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「書」の宇宙観 [あんなこと、こんなこと]

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       「書」の宇宙観 

"My Favorite Photo 2010" entryは
4番目の睡蓮の写真です。

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 数年前、ある書家のお話を聞く機会がありました。全国規模の組織を有する書道会の総帥で、その本部が私の住む街にあることは知っていました。その会で年に一回開催される大規模な全国展を観に行き、それが会長先生との初対面でした。
 お会いしたとたんに波長が合ったというか話が弾み、昼食を誘われるままに近くの料亭に腰を据え、夕食までもご馳走になるという長談義となりました。

 これまで私は、「書」は好きでもきらいでもなく、時々書展を覗いて鑑賞することはありましたが、知識も造詣も無いために描かれている語句も読み取れず、従って意味も分からずにただ造形として、デザインとして楽しむだけでした。
 先生には「書は格式だけではなく、もっと分かりやすく身近なものでありたい」との願いがあり、会としても口語文による日常的な詩歌や散文を素材とした書展を開催したりして、以前から新しい試みに意欲的だったのです。

 その先生が北陸支部の研修会に向かわれるというので、金沢までビデオ記録のために同行しました。研修会の参加者は、北陸地区で書道教室を開いている先生方とその教室の生徒さんたちです。めったに聞けない会長先生のお話が聞ける上、目の前で揮毫が見られるというので、会は大盛況でした。
 作品を持参した地区の先生方や会員に細かい添削を済ませた後、みんなに囲まれた輪の中で会長先生の揮毫が始まりました。私自身、リアルタイムで書が出来上がる過程を見るのは初めてなので、ビデオのファインダー越しに凝視していました。

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 会長先生の揮毫は楷書に始まり、行書、草書、篆書、隷書、あるいは仮名、と自由自在。10点ほどの作品が1時間あまりのうちに出来上がりました。
  おそらく、脳裏に描かれた文字の形と配分が白紙の上にイメージできたその瞬間に、さっと筆が下ろされるのでしょう。下ろしたら一気に最後まで書き進める。あるときは筆先だけで流麗に。あるときは筆の腹をいっぱいに押し付けて力強く。筆全体を使って生まれる緩急と強弱の筆勢がリズムを生み、筆跡の妙をかたちづくっていきます。勢いのため途中で筆先が割れることがあるのですが、次の文字ではうまく筆の角度を変えて紙に下ろし、割れた筆先が見事なかすれ具合をしるしていく。これはおそらく、どの段階で筆先を割るかも計算されているのに違いありません。まったく「おみごと!」の一語に尽きます。

  紙の大きさと質、墨の濃さ、用いる筆の太さ、特性を意識した上で、文字数を考慮し、真っ白な空間に全体の字配りと文字の大きさ、配分をイメージする。どの文字を控え、どの文字を強調するか。文字がどの程度にじむか。作品のすべては計算であり、仕上がりは意図した構図を示すのです。まさにこれは造形であり美術であると思いました。

 同時に、それは映像制作にも共通すると思いました。取材した素材から編集上のプライオリティを考慮し、全体をどんなトーンでまとめるか。一定の時間の中にどのように要素を配分するか。どこを画面主体で見せ、どこでナレーションを聞かせ、どこで音楽を効かせるか。クライマックスをどのように盛り上げるか。すべては意図したテーマを語りかけるための計算です。これは無から有を生みだすクリエィティブな活動全般に共通するものではないでしょうか。

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 そのあとの会長先生の談話も含蓄に富むものでした。習字と書道の違いは何か。お手本を見ながら書くのは「お習字」。書道とは「道」を極めること。では「書」とは何か。それについて「書」は宇宙である、というのです。なにやら禅問答のようです。

 書の発達は歴史的に見ても、仏教の経典や四書五経に代表される朱子学に関する書物との関係が深いといわれます。古来、中国では「四方上下これを宇といい、往古来今これを宙という」との言葉があって、時間と空間の全体を宇宙と呼んでいたのだそうです。その中で生きとし生かされている人間自身も宇宙であり、その人間が描く「書」もまた宇宙なのだそうです。

  書を書くためには、まずテーマともいうべき文言を探さなければなりません。そこで選ばれる言葉は必ず、作者の思想や倫理観、経験や願望といったものを反映させたものになるでしょう。つまり、選ばれた言葉は作者の心境の反映である訳です。
 次にそれをどのように表現しようかと模索します。その言葉がしるされた時代、しるした人物について思いを馳せたりする過程で、その言葉が作者の中で熟成し、同化します。そして最終的に、それを表現するもっとも適切なかたちとして書体が選ばれ、一幅の書に収斂されるのでしょう。
 このように、書とは作者の宇宙が込められたものであり、その書だけで作者の全人格が評価される。それでよし、とするもの、それが「書」であるというお話でした。
 なるほど。「道」とはまことに厳しいものです。とても依頼されて作るビデオ記録の及ぶところではありません。

 ところで、書が宇宙であるとするならば、書の鑑賞とは作者の思想や人格を逆にたどる「内なる宇宙の旅」なのかもしれません。書道研修会のビデオを編集しながら、そう思いました。

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  "My Favorite Photo 2010" entry 

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タグ:SHODO 書道

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