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「ヒャラ~リ、ヒャラリコ」笛の音が。 [あんなこと、こんなこと]

あんなこと、こんなこと

「ヒャラ~リ、ヒャラリコ」笛の音が。
6.小学生の頃 1948~1953(S23-28)-③ 

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6年生の修学旅行は新潟へ。右後方は万代橋。
●宿泊した「福住旅館」。写真のすぐ右手は柳並木が続く掘割でした。

●朝鮮戦争勃発で、子供までもが鉄くず集め
  1950(S25)年6月25日は日曜日でした。この日はお天気で、珍しく明るいうちにお風呂に入った記憶があるので、お祭りの日でもあったのでしょうか。お風呂から出て身体を拭いていると母が来て、「また戦争が始まったそうだよ」と言いました。それが朝鮮動乱の始まりでした。太平洋戦争が終結してから5年しか経っていないので、日本は米国に従って戦争に巻き込まれてしまうのだろうかと不安になりました。

  しかしその懸念は払拭され、結果的に朝鮮戦争は、日本に拠点を置いた国連軍の特需が戦後の復興に総力を挙げていた日本の産業を後押しする形となり、経済力が一挙に戦前のレベルにまで高まったというのですから皮肉なことでした。自分たちも訳も分からず空き地や川で「鉄板なんかよりも銅の方が高く売れるんだ」などと言って金属くず漁りをしたものでした。国全体がそういうムードだったということなのでしょう。 

●学校でも授業中に先生のお手伝い
  当時は1年生から6年生まで全校生徒、400人弱。1学年1クラスで、私たちのクラスは64人でした。2クラスに分けるには足りなかったのでしょう。生徒は先生が決めたいろいろな係を担っていました。高学年になると私は企画係に任命されました。企画とは何かは理解できませんでしたが、展覧会や学芸会などについて考えをまとめたりしました。また企画とは関係なく、試験の前日、授業中に先生に呼ばれて、試験の答案用紙のガリ版切りを任されたりしました。明日自分が受ける試験問題を謄写版で刷るのです。

  またある時は保健の女先生から、赤いバラの花のセロファンで石鹸箱大に包装された黒い布を、メモした数に仕分けしておくように頼まれたこともあります。それやこれやで、全体をまとめる構想を立てるというようなことが何となく自分に合っているような気がしました。今考えると、小学生の頃に関心を持ったもの、体験したもの、感動したもの、そして、親や先生から示唆を受けたもの…それらの延長線上に今の自分があるような気がします。 

●家でもお手伝い
 高学年になると家の手伝いから逃げ出したい時もありましたが、取り掛かると面白くなるものです。田植え、稲刈りなどの田んぼ仕事はもちろんですが、畑や山でも結構手伝いました。春は鍬(くわ)で畑の畝(うね)づくり。冬眠中の蛙を真っ二つにしてしまいました。夏はまき割り。周りをニワトリが跳び回っていました。秋は山の杉枝拾い。枯れた枝がたくさん落ちているのですぐに集まるのですが、大きく束ねて背負うと背中がちくちくしました。

  冬は別棟の作業場で父のコーチで縄綯(な)い。また、味噌も納豆も自家製だったので、家の前庭に大きなドラム缶を据えて豆を煮込んだり、作業部屋の隅に仕込んだ納豆のわらに熱湯を注いだりする手伝いもしました。こんな風に農家仕事はひと通り体験しました。一人前に両手の指の付け根は全部マメだらけになり、硬いしこりは40歳を過ぎても消えませんでした。 

●反抗少年もこの時ばかりは深く反省
  学校では男の先生に宿直という役割があり、順番に学校に宿泊して火事や災害などの非常事態に備えていました。宿直室の入り口は階段の脇にあり、部屋は4畳半ほどの畳敷きです。夏休みや冬休み、大好きな先生が宿直の日には、友だちとそこに遊びに行きました。先生は授業とはまったくちがう楽しい話をしてくださいました。特に楽しかったのは、思い切り怖い話を聞いたあとで、学校の中でかくれんぼをするのです。電灯一つ点いていない真っ暗な校舎の1階から2階まで全部の教室が隠れ場所です。体育館の床に腹ばいになると見つからないのです。

  ある時、家の手伝いを言われて反抗し、父にひどく怒られました。その夜がたまたま大好きな先生が宿直だったことを思い出して、そっと2階の屋根からひさしを伝って抜け出して学校へ行きました。いつものように楽しい話を聞いて午後9時過ぎに帰ってくると、家がいやに賑やかです。親戚の人たち全員が集まっているようですが、雰囲気が穏やかではありません。何事があったんだろうと玄関に入ったとたん、「どこへ行ってたんだ!」と誰かに怒鳴られて、びっくりしました。「これから警察へも頼んで、みんなで山狩りを始めようというところだったんだぞ」。なんと私は、怒られて家出したと思われたのです。「まあ、無事に帰ってきたんだから良かった良かった」と叔父さんのとりなしで収まりましたが、あとで父にこっぴどく殴られお灸を据えられたことは言うまでもありません。人に迷惑をかけるとどういうことになるか、身をもって思い知らされた大事件でした。 

