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授業もそっちのけ。迷宮入りのラブレター事件 [あんなこと、こんなこと]

P1030925b-3.JPG あんなことこんなこと―11

中学校時代 1953~1955(S28~30)一④ 
授業もそっちのけ。迷宮入りのラブレター事件

  母校・山本中学校は文字通りにとれば「山のふもと」ですが、実際は標高300m の山の中。だから、縮めて読む「山中(やまちゅう)」の方が状況にピッタリです。
 そうした自然環境ですから、季節ごとに鳥は巡り、花は移ります。グランドの外れには畑があり、大きな桑の木がありました。桑の実が真っ黒に熟す頃、昼休みが終わるとみんなの口の中が紫色に変わっていました。体育館で全校朝礼の真っ最中にガチャンと大きな音がしてガラスが飛び散り、フクロウが飛び込んできたこともありました。そんな純朴な学校生活の中で、社会や世間のことも少しずつ分かりかけて、感受性豊かな思春期を迎えることになります。思春期という言葉自体が恥ずかしい、そういう年頃でした。
 

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●左/朝礼中にフクロウが飛び込んできた体育館
●右/地区連合運動会のマスゲーム 2枚とも卒業記念アルバムより 1956(S31.3)


 ある日体育の時間から戻ると、机の上に置いたはずのカバンが見当たらない。見つかったけれど、次の時間で使う教科書がなくなっている。クラブ活動を終えて帰ろうとすると、下駄箱のズック靴がない。本当に困ってしまうのですが、みんなかわいいいたずらなのです。けれども2年生くらいになると、盆踊りの夜に誰かと誰かがいっしょにいなくなったなどといううわさが広まったりします。
 
このころ不純な男女交際について、新聞や雑誌では「桃色遊戯」と表現していました。聞いただけだとアキバのコスプレ喫茶でかしずかれるようなかわいい感じですが、未成年がやってはいけないことを指す言葉なのです。この言葉、中学生には危うい感じがする一方で、必ずしもいやらしくはなく、どこか情緒のある雰囲気で響いていました。でも現実は、高校生になってからでさえ長岡市街を姉と二人で並んで歩いて冷やかされた時代。中学生の男女が二人でいっしょに登下校することなど考えられませんでした。 

 中学2年生の秋、1週間の稲刈り休みのある日。稲刈りには絶好の晴天でしたが、例によって2階の自室にこもって、「田んぼへ行くぞ」との下からの呼びかけに居留守を使い、まんまとサボることに成功した日のことです。家がカラになったのでしばらくして下に下りて行くと、下の玄関(作業などの出入り口で、客用には上の玄関)の床に白い角封筒が落ちています。取り上げてみると自分宛。切手が貼ってないところを見ると、わざわざ届けに来たようです。裏返してみると苗字は実際にクラスの人のもの。でも名前はでたらめなのです。おかしいと思いながら期待半分、不安半分で開けてみると、何のことはない「これまでと同じに、仲良くね」という罪のない内容でした。少し期待したその種の手紙でなかったことに正直拍子抜けして、誰からの手紙かは気になりましたが、その封筒はそのまましまい込みました。

 その翌日、私は学校で親友のS君に呼び止められました。すると彼は、何とポケットから白い角封筒を取り出すと、うれしそうに見せてくれたではありませんか。読んでみると案の定、その文面は私に届いたものと全く同じなのでした。「実は僕にも…」と打ち明けるとS君も驚きましたが、学校に知れたらまずいことになりそうなので、二人だけの秘密にしておこうよ、と約束しました。

 
ところが年が明けて三学期を迎えて間もなく担任の先生に呼ばれました。「何か先生に隠していることはないか」というのです。心当たりはなかったのでそう言うと「こういう手紙を持っているだろう」と、一通のよれよれになった角封筒を出して見せました。「実はこの手紙はS君に来たものなんだが、学生服のポケットに入れたままだったのを、お母さんが洗濯する時に見つけたんだ。そこでS君に聞いてみた。これと同じものを君も持っているだろう?」ということで、「はい」と白状?せざるを得ませんでした。

