼻たれ小僧がとんできた。 [あんなこと、こんなこと]

あんなこと、こんなこと

大寒、小寒、鼻たれ小僧がとんできた。
2.終戦直後・小学校入学前  1945~1947 (s20-22)-①


 

 坊主頭とおかっぱ頭の少年少女たちが、我れ先にと追いかけた進駐軍のジープ。最高のご馳走といえば、米兵が車の上からばら撒くチューインガムやチョコレート。男の子も女の子も着替えを持たず、年中裸足に下駄か、せいぜい布製のズック靴。そして、鼻水を拭いた男の子のお下がり学生服の袖口がテカテカ光っていた時代。

街の子ならたいてい、背が立たないほど大きなコンクリートの土管が転がっている広場。いなかの子なら広い家の庭先や近くの森林。それが遊びの舞台。遊びのほかには、男の子には男の子の、女の子には女の子の家の手伝いがあり、子供なりのレベルでちゃんと家庭の中での役割を果たしていました。


  敗戦で、これより下は無いという状態にまで堕ちた日本。けれど、どんなに貧しくても、「これからは必ず今より良くなる」という確信に満ちた明るい予感がありました。

●薪で走る自動車
 生まれ育ったところは長岡市の中心街から4キロほど離れたいなかでした。村は山すそにあり、一方は広々と見渡す限りの田んぼ、つまり、典型的な集村です。家の前に県道が通っていましたが、ある日、人だかりが出来ているので出てみました。そこには初めて見る自動車が止まっていました。黒い四角っぽい形で、そんなに大きくは感じませんでしたが、後部からもくもくと煙を上げていました。つまり、それは車体後部に窯を取り付けた木炭自動車で、薪が足りなくなり、前の家で薪を補充したところだったようです。走り出すまでかなり時間がかかったような気がします。これはあるいは終戦の年のことかもしれません。

●託児所も幼稚園も知らない
 託児所も幼稚園もまだなく、子供たちは学校以外ではいつも家の周りが遊び場でした。飢餓状態の私たちには、食べても食べても腹の足しにならず、溶けてなくなりもしないチューインガムがとても不思議でした。でも、ガムをもたらしてくれるジープはめったに通りません。畑に実った麦をむいて噛んでみましたが、やはり無くなってしまいます。松ヤニは噛み応えが柔らかくてガムに及ばない上、薬品のような風味で、好きになれませんでした。自転車のタイヤの断片も噛んでみましたがボロボロするだけでした。チューブの端切れが一番それらしかったような気がします。

●おばあちゃんの昔話
 コタツで抱っこしてもらいながら、おばあちゃんが良く絵本を読んでくれたり昔話をしてくれたりしました。母はその間、炊事・洗濯・野良仕事をしていたのでしょう。「桃太郎」「金太郎」「浦島太郎」「一寸法師」「かちかち山」「花咲爺」「猿蟹合戦」「因幡の白兎」など、定番とされる日本の昔話はほとんどおばあちゃんから聞いたものです
  また、隣り村のまつりに呼ばれて、親戚のおばあちゃんからも昔話をたくさん聞きました。薄暗い布団部屋で、障子に影絵を見せてくれたりもしました。話し方に引き込まれて、もっともっととせがんだものです。この人・下條登美さんは、後年、300もの昔話を語り伝えた語り部として、長岡市文化財の表彰を受けました。
http://www.e-net.city.nagaoka.niigata.jp/hakken/01_minwa/02_shimojo.html