●風呂焚き場とラジオの前を何回も往復
 週に1度は学校から帰ると風呂の水汲みと風呂焚きが役目。水道などというものはなく、うちでは家の脇を流れる川の水を台所脇の井戸に引き込み、つるべで汲み上げて浄水層に注ぎ、漉過したものを飲料水や調理に使っていました。浴室は農家には珍しい全面タイル張りで台所に隣接していました。浴槽は四角く、壁面と同じ明るい緑色のタイルです。風呂水は井戸からつるべで汲み上げたものを約50回運びます。重い桶の水を浴槽まで運ぶ作業を何回も何回も繰り返す仕事は結構きついものでした。

 その頃ラジオでは「笛吹童子」というドラマが子供たちの人気番組でした。この番組が風呂焚きの時間とちょうど重なるのです。風呂釜に杉の葉と薪を入れ、マッチで点火して、ようやく火が薪に燃え移った頃、「ヒャラ~リ、ヒャラリ~コ。ヒャリ~コ、ヒャラレロ」と福田蘭堂作曲のテーマが居間から聞こえてきます。もう居ても立ってもいられずに居間のラジオの前に飛んでいき、ドラマの成り行きに耳を傾けるのですが、風呂の火が心配で駆け戻ります。この繰り返しでドラマを断片的に聴くのですが、聞けなかった部分は想像したりして、本当に作者・北村寿夫のファンタジックな時代劇の世界に浸りきっていました。「笛吹童子」は「新諸国物語」シリーズの2作目で1953年(S28)放送開始。この前に「白鳥の騎士」があり、「笛吹童子」のあとの「紅孔雀」「七つの誓い」「オテナの塔」を加えた5作で完結。すべて映画化されましたが、ラジオと映画で楽しんだのは中学1年生まで。「紅孔雀」以降は卒業しました。 

6年生で初めての修学旅行。旅館で雑魚寝
 1953(S28)年、小学6年生になると1泊の修学旅行がありました。目的地は新潟県の首都・新潟市です。長岡から上越線を蒸気機関車で2時間くらいだったでしょうか。新潟港、県庁、新潟大学、新潟放送局などを見て回りました。宿は古町通りの「福住旅館」でした。当時の古町はまだ花柳界の面影が残っていて、宿の前には柳並木の掘割があり、子供ながらにどこか粋な香りを感じました。夜は大部屋で男女いっしょの相部屋。お決まりの座布団投げで騒いだあと、男女交互に横になりみんなで布団を頭までかぶってふざけあいました。パジャマなどという洒落たものは当時着た覚えがありませんので、消灯後はみんな学生服とセーラー服のままで雑魚寝だったように記憶しています。

 旅行のお小遣いは200円位だったと思います。母へのお土産を探していた私の眼にとまったものは、なぜか1本だけ30円で売られていたバナナ。まだ食べたことの無いバナナ。これをお土産にしたら喜んでくれるかな。ひと房では高価で買えないけれど、この値段なら買える、などとさんざん躊躇した挙句にそれを買いました。帰って母に「はい、お土産」と手渡すと、「お前は…」と一瞬絶句したあとに、「バナナをまだ知らなかったんだね。これはお前が食べなさい」と戻してくれました。そうか、みんなは食べたことがあるんだ。このとき初めて、自分は戦後、ゼロから出発した世代なんだということを自覚しました。

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1948~53年(S23~28)頃の児童書籍。「ビルマの竪琴」「二十四の瞳」「ノンちゃん雲に乗る」「アンネの日記」などもこの時期に刊行されています。
1952(S27)年4月からNHKラジオで連続放送劇「君の名は」が始まりましたが、小学生が興味を持つにはまだ早すぎました。

ANAホテルズ Caves.I 125*125

「格差」は身体にもあった、という話 [あんなこと、こんなこと]

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あんなこと、こんなこと―7
 
「格差」は身体にもあった、という話
小学生時代 1948~1953(S23-28)-④
 

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●かけっこが苦手だった小学校の校舎とグラウンド(「スタート35」で撮影 1953頃)

●かけっこはたいていビリだった
 昭和16(1941)年の早生まれ。それは昭和15年生まれといっしょに1年生になります。最大1年間の開きがあります。まだ幼少ですから、これは体格の面でも知能の面でもかなりのハンディキャップだと思うのですが、いかがでしょうか。
 