 私たち昭和15、16年生まれは、男女同権を謳う戦後初の民主教育を受けた花の第1期生です。悪いことをした気はないので「届けられたものを持っているというだけで、どこがいけないのですか」と聞くと「中学生としてはまずいんじゃないか」というような言葉で諭されました。学校の風紀上よくないということのようでした。私たち二人が風紀を乱したというなら、全くいわれのないことです。

 この事件(とは思っていませんでしたが)はそのままでは終わりませんでした。それから間もなく、女子生徒の事情聴取が始まりました。2年生は3クラスでしたが、各クラスとも自習となり、時間中に職員室や宿直室で待つ担任の先生のもとに3~4人ずつ呼ばれていきました。20分前後で帰ってくると次の3~4人が交代します。教室は自習どころではなく、あちこちでヒソヒソ話が広がる疑心暗鬼の場と化しました。そして、みんなの話を聞き終わったあと、再びS君と私の二人が呼ばれました。そこでの話は、誰がどうしたということではなく、とにかく中学生は中学生らしく、というお説教で締めくくられました。

 
この一連の経過の中で、私はこの手紙を書いた人のことをずっと考えていました。同じ人が二通書いたのか、二人の友だち同士が話し合って私たち二人に届けたのか、それはもうどうでもいいことでした。決して悪意があってやったことではないはずなのに、むしろ控えめにおずおずと試してみただけのことなのに、学校を挙げてのこの大騒ぎは一体何事だろうか。その人の気持ちは打ち砕かれ、後悔にさいなまれ、どんなに悲しい思いをしていることか。悪意のない純な気持ちを踏みにじる、学校のこの仕打ちのどこが教育なのか。学校もどの先生もみんな大好きでしたが、このことだけは理解できませんでした。 

 これは学校だけの問題ではなく、学校のこうした空気はそのまま社会の空気の反映でした。そしてその空気を醸しだしている根幹は、社会を構成するみんななのです。個人の意識が変わらない限り社会は変わらず、そのためこうした男女交際が一般的なこととして社会で通用するようになるまでには、新しい価値観で行動する世代との交代を待たなければなりませんでした。
 
真相を知らされないまま、50年が経過しました。成り行きを知っている先生方もとっくの昔に引退されました。この事件が同窓会で語られることもありませんでした。 

 
世代は交代し、男女は自分の意思で自由に行動できる時代になりました。するとそこにはまた、子育てにはじまり、家庭、学校、社会の多方面にわたって私たちの世代では考えてもみなかった難しい問題が生じてきています。
 欲しいものは何でも揃い、願い事が何でもかなえられそうなのに、それでも満たされないこの時代とは何なのか。そしてこれらの問題は、今の時代の反省の上に立って路線が修正される次の世代に代わるまで、また50年は続くのではないでしょうか。

 
それはともかく、その昔、男女が並んで歩くこともできなかった時代があった。
 男女間の何でもないことが大事件として騒がれた時代があった。
それが悪かったとかいうことではなく、それが真実だったということ。それにしてもこういうことは、いつまでも覚えているものなんですね。

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無茶・無鉄砲はおとなへの通過儀礼 [あんなこと、こんなこと]

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中学校時代 1953~1955(S28~30)一⑤ 
無茶・無鉄砲は、おとなへの通過儀礼 

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●中学3年生 秋の修学旅行 靖国神社へ行ったことはすっかり忘れていました。

●トム・ソーヤー、ロビンソン・クルーソーにあこがれて
 
男子中学生の興味は、やはり冒険。大河をいかだで下ったり、洞窟で宝探しをしたトム・ソーヤーやハックルベリー。あるいは木の上の小屋で暮らし、海で魚を突き、ジャングルで狩り…というロビンソン・クルーソー。こうしたサバイバル物語は当時の少年たちの憧れの的でした。大体は夏休みの遊びなのですが、怖いもの見たさの覗き趣味的なものから、実際に身体を張る危険な冒険の疑似体験にまで及びました。
 
