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時には映画館へ [時には「平成」]

                    時には映画館へ

  またまたすごい映画がやってきそうです。
4年前(もうそんなに経つのか)、トールキンの大長編ファンタジー「指輪物語」を「ロード・オブ・ザ・リング」の題名で、3部作・全長11時間余にも及ぶ(エクステンデッド・エディション)作品に仕上げて全世界を大フリークさせた、あのニューラインシネマが、この春再び、胸躍るファンタジーの世界を見せてくれそうです。
その題名は「ライラの冒険」
(イライラと読まないで。原題はThe Golden Compass)。
  原作は児童文学界の権威として著名なカーネギー賞を受賞した長編名作とのことですが、なんと70年の歴史を誇るこの賞の総合ベスト1がこの作品というからすごいですね。
運命、冒険、善と悪、
と大冒険のお膳立てはすべて整っているようですが、特に興味深いのはパラレルワールド(平行世界)という着想。つまり、同時に進行している別の世界があるということ。そこを行ったり来たりするのでしょうか。原作を読んでいないのでストーリーは分かりませんが、とにかく興味をそそります。

 「私は芸術作品以外は見たくない」「断然、文芸映画でなくちゃ、いや」・・・と、こうした傾向の映画は苦手という方も結構多いのですが、もともと映画は、人が絶対に体験できないような危険なことも、全く安全に疑似体験させてくれる、いわばマジックという正体を持って生まれてきたものですから、そう硬いことはおっしゃらずに、この春はひとつ童心に返って「ライラの冒険」を楽しんではいかがでしょうか。私の大好きな超絶美人女優、二コール・キッドマンさんも主演なさっていることでもありますし。
 映像のマジックを余すところなく見せてくれるこうした映画は、単なる娯楽に留まらず、芸術家と技術者による超一級の一大コラボレーションだと思うのです。

東京は3月1日公開だそうです。
楽しい仕掛けが一杯で、1時間はたっぷり楽しめそうなホームページも必見です。
http://goldencompassmovie.com/

日本語はこちら
http://daemon.gyao.jp/

ライラの冒険 黄金の羅針盤 コレクターズ・エディション(2枚組)

ライラの冒険 黄金の羅針盤 コレクターズ・エディション(2枚組)

  • 出版社/メーカー: ギャガ・コミュニケーションズ
  • メディア: DVD

                                                 
 モノマニア / 株式会社リツメイ・コーポレーション


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偉人たちの生まれ変わりだったチャールトン・ヘストン [時には「平成」]

時には平成

偉人たちの生まれ変わりだった
チャールトン・ヘストン


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●チャールトン・ヘストンがキリストを演じていなかったのは意外な気がする。
 (キリスト像 6~7世紀)

 
4月6日の夕刻、インターネットでチャールトン・ヘストンの訃報を知った。84歳とのこと。「巨星堕つ」とか「古き良きハリウッドの終焉」「一つの時代の終わり」というような決まり文句がとっさに浮かぶが、晩年、全米ライフル協会会長として銃器の規制撤廃を促す活動を、突撃派マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー「ボウリング・フォー・コロンバイン」(2002)で糾弾されるようなことはあっても、言葉通り20世紀を代表する大スターだったという評価に異論を挟む人はいないと思う。

 
1950年、「虐殺の街」でデビュー以来、生涯に60本ほどの映画に出演している。セシル・B・デミル監督「十戒」のモーゼを筆頭に「ベン・ハー」「エル・シド」、「偉大な生涯の物語」のヨハネ、「ジュリアス・シーザー」、「アントニーとクレオパトラ」など、数千年前の偉人がまさに目の前に立ち、広漠たる大砂漠で、荒涼とした山岳地帯で、高波踊る大海原で、降りかかる苦難に果敢に立ち向かっている確固たる存在感を示していた。改めてこうした主演作を展望すると、彼は米国が世界の覇者として君臨していた時代の象徴のような存在だったように思えてくる。