小学生の頃、私は運動会が大嫌いでした。5~6人で走っても3位以内に入ったためしがないのです。良くてビリから2番目。個人レースの場合はまだしも、リレーとなると責任重大です。一生懸命駆けるのですが、どんどん追い抜かれてしまいます。チームが負けると全部自分の責任のように感じ、仲間に済まない気持ちでいっぱいでした。そんな運動会が楽しい訳がありません。だから競技というものがどんどん嫌いになっていきました。案外こんな年頃に、すでにこんなところから文系・理系・体育系が分かれたりするのかも知れません。それ以来、スポーツに限らず競争することはとても苦手な人間になってしまいました。 

●村で一軒のなんでも名医さん
 当時、村の医療機関は、内科・外科・小児科・皮膚科と何でも診てくれる「原医院」とお産婆さんの2軒しかありませんでした。お医者さんは「原さん」と呼ばれて親しまれていました。村の人たちはどの家も主治医といえば原さんでした。ある時、風邪をひいて原さんに診てもらいに行きました。
  玄関を上がるとすぐに8畳二間続きほどの奥行きの待合室があって、大勢の患者が待っています。待合室の奥には誰も座らず、そこは外科の施術室代わりに使われます。柔道有段者の先生にとっては手足の脱臼などはお茶の子さいさい。先生はみんなの見ている前で患者を畳にうつ伏せにすると、「えいっ」という掛け声とともに鮮やかに治して見せてくれました。それはまるで観客の前で演じられる劇を見るような鮮やかさでした。
 

●かかとが取れそうなほどの大怪我
 そのお医者さんのことを書いていて思い出しました。それは小学校入学前に大怪我を治してもらった記憶です。
 どういういきさつかは忘れてしまいましたが、農家の遅い夕食の時間帯でしたから奥の部屋は真っ暗でした。その部屋に勢い良く飛び込んでいった私の左足のかかとが、畳の上に上を向いて転がっていた切り出しナイフをもろに踏んでしまったのです。刃渡りは5センチくらい。柄に黄色い藤弦が巻いてあり、その部分が曲げてあるので、刃を上にして立つのです。きっと大声を上げたと思うのですが、すぐに駆けつけた父と兄たちが傷口を押さえ、父がおぶって「原さん」に急いでくれました。かかとは三角形をした刃の深さそのままに切り分けられて、パクパクしていたそうです。
  先生は薬液を浸した黄色いガーゼを何枚も何枚も重ねて、包帯できつく縛ってくれました。通院期間は結構長かったと思いますが、処置はいつも黄色いガーゼでした。ガーゼの取替えは、傷口を少し開いて貼りついたガーゼをピンセットで取り出し、新しいガーゼを挟み込みます、初めはとても辛かったのですが、開く部分も次第に狭くなり、やがて傷跡も分からないほどに完治しました。あの大怪我にもかかわらず、神経も血管も完全につながった訳ですから、当時としては大した技術だったと思います。
大人になってからは、子供たちの怪我の用意に、家の救急箱には必ず黄色い薬液に浸したリバガーゼを入れておいたものでした。 

●生まれついての心臓弁膜症?
 
通信簿には健康上の所感を書く欄があります。原さんは小学校の健康診断も担当していました。私の胸を指先と聴診器で診ただけで、先生は「心臓弁膜症」と言いました。手術をしたのは今から4年半前ですが、私は小学1年生の時から心臓弁膜症と診断されていたのです。
 当時、心臓弁膜症と言われてもどんな病気か分かりませんでした。生活に支障がある訳ではなく、体育の時間に見学していなければならない訳でもなく、みんなと同じことをしていましたが、母は私が生まれた時は虚弱だったと言い、育て上げることができるかどうか随分心配したようです。
 信越本線で新潟寄りに羽生田という駅がありますが、私が物心がつく前から毎年一度春になると、汽車でそこのお寺さん(定福寺?)にお参りに連れて行ってくれました。
 本堂の中に「おびんづるさま(十六羅漢の筆頭)」と呼ぶ黒光りした像があって、参詣者は自分の身体の治したい部分とその像の同じ部分を交互になでて、良くなるようにお祈りします。その時母は、私の頭から足まで撫で回していましたので、どこがいちばん悪かったのかは分かりません。 


  早生まれで、同学年でも実質1年違いという体力差。かかとの大怪我。そして心臓弁膜症。これらがかけっこビリの要因ではないか。このハンデがなければ、自分は必ずしもスポーツ嫌いにはならなかったのでは、と思うことがありました。でも、それは負け犬の遠吠え。どっち道スポーツが苦手だったから、別の道へ進む方向性がはっきりと定まったのだと思います。

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●小学校、中学校の通学路で、村の中央を貫通しているメインストリート(県道 1953頃 火の見やぐらの右手奥…家の陰で見えない…が自宅)
夏はやぐらの上で、4km程離れた長岡の3尺玉花火を見ていました。それ程遮るものがなかったということです。