「秘密基地」の場合はその名の通り、この秘密は誰にも漏らさないという鉄の掟があります。だから作るのも遊ぶのも気のあった友人に限定されます。基地づくりはまず立地探しからです。けれども隠れ家ですから、残念ながら木の上に作る訳にはいきません。近くの山中を散策し、あまり人の通らないやぶの中を選びました。ビニールクロスのない時代ですから、各自拾ってきた板切れや納屋から持ち出したむしろ、ござなどを使って、粗末な小屋を組み立てます。小雨くらいならしのげるように、あれこれ工夫して作り上げるその作業自体がとても楽しいものでした。
 
「秘密基地」の定番はターザンごっこです。荒縄を木の枝に掛け、ターザンのような奇声を上げて振り子のようにぶら下がって遊ぶのですが、荒縄はすぐ切れるので危険でした。一度綱が切れて自分の身長位の高さから転落し、しばらく息ができませんでした。そんなことがあってからは雑誌を持ち寄って読んだり、映画の話をしたりして、比較的穏便にたむろっていました。秘密基地は学校帰りに立ち寄ることもあり、秋まで機能していましたが、農繁期の始まりとともに自然消滅しました。 

●バカバカしさが極まった自転車トライアル
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年生の夏休みのある晩のことです。夏休みには親友といっしょによく夜遊びをしたのですが、その晩は考えがあって夕食後遅く、一人で自転車に乗って出かけました。町外れに、県道につながる直線200mほどのかなり急坂の道路があるのですが、その道路の坂上から坂下まで両手を手放しのまま走り切れるかどうか。それを前から試してみたかったのです。夏休みはそのチャンスでした。まったく馬鹿馬鹿しいトライアルですが、結構まじめに考えた挙句のことでした。
 
時間が遅いので人影はありません。道路は月明かりでよく見えます。道幅は7~8メートル。坂道は団子のような丸い玉砂利をばら撒いただけなので、横滑りして自転車を漕いで上るのは至難の技。途中から押して上るしかありませんでした。
 坂の上から眺めると坂下を横に通っている県道がかなり遠くに見えます。問題は玉砂利です。必ず車輪を取られて転倒することは目に見えていました。つまりは手放しをどこまで持続できるかという挑戦です。
とにかく乗りかかった船。大きく一息して自転車を踏み出しました。案の定、砂利にタイヤが取られてハンドルで立て直すのがやっとです。次第に加速がついたので、よし、と両手を離して横に広げました。自転車は更に加速しながら、ガタガタと大きく左右に揺れながら急坂を駆け下っていきましたが、とうとうその時が来ました。両足によるコントロールがもう目いっぱい。駄目だと思ったと同時にタイヤは大きな丸石に乗り上げてザザッと左にかしいだと思った瞬間、分けが分からなくなりました。

 
気がついてみたら草むらの中。自分は道のこちら側で自転車は向こう側。まだ急坂の半ばあたりだったでしょうか。履いていた下駄の片方がすっ飛んだらしくて見当たらず、右の手の平が血だらけです。月の明かりに透かしてみると、親指の付け根から手首に掛けて5cmほどの傷が口を開け、中に小さな砂利が詰まっていました。とに角小砂利を掻き出して手ぬぐいで包み、片方の下駄を引っ掛けてハンドルの曲がった自転車を押し、家に帰りました。
 結果が分かっている無茶をなぜやったのか。その理由がよく分からないのです。もし、当時バイクが身近な時代だったら、これは単なる衝動でバイクを暴走させる行為と同じことです。手の平の傷が消えたのは40歳位になってからでした。
 

●修学旅行は日光・東京
 中学3年生の修学旅行は9月に2泊3日の行程で日光・東京方面でした。新幹線はもちろんなく、国鉄の「急行」は仕事か急用で利用するものという時代ですから、すべて三等車で各駅停車です。当時のアルバムを見ると、長岡から上越線で新前橋まで行き、そこからまず日光に立ち寄っています。雨の中、バスで東照宮に向かい、ガイドさんの案内で陽明門をはじめ、左甚五郎の眠り猫などを見たあと、華厳の滝と中禅寺湖へ回りました。
 翌日は日光から上野に向かいました。上野では駅前の大通りを挟んだ反対側に修学旅行の団体を収容するための大規模旅館が林立しており、そのうちの1軒に宿泊しました。東京に親戚がなかったため、私にとっては初めての東京でしたが、スケジュールは都心部をバスで素通りして羽田飛行場に寄っただけでしたから、本当に東京らしい情景は見ないで帰ったことになります。期待はずれでしたが、学校側の理由が振るっていました。「君たちはどうせこれから、みんな東京で暮らすんだから」。その通り、当時から新潟県人の圧倒的多数の就職先は東京なのでした。