サーカスが大好きな私は、デミル監督が現実のリングリングブラザース/バーナムアンドべイリーサーカスを舞台として製作した「地上最大のショウ」(1952)で初めて彼を知ったが、そこでの彼はまだサーカスの座長でしかなかった。けれどもその後の彼は瞬く間に、歴史上の人物、世界的偉人に出世していく。時代がヒーローを求め、彼らが活躍する歴史劇が続々と誕生する。

「ベン・ハー」(1959)におけるコロセウムでの有名な戦車競争シーン。「エル・シド」における波打ち際の城(ロケ地はモンサンミッシェルではないかと思うのだが)を背にしたラストの戦闘シーンは今思い出すだけでもぞくぞくする。また、「アントニーとクレオパトラ」(1971)はシェークスピアの戯曲を忠実に映画化したものだと聞く。

これらの作品は、映画のシステムが進化したことと無縁ではない。当時最先端の大型映画システムであるパナビジョン、シネマスコープ、シネラマ等の大画面と高度に進化した立体音響が胸躍るスペクタクルを求めていた。大型映画にスケールの小さいスターは似合わない。骨太で大柄な彼の体躯が画面を引き締める。彼こそ大型映画時代の申し子というべき存在だった。

   映画とは虚構を真実のように見せるもの。そのために、当時の建築物を始め、登場人物が身にまとうコスチュームはもちろんテーブル上の食材に至るまで、専門家が史実に基づいて検証し、その時代を再現する。数千名を数えるモブシーン(群集シーン)でも、エキストラのコスチュームや手にする小道具に手を抜くことはない。

 こうして製作された映画は、そこに渦巻く空気までもがその時代を再現することになり、観客はまるでタイムマシンでワープしたようにその時代をヒーローといっしょに体感することになる。まさにムービー・マジック。1950年代から60年代前半にかけての映画最盛期、ハリウッドはその楽しさを全世界に発信し続けていた。その中心に彼は居たのだ。
  彼が去り際に、これからの映画についてどう語ったかは知らない。その輝かしい栄光とともに、チャールトン・ヘストン。あなたは今、「十戒」で演じたモーゼそのものとなって、シナイ山の高みから世界を見下ろしているのではないか。

あなたは何本見ていますか?
■私が映画館で観たチャールトン・ヘストン/フィルモグラフィ

1952 地上最大のショウ
1954 黒い絨毯
1956 十戒
1958 大いなる西部
1959 ベン・ハー
1961 エル・シド
1963 北京の55日  偉大な生涯の物語
1966 カーツーム
1968 猿の惑星
1971 アントニーとクレオパトラ
1974 大地震    エアポート75
1976 ミッドウェイ
1978 原子力潜水艦浮上せず
1980 ピラミッド

◎映画出演は1996年頃までのようですが、私は1980年以降の彼の作品は観ていません。1997年、ディズニー長編アニメーション「ヘラクレス」におけるゼウスの声が映画出演の最後のようです。

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一生に引っ越し何回? [時には「平成」]

P1030925b-3.JPG 時には平成―3

一生に引越し何回?
国鉄(現・JR東日本)南武線をひたすら西進

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●おなじみのGoogle Earth  これは区画整理後の私の街区の写真。
 下の幹線道路を通すために前の街区が完全に消滅しました。
 沿道の大きな白い建物はマンション、その奥は戸建て住宅。

●人生の節目には引っ越しがつきもの
 生まれた家で一生を終える。そういう人生は極めて少なく、男性も女性も進学や就職、結婚などで転居の経験をもつことが多いようです。高度経済成長期には事業の躍進と並行して「転勤族」という言葉が生まれたりもしました。また一方では住まい方として、一人暮らしの場合はアパートであっても、一家を構えるとなると「一戸建てかマンションか」ということが話題に登ったりします。このテーマは人それぞれの価値観が一番分かりやすい形で現れるようなところがあって、興味があります。

