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「格差」は身体にもあった、という話 [あんなこと、こんなこと]

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あんなこと、こんなこと―7
 
「格差」は身体にもあった、という話
小学生時代 1948~1953(S23-28)-④
 

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●かけっこが苦手だった小学校の校舎とグラウンド(「スタート35」で撮影 1953頃)

●かけっこはたいていビリだった
 昭和16(1941)年の早生まれ。それは昭和15年生まれといっしょに1年生になります。最大1年間の開きがあります。まだ幼少ですから、これは体格の面でも知能の面でもかなりのハンディキャップだと思うのですが、いかがでしょうか。
 
小学生の頃、私は運動会が大嫌いでした。5~6人で走っても3位以内に入ったためしがないのです。良くてビリから2番目。個人レースの場合はまだしも、リレーとなると責任重大です。一生懸命駆けるのですが、どんどん追い抜かれてしまいます。チームが負けると全部自分の責任のように感じ、仲間に済まない気持ちでいっぱいでした。そんな運動会が楽しい訳がありません。だから競技というものがどんどん嫌いになっていきました。案外こんな年頃に、すでにこんなところから文系・理系・体育系が分かれたりするのかも知れません。それ以来、スポーツに限らず競争することはとても苦手な人間になってしまいました。 

●村で一軒のなんでも名医さん
 当時、村の医療機関は、内科・外科・小児科・皮膚科と何でも診てくれる「原医院」とお産婆さんの2軒しかありませんでした。お医者さんは「原さん」と呼ばれて親しまれていました。村の人たちはどの家も主治医といえば原さんでした。ある時、風邪をひいて原さんに診てもらいに行きました。
  玄関を上がるとすぐに8畳二間続きほどの奥行きの待合室があって、大勢の患者が待っています。待合室の奥には誰も座らず、そこは外科の施術室代わりに使われます。柔道有段者の先生にとっては手足の脱臼などはお茶の子さいさい。先生はみんなの見ている前で患者を畳にうつ伏せにすると、「えいっ」という掛け声とともに鮮やかに治して見せてくれました。それはまるで観客の前で演じられる劇を見るような鮮やかさでした。
 

●かかとが取れそうなほどの大怪我
 そのお医者さんのことを書いていて思い出しました。それは小学校入学前に大怪我を治してもらった記憶です。
 どういういきさつかは忘れてしまいましたが、農家の遅い夕食の時間帯でしたから奥の部屋は真っ暗でした。その部屋に勢い良く飛び込んでいった私の左足のかかとが、畳の上に上を向いて転がっていた切り出しナイフをもろに踏んでしまったのです。刃渡りは5センチくらい。柄に黄色い藤弦が巻いてあり、その部分が曲げてあるので、刃を上にして立つのです。きっと大声を上げたと思うのですが、すぐに駆けつけた父と兄たちが傷口を押さえ、父がおぶって「原さん」に急いでくれました。かかとは三角形をした刃の深さそのままに切り分けられて、パクパクしていたそうです。
  先生は薬液を浸した黄色いガーゼを何枚も何枚も重ねて、包帯できつく縛ってくれました。通院期間は結構長かったと思いますが、処置はいつも黄色いガーゼでした。ガーゼの取替えは、傷口を少し開いて貼りついたガーゼをピンセットで取り出し、新しいガーゼを挟み込みます、初めはとても辛かったのですが、開く部分も次第に狭くなり、やがて傷跡も分からないほどに完治しました。あの大怪我にもかかわらず、神経も血管も完全につながった訳ですから、当時としては大した技術だったと思います。
大人になってからは、子供たちの怪我の用意に、家の救急箱には必ず黄色い薬液に浸したリバガーゼを入れておいたものでした。 

●生まれついての心臓弁膜症?
 
通信簿には健康上の所感を書く欄があります。原さんは小学校の健康診断も担当していました。私の胸を指先と聴診器で診ただけで、先生は「心臓弁膜症」と言いました。手術をしたのは今から4年半前ですが、私は小学1年生の時から心臓弁膜症と診断されていたのです。
 当時、心臓弁膜症と言われてもどんな病気か分かりませんでした。生活に支障がある訳ではなく、体育の時間に見学していなければならない訳でもなく、みんなと同じことをしていましたが、母は私が生まれた時は虚弱だったと言い、育て上げることができるかどうか随分心配したようです。
 信越本線で新潟寄りに羽生田という駅がありますが、私が物心がつく前から毎年一度春になると、汽車でそこのお寺さん(定福寺?)にお参りに連れて行ってくれました。
 本堂の中に「おびんづるさま(十六羅漢の筆頭)」と呼ぶ黒光りした像があって、参詣者は自分の身体の治したい部分とその像の同じ部分を交互になでて、良くなるようにお祈りします。その時母は、私の頭から足まで撫で回していましたので、どこがいちばん悪かったのかは分かりません。 