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●修学旅行では国鉄の三等車の鈍行で、日光と東京へ行きました。

●四男は出て行くものと初めから決めていた
 
当時の中学生には、3年生になると高校進学か就職かという岐路が待ち受けていました。クラスは「進学組」と「就職組」に分けられました。私は農家の四男坊。当時は長男が家を継ぎ、次男三男は学業を続けるにせよ就職するにせよ、早々に家を出ることが当たり前の時代でした。まして四男が家を離れるのはもう当然のこと。けれども、高校は卒業したいと思いました。しかしそれ以上は、小学生から高校まで12年も学べばもう十分。大学は結構。どうせ家を出るなら早い方がいいと考えていました。ですから「進学組」ではあってもその先は普通高校ではありませんでした。とすると当時の長岡での選択肢は、県立の農業・工業・商業の3校しかありません。その中で選ぶとすれば「しかたない。商業かな」という程度でした。今考えれば、普通高校を卒業後に就職するという手もあったのかもしれません。

 多くの中学卒業生(就職組)が集団就職の列車で上野駅に向かいました。彼ら彼女らは上野駅からまたその先へと列車を乗り継いで故郷から遠ざかっていきました。集団就職は、まさに日本復興の大儀と使命を担う旅立ちだったのです。残った私たちは、戦時中の学徒出陣の学生を送り出すような気持ちで駅に見送りに行きました。

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●1979年8月 新築のため取り壊し直前の山本中学校 帰省の際撮影の8ミリ映画より(無音)


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戊辰戦争は、わずか90年前の出来事だった [あんなこと、こんなこと]

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高校時代 1956~1958(S31-33)-①
戊辰戦争は、わずか90年前の出来事だった  

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●長岡市郷土資料館(悠久山公園内)

 
高校生になっていちばんうれしかったことは、電車通学に変わることでした。それまで生活していたいなか町から、ちゃんとした町に出て活動できるのです。中学生時代の仲間とは離れ離れになりますが、近隣他市から集まってくる新しい仲間ができます。長岡には映画館も食堂も書店もあります。行動範囲が一挙に広がります。

 中学高学年の頃に三大関心事だったのは、好きな人のこと、将来のこと、家出や死について。その頃は空想の域を出なかったこれらのテーマでしたが、高校生になってからは実際に友だちの裏切りや失恋を経験したり、親友の自死という予想もしなかった現実に遭遇することになりました。

 そうした経験を積むと、友情とは、愛とは、死とは、自由とは、義務とは、責任とは、といった問題から、なぜ自分は生まれてきたのか、生きるとはどういうことか、自分の将来をどう考えればいのか……といやおうなしに考えざるを得なくなります。哲学や宗教観は持ち合わせていないので、考えれば考えるほど疑問が広がるばかり。手探りの中で友だちに相談したり、本を読んだり、映画の主人公の生き方をモデルケースにして話し合ったりしていました。勉強よりも実務を、という目的で大学進学校ではない商業高校に進み、あまり勉強しなかった分、結構まじめに「人生とは」といった問題を考えていたようです。今思うとそれは、「自分探し」に向かう自然な第一歩だったと思います。
 
●自然に芽生えた「郷土・長岡」への愛郷心

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●左/長岡城「正月元旦年賀登城図」(部分)奥中央に三階櫓と本丸御殿
●右/十一代長岡藩主・牧野忠恭


 全国の城下町を歩くと、真っ先にそびえ立つ見事な城郭が目に入り、町並みも特有の威厳やある種の情緒をかもし出しているものですが、長岡にはそれがほとんど感じられません。長岡市と聞いて「ああ、あの司馬遼太郎の小説【峠】の舞台ですね」とか「河井継之助や山本五十六が出たところですね」とか、最近では「【米百表】の小林虎三郎の長岡藩ですね」と即座に思い出してくださる人でも、長岡に城が無いことは意外と気がつきません。それどころか地元でさえ、長岡は城下町だったと言われてピンとくる人はほとんどいないでしょう。