ただ最近は、元気なときは一戸建てが良いけれど、歳をとったら合理的なマンションがいい、ということもよく聞きます。年齢とともに住み方を見直したいということですが、こんなところにも高齢化、少子化、福祉の問題といった時代の空気が垣間見えたりします。そこで、自分はこれまでに何回転居したのだろう、と考えてみました。それはまさに自分史の骨格を成すものでした。

●引っ越し貧乏は困るけど


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●最初の転居は、なんと蒸気機関車の時代 1959

 最初の転居は就職のためで、故郷長岡から川崎市へ。駅前の会社の寮から社会人第一歩の生活が始まりました。20人ほどもいっしょの大部屋に鉄パイプの2段ベッド。それでも、それまでのせんべい布団から打って変わって、ベッドに寝られるということだけでとてもうれしかったものでした。

 2回目は同じ会社の別の寮に移りました。最寄り駅は京浜急行「川崎大師」でした。寮から寮への転居のため、荷物はほとんどなく、会社の配送車で引っ越しました。この会社の寮には合計4年間生活した後、退出しました。


 3回目の転居は一人暮らしを始めるためです。川崎から多摩川に沿って立川につながる国鉄(現・JR東日本)南武線の「武蔵中原」というところです。
 「戦後ゼロから出発した世代」という肩書き?に大きなこだわりを持つ私ですから、「一人暮らしもゼロから始めたい」とわざわざ3畳間のアパートを探し回って、駅から徒歩20分、ようやく見つけたところは陸の孤島のようなところでした。このことについては回を改めて書く予定です。

★下記がその記事です。ご覧いただけますか?
「何を好んで三畳一間」
http://fcm.blog.so-net.ne.jp/archive/20081128


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●3畳一間暮らしを体験した川崎市武蔵中原のアパート 1963


 4回目は結婚のためです。新婚生活は「武蔵中原」の一つ西寄り「武蔵新城」駅近くのアパートから始まりました。入口半畳、6畳一間にお勝手付き、押入1畳の間取りでした。当時はこれが平均的な行き方。何も不満はありませんでした。

 5回めは子供が生まれることになり、南武線をさらに西へ。「矢野口」に越しました。初めは2DKの貸家でしたが、2年ほどあと、子供たちの成長に合わせて3DKの貸家に移りました。これが6回目。


 7回目はようやく建てた1戸建ての家への転居です。同じ「矢野口」ですが、ここでの生活が一番長く、結果的に
25年間住んでいました。この間に京王線が「調布」から京王相模原線を延伸し、近くに「京王よみうりランド」駅ができました。
 また
10年勤めた川崎の会社をやめて転職したあと、フリーとなったこともあって、新宿へ30分の京王相模原線を利用するようになり、南武線の利用がほとんどなくなりました。

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●京王相模原線「京王よみうりランド」駅 1970頃 当時はここが始発駅 
 
 けれども考えてみると、西部劇ではありませんが、川崎から矢野口まで多摩川に沿って、ひたすら西へ西へと移り住んできたことになります。よく言われるように、なじんだ路線がいちばん住みやすいということを立証した形です。
 やがて子供たちもこの家から独立していきました。ここで一生過ごすことになるかと思っていたのですが、降って湧いたように区画整理の話が持ち上がりました。


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●区画整理のために取り壊される自宅 2002

 区画整理ではそれまでの街区の様相が一変しますから、ほとんどの家が取り壊され、新しく作り直すことになります。そのために、いったん仮住まいに移らなければなりません。
8回目の転居はそのための引っ越しでした。
 自宅周辺の基盤整備が済み、そこに再び新居が完成するまでの
2年間を仮住まいで過ごしました。こうしてちょうど3年前の11月に新居も完成し、9回目の引っ越しをして現在の家に落ち着きました。


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●画面下の太い幹線道路を通すための区画整理事業の様子もGoogle Earthならでは。
 赤い道と白い家屋が区画整理以前の様子
 我が家はほぼ真北に約50m移動(下の緑の■から上の緑の■まで)