●大人の世界を垣間見せてくれた紙芝居
 ラジオの内容を理解できるようになる前の子供たちの娯楽では、紙芝居がピカ一。おじさんの代わりに拍子木を打って近所を回って歩けばタダ、ということで、常連の拍子木キッドがおりました。内容的には荒唐無稽なもの、怖いもの、残酷なもの、男女の愛憎劇まであったせいか、父は教育的観点?から私が紙芝居を見ることを好まなかったのですが、友だちとの付き合いもあるので、母からこっそり5円玉をもらって見に行きました。客が集まるとおじさんは、自転車の荷台に付けた木箱から水アメを取り出して5円と交換。お金を出さなくても後ろに立てばタダで見られるという大らかさでした。その場合、当然水アメは無し。
  紙芝居は全部連続物。1話が10枚未満で、マンガ、時代劇、現代劇の取り合わせで1回の口演は3話ほど。子供たちは割り箸の水アメを真っ白くなるまでこね回しながら、夢中で見入ったものです。紙芝居と聞けば「黄金バット」が有名ですが、それは見たことが無く、記憶にあるのは「隅田川」。夫に捨てられて川に身を投げた女性が亡霊となって復讐する怖いお話です。今思うと、紙芝居にこんな話があるあたり、テレビの代わりを紙芝居が担っていたのだという気がします。


●ままごと遊びは、おとなへの架け橋?
  3つ年上の姉が、隣近所の女友だちと庭の池のほとりでよくままごと遊びをするのですが、お客さま役として必ず駆り出されていました。ござの上に小さなお皿や廃物のおちょこなどを並べ、季節の草花をきれいに取り合わせてお料理らしく見せる遊びはとても楽しくて、嬉々としてみんなの所にお呼ばれされていました。普段は女の子でも方言丸出しなのに、「ごめんください」「こんにちは」「召し上がれ」「ごちそうさまでした」などという標準語を照れずに言えるのもままごと遊びならではです。
 そうこうするうち、一人の女の子にこっそりと呼ばれました。家の脇の川の下流で待っている人に渡して欲しい、と紙の包みを頼まれました。川下に待っていたのは中学生くらいの男の子。そんな二人の関係を何となく分かった自分。みんなおませでしたね。

●このチープさがたまらない
 男の子の遊びの代表格は戦争ごっこかチャンバラ。棒さえあれば誰でも参加できるライブイベントです。お店で買うのは「めんこ」「ビー玉」「書き石(蝋石)」くらい。あとは道に落ちている瓦のかけらや、ちょっと形のいい石ころ。それに家にある5寸釘。それらを使って庭先や広場の地面に陣取りの陣形や石蹴り(ケンケンパ)の図形を描けば、そこはそのまま遊びのグランドです。弟や妹は必ず背中におぶい紐でくくりつけられていましたから、めんこ(長岡では「パチ」)の時は大変です。思いっきり腕を振り上げ振り下ろすたびに背中の子の首がガクン、ガクン。それでもぐっすりと眠り続けている背中の子供も大した度胸でした。

●おもちゃの素材はブリキ、セルロイド、それに紙
 金属製のおもちゃは大抵、軍隊の缶詰などの薄い鉄板を裏返しにしてデザインを印刷し、プレスしたもの。その他の成型品の主力はセルロイドでした。
  お祭りの出店ではブリキの百連発ピストル、セルロイドのハッカパイプといったところが男の子の人気商品。食べ物はオブラート、ニッキ棒(長岡ではニッケ)、棒を持ってしゃぶる三角飴、何色もの色の層を重ねた変わり玉、どこを折っても切り口が同じ顔の金太郎飴など。女の子のおもちゃの代表格は、お母さん手作りの布製お手玉。お店ではガラスのおはじき、セルロイドのお人形、千代紙、着せ替え人形、ぬり絵、それに当時初めてお目見えしたカラフルなビニールの細紐なども人気があったようです。
  近所の駄菓子屋さんでは、軒に下がった箱の小窓を破くと当たりが出るくじが人気。でもなかなか当たりが出ず、「スカ」ばかりでした。長岡ではこの言葉は珍しかったので、最初は「かす」の間違いとばかり思っていました。
ところで、「じゃんけんぽん」にあたる言葉を長岡では「あゆ・けん・よう」と言ったのですが、この掛け声はどこから伝わったものでしょうか。 
 

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キジが綱引く、エンヤラヤ。 [あんなこと、こんなこと]

