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大寒、小寒、鼻たれ小僧がとんできた。 [あんなこと、こんなこと]

あんなこと、こんなこと

大寒、小寒、鼻たれ小僧がとんできた。
2.終戦直後・小学校入学前  1945~1947 (s20-22)-①


 

 坊主頭とおかっぱ頭の少年少女たちが、我れ先にと追いかけた進駐軍のジープ。最高のご馳走といえば、米兵が車の上からばら撒くチューインガムやチョコレート。男の子も女の子も着替えを持たず、年中裸足に下駄か、せいぜい布製のズック靴。そして、鼻水を拭いた男の子のお下がり学生服の袖口がテカテカ光っていた時代。

街の子ならたいてい、背が立たないほど大きなコンクリートの土管が転がっている広場。いなかの子なら広い家の庭先や近くの森林。それが遊びの舞台。遊びのほかには、男の子には男の子の、女の子には女の子の家の手伝いがあり、子供なりのレベルでちゃんと家庭の中での役割を果たしていました。


  敗戦で、これより下は無いという状態にまで堕ちた日本。けれど、どんなに貧しくても、「これからは必ず今より良くなる」という確信に満ちた明るい予感がありました。

●薪で走る自動車
 生まれ育ったところは長岡市の中心街から4キロほど離れたいなかでした。村は山すそにあり、一方は広々と見渡す限りの田んぼ、つまり、典型的な集村です。家の前に県道が通っていましたが、ある日、人だかりが出来ているので出てみました。そこには初めて見る自動車が止まっていました。黒い四角っぽい形で、そんなに大きくは感じませんでしたが、後部からもくもくと煙を上げていました。つまり、それは車体後部に窯を取り付けた木炭自動車で、薪が足りなくなり、前の家で薪を補充したところだったようです。走り出すまでかなり時間がかかったような気がします。これはあるいは終戦の年のことかもしれません。

●託児所も幼稚園も知らない
 託児所も幼稚園もまだなく、子供たちは学校以外ではいつも家の周りが遊び場でした。飢餓状態の私たちには、食べても食べても腹の足しにならず、溶けてなくなりもしないチューインガムがとても不思議でした。でも、ガムをもたらしてくれるジープはめったに通りません。畑に実った麦をむいて噛んでみましたが、やはり無くなってしまいます。松ヤニは噛み応えが柔らかくてガムに及ばない上、薬品のような風味で、好きになれませんでした。自転車のタイヤの断片も噛んでみましたがボロボロするだけでした。チューブの端切れが一番それらしかったような気がします。

●おばあちゃんの昔話
 コタツで抱っこしてもらいながら、おばあちゃんが良く絵本を読んでくれたり昔話をしてくれたりしました。母はその間、炊事・洗濯・野良仕事をしていたのでしょう。「桃太郎」「金太郎」「浦島太郎」「一寸法師」「かちかち山」「花咲爺」「猿蟹合戦」「因幡の白兎」など、定番とされる日本の昔話はほとんどおばあちゃんから聞いたものです
  また、隣り村のまつりに呼ばれて、親戚のおばあちゃんからも昔話をたくさん聞きました。薄暗い布団部屋で、障子に影絵を見せてくれたりもしました。話し方に引き込まれて、もっともっととせがんだものです。この人・下條登美さんは、後年、300もの昔話を語り伝えた語り部として、長岡市文化財の表彰を受けました。
http://www.e-net.city.nagaoka.niigata.jp/hakken/01_minwa/02_shimojo.html