 私の引っ越し経歴はこれで全部ですが、いわゆる転勤族と呼ばれたような人たちから見たら、少ない方ではないかと思います。それでも9回。そのたびに引っ越し屋さんにはずいぶんお世話になりました。

●引っ越し料金の不思議

 最後の引っ越しでは、インターネットで調べると「4社に同時見積もり」というのがあり、申し込んでみました。2社は翌日すぐに伺いたいと反応がありました。1社にはその場で見積もってもらったあと、後日連絡ということにしました。もう1社の営業マンは熱心で、こちらが何も言わないのに、それでは高いと思ったのか「では、これでどうでしょうか」と何度も何度も執拗に値段を下げてくるのです。とにかく決めてもらわなければ帰りません(帰れません)というすごい意気込みでした。結果的に心積もりよりかなり低い見積もりを出してくれたので、即決しました。これは3年前のことです。

ところが身内が最近引っ越しを見積もってもらい、減額を申し入れたら、「うちはこれでギリギリですから、なんなら他社へ」と言われたというのです。3年前と需給関係が変わったのでしょうか。それとも営業マンの個性なのでしょうか、よく分かりません。いずれにしても、我が家の引っ越しは安く上がりました。


●Google Earthの偉業
 インターネットといえば、最近、Google Earthのストリートビューが始まり、我が家を早速探してみました。地番を入力して表示させれば早いことは分かっているのですが、それでは面白くありません。わざわざ数万メートルもの高度から地球に迫り、世界の中の日本~東京~多摩~稲城へと拡大していく快感を味わいました。そして、まさかと思った我が家まで、ちゃんと撮影されていたのでした。普通の住宅地の狭い路地まで入り込み、いつ撮影したのでしょうか。Googleのオープンな思想と技術のすごさに圧倒される思いでした。これほどの技術の粋を誰でも無料で利用できるとはなんとすばらしいことでしょう。

ところが最近、それがプライバシーの侵害ではないかなどと騒がれています。「プライバシー」という言葉が伝家の宝刀のように日本で「もてはやされ」、「何かと便利に使われる」ようになって何十年も経ちますが、日本人はいつから人に隠れて生きるようになったのでしょうか。人に隠して物事を行うようになったのでしょうか。
 日本人が隠し事をするようになったのは、生活が豊かになって暮らし方に差が出てきてからだと思います。その証拠には、みんな同じレベルの生活をしていた戦後は、プライバシーなどという言葉もなかったし、それを唱える必要もなかったのでした。

 個人の自宅が世界中のパソコンで見られるようになったとはまさに画期的なこと。洗濯物が干してあろうが、庭が狭かろうが、それが日本の今日の姿、そして自分の家の今なのです。隠す必要がどこにあるのでしょう。胸を張って見ていただけばいいと思います。表札が見えても結構。ウェルカムです。
 反対に、外国を訪ねてすてきなお家の生活を想像するなんて夢があるじゃありませんか。ビバリーヒルズの大邸宅に住んでいる訳でもあるまいし、誰があれこれと自宅の詮索をしているというのでしょう。「みっともないから。恥ずかしいから」というのは正常。それ以外は神経過敏、反応過剰。そんなに大騒ぎすることはないのでは、と思います。

 
私だって、グーグルのすばらしい思想による利便性を逆手にとって悪いことをたくらむ輩は絶対に許せません。ただ、それに対してプライバシー対策でどうこういう問題は「対症療法」であって、根本的な解決にはならないと思うのです。大事なことはそれだけではなく、これを期に、悪用しようと考える人間を生み出すような社会現象、その問題がどこにあるのかをみんなが考えるいい機会だと思うのです……。


「新宿コマ劇場」よ、さようなら [時には「平成」]

P1030925b-3.jpg  時には平成―4
       「新宿コマ劇場」よ、さようなら
         「コマ東宝」で東宝映画「喜劇・駅前旅館」に再会

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●12/21の新宿コマ劇場外観(上)と「コマ東宝」の入口(下左)と招待券(下中)