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●左/「正保城絵図」(部分) 幾重にも堀を巡らした美麗な城が想像できます。 
●右/「長岡城の図」(部分)


  越後長岡藩は譜代で誇りは高く、藩風は質実剛健。正道のためには断じて退かず、という真っ正直な藩風だったようです。ご存知の通り幕末の戊辰戦争では、錦の御旗を押し立てた西軍から逆賊の汚名を着せられ、会津藩と共に最後まで抵抗し、滅んだという歴史上の事実があります。城は信濃川東方の平地に築城された平城で、八文字構え浮島ヶ城、別名兜城(かぶとじょう)と呼ばれる堅固な要塞だったと伝えられていますが、戊辰戦役後はすべて取り壊され、石垣の遺構すら残っていないのです。

 
私が高校生になった頃は、国鉄・長岡駅前に小さな公園があり、そこに四角い大きな石がひとつおいてありましたが、それが唯一残されたものだったようです。高校生ともなると自然に自分の周囲への関心が芽生え、長岡城のことが気になっていたのですが、特に史実を調べたりした訳ではありませんでした。けれども、中学生のころ得意になって田植えを手伝っていた、生家からいちばん遠い田んぼのあたりが古戦場だったというのです。

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●上/明治元年(1868)7月25日の長岡城奪還作戦。紫の矢印が長岡軍の動き。
●下/長岡藩家老・軍監 河井継之助  ●長岡市郷土資料館(悠久山公園内)

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●現在の八丁沖から 山すその自宅方面を望む。右の高い山並みのあたりが森立峠

戊辰戦争では長岡方面の局地戦を北越戦争と呼んでいますが、そのクライマックスが長岡城奪還作戦です。長岡城は一度西軍の手によって落城したのですが、まさかと思われる間隙をぬって、長岡兵が夜陰に乗じ、大湿原を押し渡って逆襲。みごと城を取り戻すことに成功するのですが、八丁沖と呼ばれたこの湿原こそ、現代の耕地整理で良田と化した生家の田のあたりなのです。この他にも、小学生の頃から遠足などで馴染んでいた「森立(もったて)峠」も、当時の激戦地だと知り、俄然興味が湧くことになりました。

  また、家には昔から伝わる二振りの刀剣がありました。一振りは長刀でもう一振りは短刀です。私は戦争直後の子供の頃と、就職後帰省した際に見せてもらったことがありますが、手入れをせずに新聞紙でくるんだまま仏壇の脇にしまってあるだけでしたからボロボロにさび付き、長刀は鞘から抜けない状態でした。

 
この刀剣のいわれについてももちろん興味がありました。法事の際に来宅した明治生まれの父の兄の話では、私の家の祖先は戊辰戦争の前までは武士だったらしいとのこと。その先祖は「間もなく武士の時代は終わる」と判断し、武士の資格を証明する「株」を、ぜひにと所望する農家に売って今の田畑を手に入れたのだそうです。つまり侍から百姓に転身したというのです。その頃はまだ武士になりたいという人も多かったのだそうです。それからしばらくして鳥羽伏見の戦いが勃発。祖先から株を買って侍になった人は遠征に参加して戦死。祖先は難を免れた。祖先は先見の明があった、という話でした。

  父の兄の話はいかにもよくできた話に聞こえるので、物語として面白く聞きましたが、我が家の家系図は大正の頃に菩提寺の火災で焼失しているということなので、真相はなぞのままです。そんな訳で私自身の氏素性も明確ではありません。
ところで、戊辰戦争の終結は明治3年(1868)。高校生の頃はそれからまだわずか89年しか経っていないのです。とても昔のこととは思えませんでした。

