こころの奥の美空ひばり [昭和ガラクタ箱]
昭和ガラクタ箱-6
こころの奥の美空ひばり
以前、ラジオ局の音楽番組のゲストに呼ばれたことがありました。番組は「ボニー・ジャックスと真理ヨシコの空色音楽館」。ボニーのリーダー、玉田元康さんからのお誘いでした。番組は毎回、ボニー・ジャックスのメンバーが交代で真理ヨシコさん(NHKの初代歌のお姉さん)と対談しながら進める形式です。「30分の番組2本ですが、あなたのカラーを出すためにあなたの選曲で進めますから、どうぞご自由に」とのお言葉。「では、1本はディズニー長編アニメのテーマ曲の中から。もう1本はがらりと趣向を変えて、美空ひばりということではいかがでしょうか」。音楽というジャンルはあまり馴染みのない私ですが、その時とっさに浮かんだのが、幼年時代の思い出が深い美空ひばりとディズニーだったのです。
この突飛な申し入れに玉田さんは「この番組としては珍しい。でも面白いですね」ということになりました。また、曲の途中に挿入されるお二人との対談では、自分自身の生涯学習について話したいと伝えました。ディズニーも美空ひばりも、私の生涯学習のテーマであるからです。
その頃私は、東京・多摩地域を対象とする広域の生涯学習拠点「TAMA市民塾」の運営に関わっていました。そこではたくさんの講師の方々と出会いましたが、中でも「美空ひばり学」というユニークな講座を開設された竹島嗣学(しがく)先生と親しくなり、講座終了後にできた「美空ひばり学会」の名前だけ顧問に祀り上げられていました。
そうしたいきさつもあって、番組では「TAMA市民塾」と「美空ひばり学会」の趣旨やユニークな活動のさわりを述べさせて頂きましたが、選曲はかなり迷った末に、私が一番好きな「悲しき口笛」「越後獅子の唄」「東京キッド」「りんご追分」に決めました。昭和24年(1949)から昭和27年(1952)まで、つまり、美空ひばりがデビューした当時の曲を選んだ訳です。
その頃の私は8歳から11歳。小学3年から6年生でした。幼年期はこころの形成期でもあります。その時期、美空ひばりの歌声は、ある種の刷り込み現象のように私の記憶の奥に定着しているのです。
今、78回転のレコードに録音されたノイズだらけの彼女の歌声を聞くと、その中から湧き上ってくるのは、無垢だった幼い頃の思い出です。
小学校はもちろん“流行歌”は禁止。けれども一歩学校を出ると、私の周りにはいつもラジオから流れる美空ひばりの歌声がありました。青い柿の実をぶつけ合っての戦争ごっこや、歳の離れた弟を背中にしょいながら日が暮れるまでメンコやビー玉で遊ぶ時、きまって聞こえていたのが美空ひばりの唄でした。父は、私が進駐軍のジープを追いかけてチョコレートをもらうことや、飴をしゃぶりながら洟垂れ小僧たちと紙芝居を見ることについては、決していい顔をしなかったのですが、美空ひばりの歌を“子供には不適”とダイヤルを切り替えたりはしませんでした。 美空ひばりはその頃、一部の人たちから大人びた唄い方を疎まれていたことがありましたが、当時は子供も大人もみんなが背伸びをしながら生きていた時代ではなかったかと思います。
そんな美空ひばりの記憶が、ある時期から次第に薄れていきます。高校時代になると、いつしか私の好みは、時代劇でべらんめえ口調で啖呵を切るひばりよりも、洗練されたスタイルで甘いムードを漂わせる雪村いづみや、若尾文子、白川由美といった年上で清純派の映画女優に変わっていました。港町、ドラの音、マドロスさん、そういった風景は田舎の少年の感覚からすると、憧れを通り越して、やっぱり手の届かない現実に引き戻されるようなところもあって、どこか違和感がありました。
思春期への到達とともに、彼女は私から遠ざかっていきました。美空ひばりの唄が思い出と連動するのは、昭和32年(1957)の「お祭りマンボ」までなのです。以後、美空ひばりをはじめとする歌謡曲や演歌とは疎遠になったまま今日に至っています。
美空ひばりが私たちの前から姿を消してしまってから、いろいろな神話や伝説が生まれました。けれども私にとっての美空ひばりは、神話や伝説の中にあるのではなく、デビュー当時の彼女の姿と歌の中にあります。それは自分をいつでも幼年期に立ち返らせてくれるおまじないのようなものとして、私のこころの奥に存在し続けているのです。
●来る5月29日は美空ひばりさんの生誕70周年に当たります。
●写真は「美空ひばり学会」主宰・竹嶋嗣学先生によるスケッチです。
写真と思えるほど写実的な見事な鉛筆画です。(2006年6月、NHKにおいて展示)
なお「美空ひばり学会」については、後日「キャラメル・エッセー」でご紹介しま
す。