 1221日日曜日。年の瀬とは思えないほどの暖かな好天に恵まれて、出かけたところは郊外の公園にあらず、新宿は歌舞伎町。例の新聞購読者サービスで申し込んでおいた「新宿コマ東宝」のチケットが当たり、久しぶりの映画観覧に赴いたのでした。

 
「新宿コマ東宝」という映画館は名前の通り「新宿コマ劇場」の地下にあります。ご存知の通り「新宿コマ劇場」は今年限りで閉館。ということで大晦日までの間にいろいろな回顧企画が行われ、今回の「コマ東宝」の上映会もその一環で、20日「雪国」、21日「喜劇・駅前旅館」、22日「放浪記」と日替わり興行なのでした。
 「雪国」「放浪記」の文芸作品を選ばずに「喜劇・駅前旅館」を選ぶのが私らしいところなのですが、これとても原作は井伏鱒二。監督も豊田四郎ですからただのおふざけ喜劇ではありません。本心を言うと、この映画は高校生時代に観たのですが、その後テレビで観た記憶が無く、これは見落とせないということで早速申し込んだのでした。集まったお客さんは予想通り私と同年輩かそれ以上。座席数約
600の館内がほぼ満杯になるほどの盛況でした。

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●入口を入ると「コマ東宝」と「シアター・アプル」に分かれます。
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●左/入口を下から見た感じ 右/階段を降りたところにある喫茶
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●左/売店 右/劇場の入口
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●劇場入口3ヶ所
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●定員586人の場内 椅子もきれいだし、まだ十分使えそう。

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 燦然と輝く東宝のマーク ~ メインタイトル、次いでキャストとスタッフを列記したクレジットタイトル ~ オープニングは上野駅前の大俯瞰。馴染み深い駅の建物がゆっくりと右にパンすると市電の通り。そして、出ました、私が高校3年に上京した時に8ミリで撮影した仁丹とパイロット万年筆の大きな広告塔。高いビルは全く見当たらず、駅前がなんと広々とのどかに広がっていることか。そこへ到着した数台のはとバスから歓声を上げながらあふれ出てくる修学旅行の高校生たち…これだけでもう十分。十分に胸が詰まりました。

★関連記事「初めての8ミリ映画、50年前の上野、有楽町」はいかが?
http://fcm.blog.so-net.ne.jp/archive/20080905

当たり前のことながら、主演の森繁久弥をはじめ登場人物の面々がみな若い。おきゃんな女子高生役の市原悦子。宿泊客サービスでギター抱えてロカビリーを演じるフランキー堺、お色気で番頭の森繁久弥を篭絡しようとする淡路恵子。板についた憎まれ役で旅館をおどす山茶花究(「三三が九」のもじり)。更には伴淳三郎、浪花千枝子、左卜全という懐かしい面々の意気軒昂なこと。

 こうした俳優たちと再会できた懐かしさとともに私の興味の大方を占めたのは、テレビ時代が到来する直前の当時の街頭や家の中の様子です。この映画は撮影された時と同時代の物語であるため、セットにしても、旅館の玄関ホール、階段、帳場、客室、浴室などのたたずまいからそこに配置される古道具まで、特別に考証する必要は無かったと思われますが、そのリアルタイムの情景が
50年後の今日に大きな意味をもつのだということです。

「映画はタイムカプセル」…フィルムというメディアに時間と空間を封じ込めたもの、それが映画…これは私の持論でもあるのですが、昔のままの風景(街頭、室内)、若いままの俳優たち、当時の習わしや言葉づかい(生活慣習)などがしっかり切り取られているこの「喜劇・駅前旅館」を観て、完全に昭和30年代にタイムスリップしている自分を感じていたのでした。