●大人の世界を垣間見せてくれた紙芝居
 ラジオの内容を理解できるようになる前の子供たちの娯楽では、紙芝居がピカ一。おじさんの代わりに拍子木を打って近所を回って歩けばタダ、ということで、常連の拍子木キッドがおりました。内容的には荒唐無稽なもの、怖いもの、残酷なもの、男女の愛憎劇まであったせいか、父は教育的観点?から私が紙芝居を見ることを好まなかったのですが、友だちとの付き合いもあるので、母からこっそり5円玉をもらって見に行きました。客が集まるとおじさんは、自転車の荷台に付けた木箱から水アメを取り出して5円と交換。お金を出さなくても後ろに立てばタダで見られるという大らかさでした。その場合、当然水アメは無し。
  紙芝居は全部連続物。1話が10枚未満で、マンガ、時代劇、現代劇の取り合わせで1回の口演は3話ほど。子供たちは割り箸の水アメを真っ白くなるまでこね回しながら、夢中で見入ったものです。紙芝居と聞けば「黄金バット」が有名ですが、それは見たことが無く、記憶にあるのは「隅田川」。夫に捨てられて川に身を投げた女性が亡霊となって復讐する怖いお話です。今思うと、紙芝居にこんな話があるあたり、テレビの代わりを紙芝居が担っていたのだという気がします。


●ままごと遊びは、おとなへの架け橋?
  3つ年上の姉が、隣近所の女友だちと庭の池のほとりでよくままごと遊びをするのですが、お客さま役として必ず駆り出されていました。ござの上に小さなお皿や廃物のおちょこなどを並べ、季節の草花をきれいに取り合わせてお料理らしく見せる遊びはとても楽しくて、嬉々としてみんなの所にお呼ばれされていました。普段は女の子でも方言丸出しなのに、「ごめんください」「こんにちは」「召し上がれ」「ごちそうさまでした」などという標準語を照れずに言えるのもままごと遊びならではです。
 そうこうするうち、一人の女の子にこっそりと呼ばれました。家の脇の川の下流で待っている人に渡して欲しい、と紙の包みを頼まれました。川下に待っていたのは中学生くらいの男の子。そんな二人の関係を何となく分かった自分。みんなおませでしたね。

●このチープさがたまらない
 男の子の遊びの代表格は戦争ごっこかチャンバラ。棒さえあれば誰でも参加できるライブイベントです。お店で買うのは「めんこ」「ビー玉」「書き石(蝋石)」くらい。あとは道に落ちている瓦のかけらや、ちょっと形のいい石ころ。それに家にある5寸釘。それらを使って庭先や広場の地面に陣取りの陣形や石蹴り(ケンケンパ)の図形を描けば、そこはそのまま遊びのグランドです。弟や妹は必ず背中におぶい紐でくくりつけられていましたから、めんこ(長岡では「パチ」)の時は大変です。思いっきり腕を振り上げ振り下ろすたびに背中の子の首がガクン、ガクン。それでもぐっすりと眠り続けている背中の子供も大した度胸でした。

●おもちゃの素材はブリキ、セルロイド、それに紙
 金属製のおもちゃは大抵、軍隊の缶詰などの薄い鉄板を裏返しにしてデザインを印刷し、プレスしたもの。その他の成型品の主力はセルロイドでした。
  お祭りの出店ではブリキの百連発ピストル、セルロイドのハッカパイプといったところが男の子の人気商品。食べ物はオブラート、ニッキ棒(長岡ではニッケ)、棒を持ってしゃぶる三角飴、何色もの色の層を重ねた変わり玉、どこを折っても切り口が同じ顔の金太郎飴など。女の子のおもちゃの代表格は、お母さん手作りの布製お手玉。お店ではガラスのおはじき、セルロイドのお人形、千代紙、着せ替え人形、ぬり絵、それに当時初めてお目見えしたカラフルなビニールの細紐なども人気があったようです。
  近所の駄菓子屋さんでは、軒に下がった箱の小窓を破くと当たりが出るくじが人気。でもなかなか当たりが出ず、「スカ」ばかりでした。長岡ではこの言葉は珍しかったので、最初は「かす」の間違いとばかり思っていました。
ところで、「じゃんけんぽん」にあたる言葉を長岡では「あゆ・けん・よう」と言ったのですが、この掛け声はどこから伝わったものでしょうか。 
 

ANAホテルズ
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sig

kemmさん、furukabaさん、バズー☆ さん、kontentenさん。
nice ありがとうございます。張り合いが出てきました。
これからもどうぞよろしくお願いします。
by sig (2008-02-13 17:24) 

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