●4/26(土)に北京五輪の聖火が長野入りしました。
この日は東京・府中市の多摩交流センターで「TAMAビデオクラブ」の例会がありましたが、会結成当時、同会の会長を務めておられた矢島健さんから、早朝、上記の記事に関するメールを頂きました。そのまま転載させて頂きます。矢島さん、どうもありがとうございました。
さて聖火リレーの方は?星野は?どうなった!失敗った!もう終わっちゃたよ!・・・
そうです。ひばりといえば私も、「悲しき口笛」「東京キッド」「リンゴ追分け」
「知らず知らず歩いてきた細く長いこの道」
生まれて初めてビデオというものを自己流に作った。
思い出すなぁ初期のTAMAビデオクラブ。
この頃は物忘れがひどくていろいろご迷惑お掛けしております。
Chinchikoさん、ご来訪ありがとうございました。
by sig (2008-04-25 17:14)
美空ひばりは、今考えてもやはり良いですね・・。
by kemm (2008-04-25 19:41)
kemmさん、今晩は。
永いとはいえない歌手生活でしたが、聴く世代によってそれぞれの愛され方をした歌手ではないかと思います。みんなが自分の美空ひばりを抱いているのだと思います。
by sig (2008-04-25 20:13)
こんばんは
私は、世代が異なるため、美空ひばりさんの昔の歌を
あまり知らないのですが、特番等で両親がTVを見ているのを
横で見たりしましたが、確かに歌姫と呼ばれるだけあると
思っています。
最後のヒット曲である『川の流れのよう』を聞くと、
美空ひばりさんが歌うことにより、彼女の波乱万丈の人生と共に、
私に感慨深いものを与えます。
by TAKA (2008-04-25 21:40)
TAKAさん、こんばんは。
多分TAKAさんは年齢的に美空ひばりについて私たち世代のような深い思い入れはないと思いますが、このブログの趣旨である戦後昭和を語るときにはやはり外せない大きな意味を持つ人だと思うのです。その生き方も見事でしたが、彼女が去ったとき、完全に昭和が終わったと思いましたね。
by sig (2008-04-25 23:20)
boobeeさん、ご来館ありがとうございました。
そちらのブログで、木曾三川公園の風景を見せて頂きました。チューリップが圧倒的ですばらしかったです。
by sig (2008-04-26 00:09)
ひばり映画の数々に癒された年代として嬉しい記事です。
京都嵐山に美空ひばり館があったのですがいつの間にか
閉鎖されていました。寂しい気がしました。(蛇足ですが・)
by furukaba (2008-04-26 16:06)
sigさん こんばんは
僕の記憶のある頃から美空ひばりの詩 聴こえてきました
それは 美空ひばりが唄う歌では無く
祖母が 美空ひばりの歌を唄ってた歌声です
昔の 美空ひばりの唄が聴こえてくると思い出すのは祖母です
素敵なブログですね 感動しました
昭和 僕が生まれ 育った時代
昭和 凄い時代でしたね
by いぬ (2008-04-26 17:40)
こんばんは、furukabaさん。
昨日4/25、「京都嵐山・美空ひばり座」が開館しました。テレビで紹介していましたが、なかなか楽しそうなところですよ。今度京都へ行ったら、ぜひ寄ってきてください。
by sig (2008-04-26 23:07)
いぬさん、こんばんは。「昭和館」へようこそ。
昭和を代表する歌手・美空ひばりさんは、いぬさんのコメントのように幾世代もの人たちをつないでくれるところがすばらしいですね。
人生の大半を昭和期で過ごした世代として、自分の体験などを取り止めもなく書いています。また遊びに来てください。
by sig (2008-04-26 23:14)
こんにちは ^^ ひばりさんのような 天才肌な方
なかなか居ませんね~。
昨年末のNHKの紅白に 真っ赤なドレスで歌い上げた姿に
感動しました。私の心に 息づいています。
by tubomi (2008-04-27 12:28)
tubomiさん、ご来館ありがとうございます。
ひばりさんに対する思い出は人それぞれ。
それがそのまま、ひばりさんの人間性や芸域の広さを現しているのではないかと思います。
by sig (2008-04-27 18:03)
懐かしく拝見させて頂きました。
by tarou (2008-05-03 18:38)
tarouさん、ようこそ。
コメントありがとうございました。
by sig (2008-05-03 19:02)
ともちんさん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2010-10-25 19:26)