  そんなこんなでいつの間にやら長岡人の気質が染み込んできたらしく、自分も質実剛健の長岡藩の気風を受け継いでいるのではないかと思うようになりました。それに昭和16年生まれの特性と思われる、何でもありがたがるお人よしの要素が加わると、かなりはっきりした性癖が見えてきます。
 つまり、普段はもの分りが良く、納得のいくことならとことん打ち込む。結果が分かっていればなお更、強い方よりも弱い方の味方。権力や体制にうさんくささを感じ、道理の通らないことは絶対に許容できない。この頑固さと反骨精神。高校生時代はこんな形で自分の人間形成が進んだ気がします。一言で言えば自分にも他人にも真っ正直で融通の利かない人間。それが良かったのか悪かったのか…。
 ご推察の通り、社会に出てからはこの性癖が災いし、自分で「失われた10年間」と位置づけている暗黒時代を経験することになるのですが、それはもう少し先、高卒後の話になります。


P1050465.JPG●長岡市観光パンフレットより

■すべてが桁外れ。もうすぐ花火の「長岡まつり」です!
 
真夏といえば花火。花火といえば長岡の大花火大会。
 8月2日・3日の「長岡まつり」では、正三尺玉、大ナイアガラ、フェニ
  ックス花火など、びっくり仰天のスケールで今年も話題をさらいます。
  詳細は下記長岡市のHPを。
 
http://nagaokamatsuri.com/index2.html
 「長岡まつり」から「2007年のようすはこちら」「これぞ長岡花火」
 と辿ると、呼び物の超大型花火の動画(4種)が見られますよ。
 ぜひご覧ください。


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守護神は、島倉千代子……かな? [あんなこと、こんなこと]

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高校時代 1956~1958(S31-33)-②
守護神は、島倉千代子……かな? 

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●国鉄長岡駅前 1958年の卒業記念アルバムより 噴水のあたりが長岡城本丸跡

 
昭和31年から33年にわたる高校生時代。それは前年芥川賞を受賞した「太陽の季節」の映画化で颯爽と銀幕に躍り出た石原裕次郎がイメージリーダーとなった「太陽族」の登場と、「ハートブレーク・ホテル」の大ヒットに始まるエルヴィス・プレスリーのロックン・ロールによって強烈に記憶されています。戦争終結から10年が経過し、戦後という認識は薄れ、みんなの気持ちに活力がみなぎり始めていました。
 
私は学生服の裾を極端に細くすぼめたマンボズボン(今ならパンツですが、当時パンツは下着の意味でした)のヤクザな格好と、それをはやらせた裕次郎はあまり好きになれなかったのですが、陽気なマンボのリズムは好きでした。(映画「嵐を呼ぶ男(1957)」は大好きです)裕次郎と比べるとプレスリーだって決して褒められた格好で歌っていた訳ではないのですが、「ハウンド・ドッグ」「監獄ロック」と矢継ぎ早やにヒットを飛ばす彼の歌声には魅せられました。

●1963 長岡駅前、大手通りの情景 8月帰省の際の8ミリ映画より(無音)

島倉千代子-2.JPG●1955 デビュー当時の島倉千代子(文化出版局)

歌謡ヒット・パレード 3 からたち日記

歌謡ヒット・パレード 3 からたち日記

  • アーティスト:
    出版社/メーカー: コロムビアミュージックエンタテインメント
  • 発売日: 2005/05/18
  • メディア: CD
 
このころ歌謡曲では、「哀愁列車」「愛ちゃんはお嫁に」「哀愁の街に霧が降る」「好きだった」「有楽町で逢いましょう」「星は何でも知っている」「おーい、中村君」などがヒットしていましたが、私にとってうれしかったのは、前年、中学3年の時(1955)、「この世の花」で爆発的なデビューを飾った島倉千代子の活躍でした。実は彼女の姓が私と同じなのです。それだけのことでしたが高校入学と同時に早速クラスメートたちが付けた私のニックネームが「お千代」「千代坊」「千代之介」。<千代とは女のように聞こえるが、東映の看板スター東千代介はすてきな若衆だ。そう思えば早く名前を覚えてもらえるメリットの方が大きくて、とんでもないあだ名を付けられるよりはよっぽどありがたい>。こちらもそう呼ばれて悪い気はせず、大ヒットを飛ばし続ける彼女に感謝し、密かに応援もしていたのでした。こうして私が高校在学中に、島倉千代子は「東京の人よさようなら(1956)」「東京だよ、おっかさん(1957)」「逢いたいなァあの人に(1957)」「からたち日記(1958)」と連戦連勝。私は彼女の歌声に守られるようにして高校生活を満喫することができたのでした。 