あんなこと、こんなこと

キジが綱引く、エンヤラヤ。
3.終戦直後・小学校入学前 1945~1947 (s20-22)-②

 
山すそに集落。あとは田んぼ、また田んぼ

●できることはできる範囲で
   小学校入学前の子供でも、親にいろいろ頼まれてお手伝いをしました。日常的には豆腐を買いに行くこと。豆腐屋さんまで歩いて往復10分。家から水を入れたアルミのボールを持って行き、それに豆腐を一丁入れてもらいます。帰りは水がこぼれないようにうまくバランスをとりながら運びます。
   冷蔵庫などない時代なので、真夏には冷たい水が出る井戸をもつ家に、ヤカンを下げて水をもらいに行きました。ヤカンいっぱいの水は入学前の子供にとってはかなり重く、何度も持ち替えて運びました。近くの雑貨店までアイスキャンデーを買いに行く指令が出た時は弾んで出かけました。キャンデーは1本5円で氷に着色しただけの硬いものでしたが、あづきは噛むとポロット欠ける感じが良くて好きでした。値段は少し高かったかもしれません。

●家畜の世話は子供の仕事
   農家でも馬や牛を飼う家は少なかったのですが、ブタ、ヤギ、ニワトリはうちでも飼っていました。ブタの餌は残飯にふすまなどを加えて煮るのですが、時々消し炭も入れました。アルカリ食品として与えたのでしょうか。ヤギの餌はもっぱら、早朝田んぼの畦で刈ってきた新鮮な草です。ニワトリの餌には卵の殻になる成分を加えます。家の脇の川や田んぼから採ってきカワニナやタニシを石の台に乗せ、金槌でグシャグシャつぶしてそのまま混ぜるのです。ニワトリは毎日餌を上げているのに、卵をとる時つつくのでかわいいとは思いませんでしたが、ヤギはイヌのように連れて田んぼ道を散歩しましたし、ブタもとてもなついて、背にまたがって駆け足したこともあります。それだけに、成長したブタを屠殺場の車が迎えに来ると切なくてたまりませんでした。

●年中行事はそれなりに伝承
   3才年上の姉がいるので、3月にはお雛まつりをしました。おばあちゃんの嫁入り道具らしく、5段飾り用にすべての人形や小道具が揃っていましたので、飾り付けにはかなり時間がかかりましたが、なかなか立派なものでした。大きな菱餅をいつになったら食べられるのか気がかりでした。
   子供の日には、兄が祝ってもらった時の大きな真鯉と吹流しを立てました。父に誘われて田んぼの用水路脇に生えている菖蒲を採って帰り、菖蒲湯を沸かしました。まだ明るいうちにお風呂に入ったのは初めてでした。    七夕の日は願い事を書いた短冊を下げた笹竹を玄関脇に飾りましたが、見上げると空は文字通り満天の星。天の川は夜目にも白く、くっきりと見ることができました。

●ネコの手も借りたい時には
   秋の越後平野は、実った稲の穂で見渡す限り金色の波ですが、収穫時期になると刈り取った稲を干す高いはぜ(はさ・稲架)が農道の脇に屏風のように立ち並び、地上では全く見通しが利かなくなります。束ねた稲は8段ほども掛けてあったでしょうか。私には城壁のようにそびえて見えました。試しにひと束投げてご覧といわれてやってみましたが、4m近いはしご上の長兄の手には届きませんでした。 
   はぜの稲束が乾燥すると、大八車に山のように積んで家まで運びます。初めは父に山の頂上に放り上げられて「いい眺め」を決め込んでいるだけでよかったのですが、そのうち大八車の先導を担わされるようになりました。ちょうど「桃太郎」の話に出てくるキジのような格好で、太い綱を肩に担いで車を引く役です。実際には長兄が車を引き、家族みんなが後を押します。裸足の足に小砂利が刺さって痛かったのですが、足の裏が草履のようになって初めて生粋のお百姓(今はこれも差別用語?)と言える訳です。