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●自宅の庭から見た火の見やぐら   ●当時の照明はまだ電球です。 

☆次回、5月号表紙は5/2(金)にUP致しますのでご了承ください。

「毎日が発見ネット」

「ピカピカの1年生」…それは中学1年生 [あんなこと、こんなこと]

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あんなことこんなこと―8

「ピカピカの1年生」…それは中学1年生

中学生時代 1954~1956(S29-31)一①
  

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●標高300m。
 自然に囲まれた教育の理想郷・山本中学校(1956年、卒業記念アルバムより)

 戦後10年を迎えた中学生時代。ようやく世情も落ち着きを見せ、世の中は「もはや戦後ではない」を合言葉に米国依存から離れようという気運が高まっていました。それが中学生にも伝わったのか、民主主義教育の効果が現れたためか、みんな高い自主意識を持っていたと思います。
そのせいかどうか、中学時代の3年間は思いっきり反抗期でした。
 何しろ民主主義教育の第一期生ですから、理屈だけは一人前。父は封建制の権化、ということでことごとく反撥。歳の離れた兄たちにも反抗。言うことを聞かないから怒られる。怒られれば我を張ってますます言うことを聞かない。挙句の果ては家人と顔を合わせたくないから、何とか外に出る口実をつけて家には食事の時間にしか戻らないという毎日。村には遊ぶ場所もないけれど、とにかく家と離れていたかった。だから放課後はできるだけ帰りが遅くなるように、クラブ活動で小学時代の学芸会で病みつきになった演劇の真似事に明け暮れていました。
 そんな中学時代の大きなエポックは、1954(S54)年11月、町村合併により村が町に変わったことです。それまで新潟県古志郡山本村大字□□000番地と書いていた住所が、新潟県長岡市□□町000番地と短くなりました。村が町になった。それだけで何か新しい時代が始まるようなうれしい気持ちでした。

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●「山中坂(やまちゅうざか)」と呼ばれる山本中学校の通学路

●白線1本の学生帽が誇らしい
 
中学生になるとお下がりを着る必要がなくなりました。晴れて新調の学生服とセーラー服です。昭和15~16年生まれにとって「ピカピカの1年生」とは中学1年生のことでした。男子は白線が1本入った学生帽。でもその下は坊主頭です。足元は男女とも下駄履き。中学生になっても、冬でも靴下を履いた記憶はなく、学校では素足のままズック靴に履き替えます。教科書は毎晩明日の時間割に合わせて鞄に詰めますが、カバンは男女ともたいてい布製で、男子は手提げ形式か白い布製のたすき掛け。女子用では花柄の布袋に木の取っ手をつけたものなどもありました。 

●通学路がそのまま自然植物園
 母校・山本中学校は標高300メートルの山を切り拓いて作られています。この学校に近隣の8つの集落から生徒が通学してきます。県道脇の林の中に墓地があり、その前を通って山の上の学校まで、杉木立を縫って4~500メートルほどの通学路が続きます。住宅は少なく、ほとんど通学専用路。周囲は自然のままで、いろいろな草花が咲いています。その草木のふもとには、「マテバシイ・ブナ科」「ムクノキ・ニレ科」「ヤマウルシ・ウルシ科」など、先輩たちが設置した小さい立て札が立ててあり、毎日の登校・下校の際に自然に植物の名前を覚えられるようになっていました。学校ではこの登校路を「自然植物園」と呼んでいました。
  大きな曲がり角には私の大好きなネムの大木があって、初夏にはたくさんのピンクの花を咲かせました。森の木立の中ではいろいろな鳥の姿が見られましたし、冬には足跡を辿って林に入ると、白兎が姿を現したりしました。
 

●おかずはニシンの糠(ぬか)づけ、味噌汁の具には鯨肉
 新潟県といっても長岡は内陸部のため、普段の生活ではあまり新鮮な魚は食べられません。よく食べたのはニシンの糠(ぬか)づけ。かなりしょっぱくて、発酵のせいか喉がひりつくことがありました。また「さんま蒲焼」「さば味噌煮」「さば水煮」「くじら大和煮」などの缶詰もよく食べました。特に鯨は日常的な食品で、黒い皮がついた厚さ10センチもありそうな塩漬けの脂身を小さく刻んで味噌汁の具にしました。
 中学校でも給食はなく、弁当持参です。アルマイトの弁当箱に母が詰めてくれるおかずは、大抵、切り昆布の佃煮、鯛デンブ、まぐろの角煮やフレーク、ソーセージなどです。もちろん玉子焼きも。こうした庶民の食べ物が、今や高級食品に変わったことを思うと、隔世の感があります。
 食べ物でちょっと変わったところでは、父が田んぼの用水路で捕まえたなまずや八ツ目うなぎ、鯉や雷魚も食べました。噛み付いたら離さないといわれる雷魚は田んぼのあぜに穴を開けて水を流出させてしまうので困るのです。危険承知で捕まえた父は、少しでも家計と家族の栄養の足しにと考えたのでしょう。
 