  早生まれで、同学年でも実質1年違いという体力差。かかとの大怪我。そして心臓弁膜症。これらがかけっこビリの要因ではないか。このハンデがなければ、自分は必ずしもスポーツ嫌いにはならなかったのでは、と思うことがありました。でも、それは負け犬の遠吠え。どっち道スポーツが苦手だったから、別の道へ進む方向性がはっきりと定まったのだと思います。

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●小学校、中学校の通学路で、村の中央を貫通しているメインストリート(県道 1953頃 火の見やぐらの右手奥…家の陰で見えない…が自宅)
夏はやぐらの上で、4km程離れた長岡の3尺玉花火を見ていました。それ程遮るものがなかったということです。

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●自宅の庭から見た火の見やぐら   ●当時の照明はまだ電球です。 

☆次回、5月号表紙は5/2(金)にUP致しますのでご了承ください。

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いぬ

sigさん こんばんは
お医者さんを先生と言うのが読んで わかるような気になりました
僕は怪我でしか病院に通った事がありません
良い先生と出会える大切なんでしょうね
僕が怪我をして行く病院のお医者さんは寝てれば治るばかり
寝てられないから病院に来るのに おかしなお医者さんです

大変な病気したんですね
その分 健康の大切さも わかるのでしょうね

by いぬ (2008-04-29 19:46) 

sig

いぬさん、コメントありがとうございます。
今はどうか分かりませんが、この当時の「先生」というのは、人格も技術も備えた名実共に「先生」と呼べる人たちでしたね。だから信頼され、尊敬されたのでしょうね。
確かにお医者さんとの出会いは大事で、私もその道で権威ある名医に出会えて無事に大きな手術を済ますことができました。
by sig (2008-04-29 20:37) 

プリン

こんばんは~~~♪
「原さん」先生!すごいですね~~~ヽ(^o^)丿
なんでも出来ちゃうんですね。
今の時代では望めそうもありませんね。
今こそ、原さんのようなファミリードクターが必要だと思うのですが。
それにしても、かかとがとれそうな傷は、文章からも
とっても痛そうでした・・・(~_~;)

by プリン (2008-04-29 21:18) 

sig

プリンさん、こんばんは。
そう、村の人たちそれぞれが「自分の主治医は原さん」と思っていましたよ。多分、当時は全国どこの町でもこういうお医者さんがいたと思うんです。
みなさんそれぞれの「原さん」を思い出して頂ければうれしいですね。

by sig (2008-04-29 23:59) 

TAKA

こんにちは
おっしゃる通り、小さい時の1年は、ハンディですよね。私は4月生まれ
なので、感じたことはありません(大きくなってからは、免許が早く
取れる以外、早く年を撮るなど、嫌なことが多かったように思います。)
が、やはり小さい時期での1年の差は、環境や生活
状態により改善されるとは思われるものの、やはり、体格のみならず、
生活する上での習熟度や、その他において、ハンディであると認識して
おります。
あったのか、なかったのかは知りませんが、親の話によると、昔は、
3月31日等に生まれたら、子供がかわいそうなので出生日を遅らせて、
届を出したようなことを聞いたことがありました。

by TAKA (2008-05-01 12:01) 

sig

TAKAさん、こんばんは。
早生まれの子供が抱いた取るに足りない疑問について、とてもいたわりのあるお言葉を頂きました。ありがとうございました。
特に気にしていた訳ではないのですが、記事のように体力的にうまくいかないと、ついそう考えたりしたものでした。
TAKAさんのコメントにある、3月末に誕生の子供を4月生まれとして届け出たという話は私も聞いたことがあります。
by sig (2008-05-01 19:23) 

furukaba

小学校の想い出の数々 拝読しました。
私は4月生まれなので出席簿だけはいつも一番でした。
学力は・・でした。

追記
sigさんのブログアップ情報(RSS新着情報)が連動していません。
訪問が遅くなりました。
by furukaba (2008-05-03 13:10) 

sig

furukabaさん、いつもコメントありがとうございます。
当方でもカテゴリー欄の原稿数が実際の数と会わないことがあったり、ブログにまだシステム上の問題がありそうですね。
by sig (2008-05-03 18:59) 

corrado

素晴らしいお医者さんとの出会いですね。
当時は軍医出身の最悪のお医者さんもいたと聞いたことがあります。
ところで、昭和20年代は電球を購入するにも大変だったという話を親や祖父(3年前に他界)から聞きました。
by corrado (2008-05-05 00:18) 

sig

corradoさん、こんにちは。
「軍医」とか聞くといっぺんに戦後に引き戻されてしまいますね。他の国では日常的な言葉なんでしょうが。
このブログが、ご両親や叔父さんたちの話を思い出すきっかけになったことをうれしく思います。
by sig (2008-05-05 10:55) 

sig

yannさん、ばんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2009-02-24 21:25) 

sig

ともちんさん、こんばんは。ご来館ありがとうございます。
by sig (2010-10-25 19:40) 

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