●馬が勝ったら、牛はどうなる?
   農繁期の食事は、母も田畑の仕事があるため、ご飯は昼の分まで炊いていたようです。炊事場の壁をはさんで1.5畳ほどの火焚き場があり、ご飯を炊くかまどと鍋を吊るす場所が灰の中に並んでいました。火焚き場の手前は一段高い板場で、ここに座って火を使います。焚き物は主にわらと、豆をとった後の豆の木、それに、うちの山から集めてきた杉枝です。どれもカラカラに乾燥させてあります。豆を収穫した後の豆打ち(ごまめづくり)や杉枝拾いもよく手伝ったものです。
   ご飯を焚く時はわらをひとつかみし、輪にしてかまどにくべます。かまど全体に効率良く火が回っておいしく焚けます。こうして炊いたご飯は、朝食ではおかず・味噌汁といっしょに食べますが、野良からいったん戻ってからの昼食では、朝焚いたご飯を味噌汁鍋に入れて雑炊(おじや)にします。雑炊は消化がよく、すぐにおなかが空くのですが、腹いっぱい食べた子供たちは「ごちそうさま」とは言わずに、「ああうまかった、うしまけた」(馬勝った牛負けた)と唱えてごろんと横になるのでした。とにかく、腹いっぱいにさえなれば満足だったようです。

●土蔵の窓にヘビの影 
   父の言うことを聞かないと、よくお仕置きをされました。外に出されたことも、げんこつや平手打ちも、こちらが悪い子だから仕方ありません。怖かったのは炊事場の床下にあるコンクリートの地下貯蔵庫に入れられること。今で言う床下貯蔵庫などという生易しいものではなく、一坪ほどの広さに樽などが並んでいて、背が立たない深さなのです。そしてそれより怖いところが蔵でした。古い土蔵の戸は子供の力では開けられず、中は昼でも真っ暗で、その蔵の床下に入れられたら、もう万事休すです。「いい子になる~」と泣きじゃくりながら叫ぶのですが、助けはきません。大抵は泣き疲れて一眠りしたあとに母が「言うこと聞くんだよ。ほんとにいい子になるね。いっしょにあやまってやるから」と助けに来ました。このあたり、今思うと絶妙のコンビネーションでした。
  とはいえ、懲りずに何度も「お蔵入り」を続けるのですが、ある時、一つしかない蔵の窓に大きな蛇がのったりと這い上がっていくシルエットを見たことがあります。土蔵の内外にはたいがいねずみを探す青大将がいるのですが、この蛇が自分と同じ蔵の内側にいるのだったらどうしよう、と恐怖に思わず凍りつき、その時は泣き声すら立てることができませんでした。


怖かった蔵の地下室(左)と、ヘビ゙が昇っていた窓(右)。1990年に帰省の際のhi-8ビデオより。この蔵は2004年の中越地震で中破し、昨年、取り壊されました。

●犬が苦手になったわけ
   昔から、村ではお互いに屋号で呼んでいました。うちは「川下」というのですが、その名の通り、村の中を走る幅3メートルほどの川のいちばん下から4軒目に位置しています。家並みが途切れたその先には、だだっ広い田んぼだけが広がっています。川向うの家は農家ではなく、いなかにはまれなお金持ちの家柄だったようです。息子さんは私の長兄と同い年で、新しいカメラを買ったばかりという話でした。
  ある日私が一人で、田んぼの真ん中を流れるその川べりで遊んでいると、集落の方からシェパードを連れた彼が現れました。そして驚いたことに、手にした空気銃の狙いを私に定めて撃ってきたのです。かなり離れていましたから、弾はヒュルヒュルと数メートル脇をかすめていきましたが、びっくりする間もなく次に彼はシェパードをけしかけてきました。犬は川岸を駆け下って川を渡り、反対側の岸にいる私めがけてまっしぐらに駆けてきます。うちでは犬を飼っていなかったのでなすすべもなく立ちすくんでいると、駆けつけたシェパードは両足で立ち上がり、両手を私の肩にのせると大きな舌でペロリと私の顔を舐めたのです。私の背よりも高いシェパードにのしかかられて、あやうく転倒するところでした。程なく駆けつけた彼がすぐに止めてくれましたが、私は恐ろしさで一杯でした。
  思えば彼は単にいたずら心を起こしたに過ぎず、シェパードは親愛の情を示しただけなのですが、それ以来犬が怖くて近寄れなくなりました。「恐るべしトラウマ」です。