●冬は大釜の出番。蒸気で蒸されたホカホカ弁当
 雪深い長岡では、冬、弁当はお昼までに冷え切って氷のように冷たくなります。そこはそれ雪国の知恵で、学校には大きなかまどを備えた1室があって、用務員さんがみんなの弁当を温めてくれるのです。生徒は登校するとまずその部屋に行き、用意されたすのこに自分の弁当箱を並べます。おかず入れが別になっている場合は弁当箱に重ねて置きます。かまどにはすでに火が入っていて、凍える身体で登校した生徒たちはホッとした気分になったものです。
 
すのこはクラス別になっていて、クラスは1年から3年までそれぞれABCの3クラスずつ。1クラスは大体40人で、1クラス分の弁当箱は1段のすのこに収まります。全校生徒で合計9段。授業が始まると用務員さんはそのすのこをヨイショと大釜の上に重ねます。天井に届きそうな高さです。
 
さて、待望のお弁当の時間。大釜のある部屋は蒸気でかすんでいます。二人の当番が自分のクラスのすのこを教室まで運んできます。みんな我先にと自分の弁当を取りに行きますが、よく蒸しあがった弁当はやけどしそうに熱くなっています。てんでにふたを開けたとたん、おかずの匂いが教室中に充満します。たくあんと納豆を混ぜたような複雑な匂い。こうして真冬の弁当は外が吹雪でもアツアツで戴くことができたのでした。
  ところで、大釜のすぐ上に置かれた弁当は熱いのですが、最上段ではさほど熱くなりません。そこで毎日すのこを置く段を決めるローテーションが組まれていました。

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●弁当を温めてもらった部屋によく似た部屋・特に土間部分(府中市郷土の森にて)


●この記事に関連して、ビデオサークル「月曜クラブ」会長の石原恙逸さんから下記のメールを頂きましたので、掲載させて頂きます。
石原さん、ありがとうございました。


いつもながらの素晴らしい思い出話感動しています。
私の小学校時代は戦時中でした。アルマイトの弁当箱に梅干一個だけでした。冬になると教室の隅に弁当を温める機械が置いてあり、登校するとすぐにそこに入れ、お昼に出して食べます。毎日梅干一個の日の丸弁当で、アルマイトの弁当箱のふたに梅干の置かれているところに穴が開いていました。
中学時代は終戦直後でした。学生服などありません。それでも父が古着屋を探し回り上着だけ買ってきてくれました。ズボンはありあわせのよれよれズボンでした。それでも嬉しくて小躍りしたものです。その頃、大変な食糧難で弁当は殆ど抜きでした。たまに大豆の炒ったものをポケットに入れて行き、授業中にポリポリとかじるか、サツマイモのふかしたものを2個ばかりかばんに入れて行き、やはり授業中に食べてしまったものです。毎日が空腹との戦いでした。
靴は当然のことながらありません。下駄履きでしたが、これがホウバの高下駄でそれをはいてカランコロンと音を立てながら歩くのがいかにも中学生と、誇りのようなものを感じていました。
中学3年を終え4年生になるときに新制高校に変わり、旧制中学生から新制高校生になりました。
                               石原 恙逸


デル株式会社

耐えること…それが根性の出発点 [あんなこと、こんなこと]

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あんなことこんなこと―9
耐えること…それが根性の出発点
中学生時代 1954~1956(S29-31)一② 

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●長岡市立山本中学校 1956(S31)卒業記念アルバムより

●山の手は、昔栄えた東山油田
 
1954(S29.11)年に町村合併で長岡市に編入される前、山本村の山の手(と言っても山の中のこと)には、明治から大正時代にかけて東山油田と呼ぶかなり大規模な油田があったということでした。小学生の頃遠足に行ったことがありますが、真っ黒なドロドロの原油を貯めた小池や石油ヤグラもまだ何基か残っていて、ポンプが細々と石油を汲み上げていました。村は戦前まで石油採掘の基地として、今よりは栄えていたと父から聞きました。
 