 「新宿コマ東宝」は「新宿コマ劇場」の完成とともに1956年12月末に誕生した東宝映画のロードショー館で、「ゴジラ」をはじめ森繁久弥の「社長シリーズ」、「駅前シリーズ」、加山雄三の「若大将シリーズ」などで人気があったようですが、日本映画をあまり見ない私にはどちらかというとなじみの薄い映画館でした。むしろ隣りの「新宿東宝会館」内の洋画専門ロードショー劇場「新宿プラザ劇場」へ通いました。その「新宿東宝会館」もコマ劇場といっしょに再開発されるということです。
 コマ劇場オープンから52年。半世紀を越えて生まれ変わろうとするこの場所に再び映画館が作られることと思いますが、その方式やシステムが21世紀の新しい映画のかたちを見せてくれるはずです。それが今からとても楽しみです。

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「昭和館」は満1周年。さて、2009年は・・・ [時には「平成」]

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「昭和館」は満1周年。さて、2009年は…

  1年間のご愛顧、ありがとうございました。

 このブログの第1号は昨年の1228日。確たる信念も無く、出来心で始めてしまいました。以来、火曜日と金曜日の週2本のペースで続け、この号で106号を数えて満1周年を迎えました。

はじめは、こんなに文字が多く内容的にもマイナーなものなので、果たして読んでもらえるのだろうかという不安がありました。けれども、号を追うごとに読者の数も少しずつ増え、コメントもいただけるようになり、それを励みにここまで続けることができました。内容チェックと推敲のためにプリンアウトした用紙が45ミリの厚さになりました。半分は写真なのですが、我ながら「継続は力なり」という言葉を実感しております。

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●バーチャル・ミュージアム「時計仕掛けの昭和館」エントランス

「昭和館フロアガイド」のカテゴリーにこのブログの主旨と概要を示しましたが、これはブログという新しいメディアを使った自分史の試みです。ただ、この自分史には家族は登場せず、あくまでも自分個人に的を絞り、自身の「生涯学習」という観点から描こうとしています。「生涯学習」とは「生まれてから一生涯が学びの日々」という意味だそうです。従ってこのブログは、私が生まれた時から始まりました。そしてこの1年間で社会人になったところまで進みました。ようやく将来の方向性が見えてきたというところで、成長記録は一応終了です。

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●1941年 太平洋戦争勃発 誕生~
 http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2008-02-05

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●1947年 新制小学校入学~
 http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2008-02-19-1

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●1953年 中学校入学~ 
 http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2008-05-03

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●1956年 高等学校入学~
 http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2008-07-09

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●1959年 社会人1年生~
 http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2008-10-31


この1年間の私のブログのデータ。1日の訪問者数は最高で200。ページビュー数は最高で900。アクセスランキングは10002500の間を上下してきました。また、今日までの閲覧数の累計は107,408です。数字的には決して多い方ではないと思いますが、このテーマ、この内容で1日に200人近くご来館頂いているということは、小さなバーチャル博物館には収まりきれないくらいで、大きな励みになっております。ご愛顧頂いているみなさんに、こころからお礼を申し上げます。

そこで来年ですが、ようやく「映画技術おもしろ発達史」と「ディズニー長編アニメーション再発見」のカテゴリーに本腰を入れる段階になりました。この二つは仕事とのつながりの中で私がライフワークとして永年資料を集め、自修してきたもので、私自身の具体的な生涯学習のテーマなのです。両方とも決して堅いお話で展開する考えはありませんし、その能力も持ち合わせていないのですが、興味がある/ない、でみなさんの関心は分かれることになると思います。また、資料の整理や執筆にこれまでよりも時間がかかるのは明白です。そのため、ブログをUPする度合いは減ることになりそうです。なお、その他のカテゴリーはこれまでと同様に続けて参ります。

大列車強盗 ポスター.jpg映写技師 20世紀初頭.jpg眠れる森の美女.JPG
●来年展開の「映画技術史」と「ディズニー長編アニメ」関係資料の一部です。

  来年度はブログのデータにとらわれずに
、マイペースで、その分できるだけ充実したものにしたいと考えておりますので、来年もどうぞよろしくお願いいたします。
 
それでは、新しい年が希望の年になりますように。
  どうぞ良いお年をお迎えください。


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