犬をけしかけられた川

●次回はまた新しいテーマを始めますが、そのあとに「あんなこと、こんなこと/小学校編」 を続けます。

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女の子とは遊ばない。それが男の心意気。 [あんなこと、こんなこと]

あんなこと、こんなこと 

女の子とは遊ばない。それが男の心意気。  

4.小学生の頃 1948~1953(S23~ 28)-①





  昭和16年(1941)の早生まれが15年生まれといっしょに小学校に入学したのは、昭和23年(1948)の春。戦後初めての民主化教育の第1期生になります。
当時ひとりっ子は少なく、たいてい兄や姉がおりましたから、ハレの入学式といっても制服・制帽・ランドセルはほとんど全員がお下がり。みんながそうならそれが当たり前、という訳で、新制小学生はその呼び名とは裏腹に、中古姿から発足したのでした。

  大雪が解けるのは3月末。梅の時期を飛び越して新学期は桜の開花と共にやってきます。
 厚く凍った雪を割ると、その下に緑の雑草が芽吹いていることの驚き。夏は満天の星空。秋は夕焼け空を埋め尽くす赤トンボ。自然の中で感動を胸いっぱいに満たしながら、朝はニワトリの声で目覚め、昼は夕暮れまで遊び放題。もっぱら外で駆け回っていた子供たちの耳には、「鐘の鳴る丘」「港が見える丘」「異国の丘」「みかんの花咲く丘」となぜか<丘づくし>の歌に混じって、デビューしたての美空ひばりが歌う「悲しき口笛」「越後獅子の唄」「東京キッド」の大人びた歌声が、いつも近所のラジオから聞こえていました。 

●女が男を「君」で呼ぶ

小学校入学前からそうでしたが、男の子と女の子がいっしょに遊ぶということをしませんでした。当時はまだ封建的な空気が色濃く残っていて、村内や街中で並んで歩く男女は用事で出かけた夫婦しかおりません。そんな気風が小学生にも及んでいて、登校も男の子同士、女の子同士。でも、なわとびやゴム飛びは混じって遊んだ記憶があります。


  おかしいのはお互いの呼び方です。どちらも苗字で呼ぶのは改まり過ぎる感じなので名前を呼ぶのですが、男子が女子を呼ぶ時はたいてい名前を呼び捨て。女子が男子を呼ぶ時は「くん」なのです。「さん」付けで呼ぶのはどことなく恥ずかしいということなのでしょうが、お互いに相手を「さん付けなんかで呼べるか」という体面があったのでしょう。
それから何十年も経った同窓会でも、やはり男性の大方は女性の名前を呼び捨て。女性が男性に呼びかける時は「くん」。それで小学生時代の思い出がより深まったのでした。

●鉛筆で破け、消しゴムで破けるノート

 教科書は2色刷りでしたが、問題はノート、鉛筆、消しゴムです。ノートの紙質はザラ紙で、鉛筆も消しゴムもよく練れていなくてザラザラ。ザラザラ同士で書いたり消したりするものですから、ノートは真っ黒になるし、こすりすぎれば穴があく始末。ついでに言うとクレヨンも蝋分が多くてほとんど色は付きませんでした。のちに色のりのいいクレパスが出て、クレヨンは敬遠されました。

 鉛筆削りは厚刃のかみそりか「肥後の守」という切り出しナイフ。「肥後の守」は当時の子供たちの必需品で、刃と鞘が一体になっていて真ん中から折って鞘に収めます。工作の時間だけでなく、山で遊ぶときなどになくてはならない「ひとつで何役」の優れものでした。今ならさしずめサバイバルグッズというところでしょう。


 学校には「購買部」という仕組みがあり、休み時間に上級生が学用品などを販売します。みんなが節約を考えていた時代ですから、鉛筆が短くなっても最後まで使えるアルミキャップなども売っていて、みんな2~3センチになるまで使っていました。購買部のわずかな利益の一部が学校の備品などに還元されていたのだと思います。