まだ稼動を続けていた東山には石油会社の事務所や社宅があります。合併による8つの集落の結合で、そこの中学生も山本中学生で学ぶことになりました。それまではほとんど農家の子供たちだけ。そこにサラリーマンの子供たちが加わったのです。どこか垢抜けて都会的な雰囲気を感じさせる彼ら・彼女らは、引っ込み思案のいなか育ちにとってはとても新鮮でした。彼らが加わったことで、校内が活性化したことは確かでした。
 油田のある東山には小学校の分校があり、山の小学生は冬はそこで学習していましたが、中学生になったら山本中学校に通学しなくてはなりません。冬になると彼らは毎日、たとえ吹雪の日でも雪山を越えて1時間以上もかけてスキーでやってきました。当然朝早く家を出て、危険な谷や沢や森をすり抜けて下ってくるわけですが、帰りはもっと大変です。授業が終わるとそこそこに帰路に着きます。けれども冬は日暮れが早いので、帰宅は薄暗くなってからだったと思います。それでも事故の話は聞いたことがありません。いかに彼らのスキー技術と自然適応能力が高かったか。いずれにしても、彼らがその通学体験で学んだことは計り知れないと思います。
 

IMGP4125-2.JPG●明治30年(1897)頃の東山油田の情景

●自然環境と先生が鍛えてくれた「忍耐と根性」
 中学校が山の中という好条件の学び場に加えて、中学時代は季節ごとに自然の中での教育が行われていました。今から見ればそのほとんどが、人手を加えていないありのままの自然の中でした。
 春の写生遠足をはじめ、学校のすぐ裏山での「青空教室」と呼ぶ授業。これは理科の自然観察だったり、美術で絵を書いたり、音楽で合唱したり、あるいはホームルームのような内容で過ごすこともありました。ホームルームでは校内の問題解決についての討議がなされたりしますが、自分の意見を主張するだけでなく、人の話をよく聞く姿勢も学びます。
 夏は臨海学校。1泊泊まりの海水浴です。砂浜が狭く、水際からすぐに深くなっているのが波荒い日本海の浜辺の特徴。小学生時代、田んぼの緩やかな用水で泳いでいたのとは訳が違い、大きな波に巻き込まれてキリキリ舞いをしていました。
 秋は遠足。少し遠出ができるのでみんな楽しみにしています。本当に良く歩いたと思うほど、相当遠くまで足を延ばしました。当時の遠足は文字通り「遠くまで歩いて行って、また歩いて帰って来る」ことでした。「何を見てくるか」よりも「最後まで完遂すること」。だから、往路よりも帰路が大事なのです。疲れた生徒のバッグを代わりに担いでやる気持ちは、みんな自然に身に付けていました。
 冬は300mの高台にある学校の立地がものを言います。その傾斜がそのままふもとまでスキー場になります。山本中学校はスキー場付きの中学校なのです。この傾斜には細道があって、普段は通学路になっているのですが、それがスキー大会のコースです。コースは曲がりくねり、曲がり角の木立のあたりは日が当たらず、アイスバーンになっています。スタートからの加速が極まった頃、このアイスバーンに達し、大抵は横滑りに転倒してしまいます。けれども、東山からスキー通学の彼ら・彼女らにとってこんなコースは朝飯前。いともやすやすと曲がり切り、格好よくゴールインしていくのでした。 

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●青空教室はグランド脇の林の中 今日は写生会 卒業記念アルバムより
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●画面中央のなだらかな傾斜でスキー大会 写真右手の傾斜の上が山本中学校(林の陰)

●泣く子も黙る突撃先生
 
夏目漱石の「坊ちゃん」に登場する先生方に比べるとアクの強さは少々薄れますが、当時の先生方もなかなか個性的でした。絵描きさんそのままのベレー帽が板についた美術のI先生。役者のようなモジャモジャ頭がお似合い、国語と演劇部顧問のM先生。眼鏡のモダンボーイ・英語のA先生。お坊さんでもある謹厳実直型のW先生とK先生。M校長先生が穏やかなお父さんタイプなら、これまた柔和なT教頭先生は文字通りの女房役にぴったりと収まり、とてもいいコンビを形成していました。教頭先生は数学の先生でしたが、数学が大の苦手の私たちを、夜、自宅に呼んで教えてくださいました。奥さんが手作りのドーナツを出してくださり、その時初めてドーナツを知りました。数学は先生のお宅では分かったつもりで帰るのですが、帰ってやってみるとやはり解らない。とにかく数学はダメでした。
 
極めつけは理科と体育のT先生です。T先生は予科練帰り。なんでも南方で随分ご苦労されたようで、遠征中や戦場におけるトイレについてのうんちくがとてもおかしくて心に残っているのですが、とにかく声がでかい。いつも威圧するように胸を張って周りを見回しながらすたすた歩き、何か見つけると大音声が響きます。生徒は何か言われないかとビクビクしていました。全校集会などで体育館いっぱいに響き渡る大声でT先生に名前を呼ばれると、文字通り飛び上がるほどの迫力がありました。
 
