P1030925b-3.jpg  あんなこと、こんなこと―51
日本の中のアメリカの中のニッポン
思い出のジョブ① 「ミート・ザ・ワールド」-1

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●なんで東京ディズニーランドに日本人が?
 左から福沢諭吉、坂本竜馬、伊藤博文のオーディオアニマトロニクス

 完成間近かの超高層ビルの工事現場。職場訪問で訪れた息子に、「ご覧。あれが父さんが建てたビルだよ」と誇らしげに話す父親の姿。数年前のテレビCMにあったような情景は、広告業にあってはまず考えられません。
 私たちの仕事は、国際博覧会や国際スポーツ大会のように、例えそれが国家的ビッグイベントであっても、済めばきれいさっぱり、文字通り跡形も無くなるのです。その意味で、25年間も存在した東京ディズニーランドのテーマ館「ミート・ザ・ワールド」は、私の仕事歴の中では特別のものでした。

●アメリカの中のニッポン
 上の写真が東京ディズニーランドのものと聞いて、「えっ」と首をかしげる人がまだいらっしゃるかも。アメリカ、カリフォルニアのディズニーランドがそのまま東京に誕生したはず、と思っている人には無理もありません。
 数年前に閉館し、現在はすでに影も形もありませんが、「ミート・ザ・ワールド」は周り中アメリカ一色のパークの中で、場違いを承知で唯一日本を主張している異色の存在でした。スポンサーはM社(松下電器、現在はパナソニック)。トータルイメージを重視するウォルト・ディズニー・プロダクションズ(当時。以下WDP社と表記)が「異色の存在」をなぜ許したか。そこには当時、未だ意気軒昂で業界を率いる社主松下幸之助氏の存在がありました。

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●「ミート・ザ・ワールド」の英文告知

●日本誕生から現在の日本までを16分で
 私が初めて東京ディズニーランドの母体であるオリエンタルランド社(以下OLC社)を訪れたのは、1980年1月の末でした。出入り先の映像プロダクションから電話を受けて出向くと、6人のシナリオライターが呼ばれていました。
 そこで東京ディズニーランド構想のあらましを知ったのですが、その中に日本の歴史を伝えるアトラクション(テーマ館)を設けたいというのです。当然ながらご本家のディズニーランドには無いもので、それが「ミート・ザ・ワールド」。日本の歴史を<世界との出会い>というエポックで切り取った4場面で構成。16分ですべてを見せたい。どの時代を採り上げたらいいかはすでに有識者に図ってあるから、それを元にシナリオを書いて欲しい、ということでした。

 東京ディズニーランドのオープン予定は3年後の1983年4月。1年でシナリオを決定したあと、製作に2年かかるということは、舞台に関するいろいろな造作はもちろんですが、ディズニーランドの特徴である、人の代わりを演じる機械仕掛けのオーディオアニマトロニクスを製作する必要があるからでした。

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●もっとも精巧なオーディオアニマトロニクスとされるリンカーン(全身像)
 残念ながら東京ディズニーランドでは見られない

 ちなみにディズニーランドは「マジックキングダム(魔法の王国)」と呼ぶ「テーマパーク」であって遊園地にあらず。「オーディオアニマトロニクス」とは電子操作によって声とアニメーションの動きを与えるものという造語でロボットにあらず。入場者は「ゲスト」でパークで働く人は「キャスト」、というようなことはもうご存知ですね。 こうして6人のライターは、初めて聞くディズニーランドの卓抜した思想に感心しながら、コンペのシナリオ作りに取り掛かったのでした。

●前代未聞のビッグ・プロジェクト
 東京に隣接する浦安市舞浜。その広大な現地の開発に当たってOLC社がアメリカで大きな成果を収めているカリフォルニアのディズニーランドを誘致しようと計画したのは1974年のことでした。

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●東京ディズニーランド建設予定地 企業向けパンフレットより

 1979年にエプコット(EPCOT)の建設開始を控える中、1974年12月にはWDP社の社長以下役員全員の来日を見て、ヘリ3機による上空からの現地査察で年間1000万人の動員予測が確認され、GOサイン。1977年に東京ディズニーランド(TDL)が正式に発足したのでした。

 ディズニーランドの運営は当時の日本には無かったスポンサーシステムを基盤としています。パーク内のライド、アトラクション、ショーはすべて、1業種1社に限定されたオフィシャル・スポンサーの提供という形です。スポンサー企業は自社のイメージアップや販促活動、取引先との親睦などにディズニーランドの名声とパークそのものを利用できるのです。
 ディズニーランドのこうした手法はそれまでの日本のマーケティングの概念を覆すものでした。当然それは広告やPRの手法に変革を及ぼしました。東京ディズニーランドは日本の産業・経済界にとって、文字通り前代未聞のビッグ・プロジェクトだったのです。

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●企業向けパンフレット 下はディズニーランドのマップ(アナハイム)

●オピニオンリーダーをつかめ!
 アメリカには無い日本独自の「ミート・ザ・ワールド」を作るということについては、当然ながらWDP社の内部においてもいろいろな検討がなされたようです。
 初めにM社に打診されたのは「カリブの海賊」のスポンサーへの誘いだったそうです。それを「いくら人気アトラクションとはいえ、わが社には結びつかない」と蹴ったのは松下幸之助氏でした。
 とにかく東京ディズニーランドの最初のスポンサーとして何とかM社を引き込みたかったWDP社では、あれはどうか、これはどうか、といろいろなアトラクションの名を挙げたそうですが、氏は頑として首を振らず、「日本でやるのだから、日本の成り立ちを見せたい。それならば」と妥協案を示しました。

 WDP社では直ちに自社のライターによる渾身の構成案を送ってきました。直接のセクションはデザインとテクノロジーのシンクタンク組織であるWEDエンタープライズ(Walter Elias Disney Enterprise)でした。
  英文を訳したものと絵コンテも見せてもらいました。WDP社の力の入れ方が伝わってきましたが、それは日本では語られることの無い神話、天照大神の国造りの物語だったのです。モーゼの「十戒」のようなものならキマリだろう、と考えたのでしょう。
 その内容では当然NG。「日本のことは我々がいちばん良く知っている。構成はこちらで考える。それを認めるなら」。松下幸之助氏のその一言で、<アメリカの中のニッポン>の方向性が決まったのでした。

 2月頭にシナリオコンペの結果が出て、M氏と私が共同執筆することになりました。つづく


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