●弁当はなし。お昼は家に食べに帰る
 みんな歩いて通っているくらい小学校の学区は狭いので、お昼はいっせいに下校し、家で昼食です。たべたら学校に戻り、お天気なら外の運動場で遊びます。時間になると小使いさん(今は差別用語なのでしょうが当時のことですからそのまま書くしかありません)が鐘を鳴らして知らせますので、足洗い場でよく校庭の砂を落として教室に入ります。 

●おやつは、山に野に満てり
 学校から帰ると日が暮れるまでもっぱら外遊び。まずはおなかが空くので糧食の調達です。目指すは台所の梁に下げてある乾物を入れたカゴ。いつもは煮干(それもおとなの人差し指ほどの)が多いのですが、時にはスルメ、のしいか、干だら、身欠きニシン、くるま麩(越後特産のドーナツのような麩)、ソーセージなど手当たり次第ポッケに入れて出かけます。これらを遊びながら丸かじり。
庭にはグミ、スモモ、イチジク、カキ、ナツメ、ザクロ。田ではハスの実。山ではクリというように、周り中自然の恵みに満たされて、今みれば何とゴージャス。これが欠食児童と呼ばれて育った小学生のおやつなのです。終戦から13年を経た日本はもう「もはや戦後ではない」と意気込み始めた時代なのでした。

●ストーブ当番と冬のあそび
 冬はストーブ当番がありました。早く登校してストーブに火を入れ、教室を暖めておかなければなりません。大雪の年は一晩で4~50センチも積もります。誰も歩かない早朝は県道が雪で埋まっています。大人が一人歩いた靴の跡を大またでたどりながらの登校。靴跡を踏み外せば、長靴の中にどっと雪が入り込みます。長靴にはわらを丸めたものを敷いてあるのですが、雪が入ったら悲惨です。靴を脱いで出すしかありません。冬でも靴下を履いた覚えがないのは、長靴の中で雪が解けたら困るからでしょう。学校では冬でも裸足にズック靴。
 学校の裏の小屋に石炭が貯蔵されていて、石炭バケツに山盛り一杯が自分の教室の1日分です。教室のストーブはだるまストーブで、新聞紙と杉の葉にマッチで点火したあと、少しずつ石炭をくべていきます。うちわでよくあおがないと石炭にはなかなか火が付きません。教室が暖まる前にみんなが登校してきます。
長岡は雪は多いのですが、氷が張る場所が少ないので冬の遊びの主流はスキーです。田んぼは一面雪の原でツアースキーに最適。山に入ればどこでもクリスチャニアができるスキー場です。

2月に入ると「凍み渡り(しみわたり)」ができます。午前中なら雪の表面が凍結していて、どこまでも歩いて行けるのです。ただ、帰りが遅れると靴が雪に埋まって帰れなくなるので要注意でした。また、山には杉が多く、春先にはスギ花粉をいっぱいに付けますが、その幹を思いっ切り揺さぶっては、頭から全身まっ黄色になって遊びました。花粉症などという症状も言葉もまだ生まれていなかったのです。

 

●校舎の内外は東京都府中市郷土の森の「尋常高等小学校」で撮影したもの。

上の雪の風景は1963年1月、長岡帰省の際撮影の8ミリ映画より。

 
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「食」満ちて、野に山に、元気百倍。 [あんなこと、こんなこと]

あんなこと、こんなこと

「食」満ちて、野に山に、元気百倍。
5.小学生の頃 1948~1953(S23-28)-② 

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●娯楽はラジオと蓄音機

  小学校に入るとラジオの楽しさが分かるようになり、「二十の扉」というクイズや「とんち教室」「話の泉」など、今で言うバラエティ番組を家族といっしょに聞くようになりました。ダイヤルに触れるとガリガリとノイズが入るようなラジオでしたが、結構家族団らんの中心的役割を果たしていました。音楽を聞きたい時は蓄音機です。さすがにラッパ式ではありませんでしたが、ハンドルでスプリングを巻く動力方式は変わらず、針も竹製のものがありました。レコードは78回転の大盤です。それも父が好きだった広沢虎三や三門博といった浪曲ばかりで、唯一子供が楽しめたのは、「桃太郎」「金太郎」「浦島太郎」などの昔話を歌にした童謡でした。兄たちが買ってもらった同名の講談社の絵本を開きながら、それこそ溝が擦り切れるまで聞いたものでした。この蓄音機もまもなく調子が悪くなると、新しく登場した「電蓄(電気蓄音機)」に変えられました。 