T先生は軍隊で、良くも悪くも精神と肉体を共に鍛える教育を受けてきたのでしょう。体育の時間は真冬でも男子は上半身はだか。下は半ズボンです。体育館の床を背に毎回3分間の足上げ…両足を揃えて15度に上げたままの姿勢を3分間持続できるまでしごかれます。初めは2分弱がやっとだったものが、訓練で3分間持続できるようになりました。体育館の床は汗でシミになります。そのあとがまた大変。雪が降る日も外の運動場ではだかのまま全員駆け足。とは言っても走る道もなく、胸までありそうなグランドの雪を両手で分けて進まなければならないので、これは50mほど進んだところで許されました。

 

勉強は授業と試験のときだけ。その代り良く働いた [あんなこと、こんなこと]

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中学校時代 1953~1955(S28~30)一③
勉強は授業と試験の時だけ。その代り良く働いた 

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●1977 長岡市立山本中学校「創立30周年記念誌」より

 
ここしばらくは「動画の自分史」が続き、「あんなこと、こんなこと/中学校時代」が中断していました。けれどもブログの全体的な流れとしては、「動画の自分史」の中で中学生時代のことを書き進めてきました。
 
さて世間では、誕生したばかりのテレビ放送が、都内の駅前広場などで力道山の大活躍を街頭テレビに映し出し始めました。マリリン・モンローがディマジオ選手と新婚旅行で日本にやってきました。映画はシネスコより更に大画面のシネラマが誕生。音楽は陽気なチャチャチャやマンボが大流行。神武景気に便乗した家電メーカーのPRで、憧れていた文化生活が身近に考えられるようになってきました。でもそれはあくまでも山のはるか彼方の東京の話。テレビ電波の届かない長岡の片田舎では、そうした変化は新聞やニュース映画で知るだけで、そんな優雅な生活は夢のまた夢でした。
 

●春は田植え、秋は稲刈りのための休みがあった
 中学生になると、農家では労働力として一人前の扱いになります。特に農繁期には「田植え休み」「稲刈り休み」があるので、どの家も一家総出が当たり前。何かと理由をつけて手伝いをサボろうとしたり、2階の屋根から柿の木を伝って逃げ出したこともありましたが、毎日その手は利きません。仕方なく引っ張り出されると、今度は腰が据わってすばらしい活躍をするのです。
 
私が中学生から高校生に掛けての頃は家族がいちばん揃っていた時期で、戦力にならない最年少の弟を除いて両親・兄弟全部で7人の手がありました。耕作面積は約2町歩(2ha)。それを1週間くらいで植え終わらなければなりません。もちろん田植え機などなく、全部手植えです。当時はまだ「こしひかり」はなく、「農林21号」「北陸○号」などが一般的だったようです。

 
前日に水を抜いた田に、まず長兄が、横1間半(2.7m)のゴロと呼ぶ正6角形の柱状の木枠をパタパタと転がして行きます。田の泥の上に1尺(30cm)平方の木枠の跡が付き、その交点に苗を植えるのです。田んぼの広さは1反が10間×30間(18m×54m)。家族全員が一列に並び、それぞれが横に4~5株(1.2~1.5m)の範囲を受け持って前進しながら植えていくのですが、5株では中学生には広すぎるので4株を受け持ちました。

 
田に入る前に、まず腰に結わえ付けた竹篭に苗をぎっしり詰めます。かなりの重さです。けれどもそれだけでは往復108mの行程を植えながら戻るには足りません。そこでまず、あぜ道に積んである苗を自分のコースの前方に思い切り遠くまで、できるだけたくさん投げておいてから田に入り、それを拾いながら植えて行くことになります。ですから、なかなか腰の籠の苗は減りません。その上、長岡の田は深く粘土質です。ひざの辺りまで潜って、足を引き抜くのが大変です。おまけに腰を曲げたままの姿勢です。時々腰を伸ばすのですが、そんな状態で何往復もする訳ですから、夕方にはくたくたです。それが毎日続くのでした。

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●下段右は山本中学校から見下ろした越後平野。帰省の際の8ミリ映画より(1977)。
 収穫期には
このすべての道路に沿って、屏風のようなハゼが立ち並びました。

 秋。稲刈りは大の苦手でした。1株ずつノコギリ鎌で刈って行くのですが、汗ばんだ両腕に稲の葉がこすれる時の痛さと不快さといったらありません。刈り終えたら一束ずつ束ねたものをハゼ(稲架・はさ)に掛けます。長岡のハゼは高さが4.5mもあり、稲束は8段掛けです。10月には標高300Mの山本中学校のグランドから、広い越後平野を埋め尽くして屏風のように林立するハゼを展望できるのですが、その景観は実に見事なものでした。
 ハゼではこうしてほぼ1週間、自然乾燥させるのですが、途中雨になればその分先延ばしです。またこの時期、必ずといっていいほど台風があり、豪雨の中でハゼが倒れないようにする作業を手伝ったものでした。
 