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●県立長岡商業高校 上/正門前から校舎の全貌 校舎の向こう側がグラウンド
 下/1957年にできたプールの向こうに水道タンク。その先は信濃川  
     

●学校の徽章は長岡城(兜城・かぶとじょう)のマーク
 
新潟県立長岡商業高校、略して長商(ちょうしょう)は、現在は移転して別の場所にありますが、当時は長岡市の中心街から徒歩で15分ほど離れた信濃川のほとりにありました。学校から信濃川の土手まで100メートルくらい。昼休みに土手でくつろげる絶好の教育環境でした。
 隣りは水道局で、遠方からも望める高い水道タンクが目印です。当時の水道は、先ずタンクに水を揚げ、落下する重力による水圧で市内に水を送り出す仕組みだったようです。
 
学校は明治43年(1910)創設。私が入学した昭和31年(1956)で46年も経っており、かなり古い校舎でした。学生帽の徽章は、「商業」の商の字を、長岡城の別名「兜(かぶと)城」の兜の形にデザインしたものです。校歌や応援歌には「上杉謙信」「蒼龍(長岡藩家老・河井継之介の雅号)」「蒼紫の森(藩主の墓所)」「浮島(長岡城の別名)」など、幕末戊辰の思いを込めた言葉があちこちに織り込まれていました。 

長岡商業位置図.JPG.JPGIMGP4803-2.JPG
●左/長岡商業高校は長岡駅から徒歩15分程度
 右/カードの右上に徽章 「商」の字で兜
城のかぶとをデザイン 

●新学期。まずは応援歌練習の洗礼から
 
入学後すぐに待ち受けているのが、放課後の応援歌練習です。高校ともなると県域はもとより国レベルの試合への出場もある訳で、体育部の選手や部員が汗だくで訓練を行うグランドの傍らで、新入生は全員整列させられ、応援団員から気合を入れられます。
 応援団員はいわゆる硬派の筆頭として、鉢巻、はかま姿にたすき掛け、手には日の丸扇子がとてもさまになっていました。
応援歌は敗戦歌、祝勝歌も入れると14曲もありました。ですから全部が頭に叩き込まれるまで、練習は4月の新学期から夏休み頃まで続いたでしょうか。猛烈な暑さの中で大声を張り上げていた覚えがあります。
 
応援歌の多くは明治、大正期に作られた古色蒼然とした歌詞で、あとで知ったことですが、そのうちのいくつかは旧制高校や早稲田、慶応など有名私学の応援歌などと同じ節回しでした。 

●詰襟の制服、帽子には白線3本、足元は高足駄
 高校生になると学生帽の白線が3本に増えます。学生服は白いセルロイド?のカラー付き詰襟となり、中学生時代には平らな下駄履きだった足元が足駄(あしだ、高下駄)に変わります。これがとても誇らしく感じたものでした。
一時代前までは「弊衣破帽」の言葉通り、学生帽をわざと破り、制服のボタンを外し、腰には地に届くほど長く垂らした手ぬぐい、という格好がはやったようですが、私たちの時代にはその気風はかなり薄れ、「破帽」と腰の手ぬぐいが一部に辛うじて残る程度でした。ただなぜか高足駄だけは普通の高校生の履物として、ほぼ全員に受け継がれていたのでした。

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●足元三態 上は通常の高足駄履き。左下は記念撮影なのでズックを着用
      右下はちょっと気取った場合の平下駄履き 当時からTPOがありました。 


 高足駄は、彫刻で使うようなおよそハガキ大のホウノキの板を横に2枚、下駄にはめ込んだもので、これを履くと10センチ近く身長も伸び、長岡市街特有の雁木(がんぎ)のコンクリート上を闊歩する、とカラカラと見事に響き渡ってそれはいい気分でした。
 