●楽しみだったサーカスと相撲の巡業

 当時は教室での授業はどの先生も優しく、民主的で穏便でしたが、それをカバーするかのように、大抵どこの家庭もスパルタ教育で厳しく子供をしつけていたと思います。私は学校ではいい子、うちに帰るとまったく言うことを聞かない悪い子でした。この悪い子は中学生になってから更に悪くなるのですが、それはまだ先のこと。父はとても怖いのでできるだけ避けていましたが、その父も、田植えが済むとやってくる「木下大サーカス」や相撲の巡業に連れて行ってくれました。木下サーカスはトラやライオンが演技したり、地球儀の中をバイクが走り回る荒業を当時からやっていて度肝を抜かれた記憶があります。また、3年生の時(1950年)には長岡で開催された「新潟県産業復興博覧会」にも連れて行ってくれました。少し教育的なものを、という積りだったのでしょうが、興味を引かれたものはあまりありませんでした。広い街区がそのまま会場に仕立てられ、会社や学校など既成の建物がいわばパビリオンとして使われていましたが、地面は土のままでした。 

●遠足のお昼は茶碗4杯分

 春は学校から近いところへ写生遠足。秋にはかなり遠くまでの遠足がありました。お弁当は母の手作りおにぎりですが、特徴はその作り方です。まず茶碗に平らにご飯をよそい、真ん中に大きな梅干を乗せ、その上にもう1杯分のご飯をてんこ盛りにして、塩をまぶした両手で回しながら固めます。それをまな板の上にあけ、海苔1枚をそのまま使って包んで出来上がり。つまり、おにぎり1個は大人用茶碗で2杯分のボリュウム。それを2個持って出かけるのです。お昼は、道の脇にアサヅキやノビルが生えているところを選んで座ります。それがおにぎりのおかず。別に用意してきた味噌や塩をつけて食べるのです。それは飢餓からではなく、野趣を楽しむということで、この頃はもうご飯を腹いっぱい食べられる時代になっていたのです。 

●蛍の光、窓の雪

 家から1分も歩けば田んぼでしたから、蛍が出る時期になると毎日のようにホタル取りに行きました。口に含んだ水をプッと吹きかけたほたる草をサイダーのビンに入れて持っていきます。街灯などは無く真っ暗なので、田んぼ脇の小川で飛び交うホタルの点滅がとてもくっきりとしてきれいです。それをうちわで追って捕まえ、ビンに入れます。取ってきたホタルを蚊帳の中に放すとそれは幻想的で、蒸し暑さを忘れていつしか眠りについているのでした。「蛍の光、窓の雪」という歌詞を試してみようと、実際に本のそばにホタルを近づけてみたり、冬の夜、窓際の雪明りに本をかざしてみたことがあります。何匹ものホタルを使うと、交代で光り続けるのではっきり本が読めましたし、雪明りでも目が慣れれば読むことができました。 

●紅いちょうちんを下げてお墓参り

 お盆は旧盆で8月です。お盆には家の前庭から県道に出る小道の上に縄を張り、兄姉たちが描いた絵を張った四角い短冊形の提灯を下げます。すぐ上の兄がある人の似顔絵を書きました。その下に「ONE MAN」と描いたのを「オネマンって何?」と聞いたら「ワンマンと読むんだよ」と教えてくれました。ワンマンとは時の首相・吉田茂のことです。ローマ字読みをしたのですから4年生の時でしょう。当時は4年生からローマ字を教わったのでした。夕食が済むと家族みんなでお墓参りです。浴衣姿で、子供たちは小さい盆提灯を下げて行きます。提灯の上はぼかしをかけたピンクで、下にはハギの絵が描かれています。県道はお墓参りの人たちが行き交い、賑わいます。提灯の明かりでほんのりと照らされた足元は小砂利の道。乾いた下駄の音。そんなお墓参りの趣が大好きでした。アスファルト舗装も無く自家用車も無い時代のことです。 