●夏休みの奉仕活動は薬草採集、ノルマは3.75キロ
 
小学生時代、学校での奉仕活動は秋の「イナゴ採り」でしたが、中学生では夏休みの薬草採集です。採集する薬草は、ヨモギ、ドクダミ、ゲンノショウコの3種と決まっていて、夏休み明けに乾燥させた状態で一人1貫目を収めることになっていました。カサカサ状態で3.75キロというのは大変なことです。雨が降らない限り毎日薬草摘みに出掛け、採ってきたものはすぐ庭に干し、早く乾燥させるために毎日裏返しにします。

 
身近なのはどこにでも生えているヨモギ。でもこれは、新芽の部分に限定されているので意外に量を稼げません。ゲンノショウコは湿っていてムカデやヘビが出そうな場所にしか生えない上、茎は細いし葉も小さいので、乾燥させたらほんの一つまみです。ドクダミなら群生しているところを見つければ集め易いし、根まで丸ごとOKなのでいちばん量が稼げます。それで、私は毎年ドクダミを集めることに決めていました。

 
ヨモギは心臓、肝臓、腎臓など内臓の活力を高める万能薬。ゲンノショウコは胃や腸を整える健胃整腸剤、ドクダミは高血圧、動脈硬化などに効くといわれているのです。
  夏休みが終わった二学期の最初の登校日に、大きな袋いっぱいに詰め込んだ薬草をみんなが担いで登校します。体育館の半分ほどを埋め尽くして山のように積み上げられると、漢方薬局のような香りに満たされます。それもつかの間、待っていた製薬会社のトラックが残らず引き取っていきました。この奉仕で得られる売り上げが、学校の備品購入などに使われたのでした。 

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●ヨモギ                      ●ドクダミ
IMGP4754-2.JPG●ゲンノショウコ     

●学校林の植樹と手入れは、いつも暑い日 
 これも奉仕活動だったのか、また、全国的に行われていたものかどうかわかりませんが、山本中学校には、離れた山地に「学校林」と呼ぶ山林がありました。そこで年2回、1年生から3年生まで合同の「学校林手入れ」と呼ぶ活動が行われていました。
 
1回目は5月頃。スギの苗を植える「植林」があります。2回目は9月頃。伸びた雑草を刈り、杉苗の成長を助けるための「下草刈り」が行われます。その日は全校生徒が校庭にスコップや鎌を持って集まり、おにぎりを携えて遠足気分で出かけるのですが、当然天候を選びますので、いずれも暑い日よりになります。

 
山はかなりの急斜面です。春はむせるような新緑の中でみんなで横一列になってスコップで穴を掘り、苗を植えて行きます。所々に竹筒のように太いスカンポが生えていて、みんなのおやつになりました。秋の下草刈りでは、まだ1mにも満たない杉苗を覆うように雑草や雑木が伸びているので、それらを根元から刈り取って上げなければなりません。

 一度、2mほどの若い桐の木の葉の上にヘビの影が映っていたことがありました。ちょうど頭の真上でした。「ヘビだ」と叫んで身を引きましたが、そういう時は腕白たちの出番です。桐の葉ごと棒で叩き落すと、なんとそれはマムシでした。その時腕白少しも騒がず、生木を裂いてマムシの首をぐっと挟みこんで事なきを得ました。当時の緊急医薬品は、怪我には赤チンかヨーチン、メンタムくらいしか用意してなかったはずですから、もしマムシに噛まれでもしたら大変なことになるところでしたが、みんな手馴れたものでした。かなり大きかったそのマムシは、理科室の標本になりました。
 
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●1956「山本中学校 思い出のアルバム」より(卒業記念アルバム)


●雪の日、作業場はすずめのお宿。わらの中には七面鳥ならぬ…
 ヘビの話でもう一つ。うちには母屋から少し離れたところに脱穀や精米をするための作業場がありました。冬休みにはその2階で、父に教わって縄綯(な)い機を操作して、細縄を綯う手伝いなどをしていました。
 
ある年の冬、かなり吹雪いているので作業場の様子を見に行くと、2階の障子戸が破れてバタバタしています。入ってみたらバサバサッと大きな音がして、頭上を何かが飛び交いました。何と雪に降り込められたスズメたちが何十羽も飛び立ったのでした。
 2階には脱穀したあとのわら束が高く積んであり、スズメたちはてんでにその中にもぐりこんだりしています。そこで一抱えほどあるわら束を一つどけてみてびっくりしました。なんとその下のわら束の上に大きな青大将がとぐろを巻いていたのです。すぐにわら束を元通りにしてあげましたが、冬眠中だったのでしょうか。それとも時々起き出してネズミやスズメで空腹を満たしていたのでしょうか。どうか春まで元気でね、という気持ちになりました。

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