●夏休みは神社の境内で「朝学習」

 夏休みには学区単位で1年生から6年生までがいっしょに集まる「朝学習」がありました。場所は最寄りの神社の境内です。朝8時に集合して点呼のあと、てんでに境内のきざはしや石垣に腰掛けて「夏休み学習帳」を広げます。国語・算数・理科などで、それぞれ1日1ページの予定でしたが、みんな分かるところはどんどん進めていました。早く宿題を終わらせて出来るだけたくさん遊びたかったからです。 学習が終わると6年生のリーダーの掛け声で、陣取り合戦や戦争ごっこが始まります。社の周りや広い境内が合戦場です。追いかけっこや取っ組み合いは自然に同年齢同士となり、高学年生が全体の動きを上手にコントロールしていたようです。そのままお昼まで境内で遊んでいることもありましたが、時には村はずれの川に泳ぎに行くこともありました。川は田の用水路で子供の背がやっと立つほど深く、水は赤茶色、水中で目を開けると何も見えませんでした。一度頭の真上を大きなヘビが泳いで通り過ぎました。びっくりして顔を上げましたが、ヘビが通った川下は気持ち悪くて、早々に川から上がりました。 

●「稲刈り休み」のメインイベントはイナゴとり

 この当時、小学生と中学生には春休みと夏休みの他に、6月には「田植え休み」、10月には「稲刈り休み」というものがありました。それぞれ1週間程度。農繁期で多忙な家の手助けをするための休みですが、その分、春休みと夏休みの期間は短縮されていたようです。 小学生にとっての「稲刈り休み」は、イナゴを捕まえて学校へ持っていくことが義務付けられていました。10センチほどの長さの竹筒に手ぬぐいでこしらえた袋をゆわえつけたものを持って、早朝、イナゴの動きが鈍いうちに田んぼへ出かけます。たわわに実った稲穂にはイナゴが鈴なりで、行く手をバサバサと遮ります。繁殖期ですから大抵はつがいで、いっぺんに2匹ずつとることが出来、袋はたちまちいっぱいに。それを学校に持参したあと、朝食を済ませて、稲刈りに出かける家人の手伝いです。遊びから家に帰れば、ざるにイナゴが山のように積んでありましたから、よくおやつに食べました。鍋で炒ったものはカリカリ。茹でたものは多少グジュグジュ。とくにうまいと思って食べた訳ではありませんが、さつまいもとイナゴは秋のおやつの定番でした。学校で集めたイナゴは製薬会社などに売られて、今で言う健康食品などに加工されていたのではないでしょうか。 

●大晦日は眠らずに

  小学生にとって何が楽しみと言えば、お正月を待つほど楽しいことはありません。暮れも押し迫った頃の夕方、こたつでラジオを聞きながらうたた寝をしていると、お勝手で餅をつく音が響いてきます。そのうち、もうもうとした湯気も立ち込めてきて、起きだすと、父が炊き上がったばかりのおこわを食べさせてくれます。父と兄が交代で餅をつき、母が反します。お勝手には大きな「塩引き(塩ザケ)」がぶら下がっています。大晦日の夜の食膳は、焼いた餅やらきなこ餅、具だくさんの雑煮と「のっぺい汁」、自家製の納豆、漬け菜(野沢菜の粕漬け)、更には大きな器に山のように盛られたカズノコなどなど、食べ放題。たらふく食べたあとは、兄に「今夜眠ると正月は来ないぞ」といわれたことを真に受けて、眠い目をこすりながらがんばって徹夜した年もありました。


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●今ではイナゴも高級品。多分養殖で、あまり大きくならないうちに加工するのでしょう。昔は小型のバッタ位のものまで食べていました。ハチのさなぎも油が乗っていて、とてもうまかったです。

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