ただ、男子がこの高下駄で通学したのは私たちまでで、翌年あたりから革靴の学生が急速に増え始めました。嫉妬心もあって「何だ、気取ってやがら」と感じていましたが、そうしたところからみても、昔の跡を引きずっていたのは昭和16年生まれまででおしまい。我々は戦争を知る最後の世代だったのだという思いがしきりにします。いろいろな点で昭和17年からの世代は、それまでの私たちとは価値観がはっきり異なるように思います。

●今回の写真はいずれも「昭和33年度 卒業記念アルバム」によります。 1958発行


8月2日、3日の夜は「長岡まつり」の花火です!


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●左/三尺玉とナイヤガラ   右/信濃川と長生橋

●8月2日・3日の夜は「長岡まつり」の花火大会です。
 三尺玉を揚げる場所は、学校から土手伝いにちょうどいい散歩コースでした。
 今年の「長岡まつり」のご案内は下記の長岡市HPをどうぞご覧ください。
 
http://nagaokamatsuri.com/index2.html



共学とは名ばかり。もののふ40に姫3人 [あんなこと、こんなこと]

P1030925b-3.JPG あんなことこんなこと―15
高校時代 1956~1958(S31-33)-③
共学とは名ばかり。もののふ40に姫3人 

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●男女共学。その現状は1クラスに女子が3~4名
 
高等学校はそれまで制度上、男子校/女子高がはっきりと分かれていたのですが、私たちの年からはじめて男女共学が始まりました。期待はとても大きかったのですが、入学してみると商業高校への女子の希望者はまだ極端に少なくて、1クラスに女子はたった3人しかおりませんでした。

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手元に保存してある生徒手帳(写真)をご覧いただくと、面白いことが分かります。これは3年生の時に発行された生徒手帳なので、3年生の欄を見て頂きたいのですが、クラスはAからF組までの6組。男女合わせて1クラスの人数を45名としてあることは分かりますが、なぜかB組だけはかわいそうに男子だけで女子生徒はゼロになっているのです。女子は全部で18名なのだからちょうど3名ずつ分ければよさそうなものなのに、学校側にどんな考えがあったのかは今となっては分かりません。ただ、B組の男子からはブーイングが飛びました。

 
ついでに生徒手帳を上に見て頂きますと、2年生、つまり私たちの次の年度の女子生徒は1クラス6~7名に増えています。更に1年生の欄を見ると46人の女子だけのクラスが編成されています。46名の女子生徒を各クラスに配分しないで1クラスに束ねてしまったあたり、いかにもいまだに男女共学に不慣れな学校側の姿勢が見え隠れします。
 けれども、私たちの卒業後にはそんな懸念は吹き飛ぶほど女子生徒が急増し始めるのです。こうして加速度的に男女共学が進展していく訳です。以上、新制高等学校における「男女共学事始め」の一席でした。
 

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●高校には、働きながら学ぶ「定時制」が併設
 当時は、中学を卒業したあと社会で働きながら、夜学で学んで高校卒業の資格を取る「定時制」と呼ぶ仕組みがありました。これは普通高校、工業/農業/商業高校それぞれにありました。授業開始は午後6時頃からだったと思います。終業は午後9時頃です。1日の授業時間が少ない分、定時制は4年制でした。

 「定時制」に対して「全日制」と呼ばれる私たちは、午後3時頃に授業が終了します。そのあと大方の生徒はクラブ活動に移行します。私たち演劇部は通常は5時頃まで練習して帰るのですが、公演が近づくと外が真っ暗になるまで稽古を続けます。大声を張り上げているので夕方になると耐えられないほどの空腹を感じるようになるのですが、その頃に定時制の人たちが登校してきます。彼らは大抵授業が始まる前に購買部でコッペパンと牛乳を買って夕食代わりにしているのですが、時折、中学校時代の同級生に会うことがありました。するとその友人は買ったばかりのコッペパンを二つにして分けてくれました。自分は働いて給料をもらっているのだからというのです。その心意気をうれしく感じ、時々ご馳走になっていました。今でもコッペパンにはその思い出が染み込んでいます。 

●珠算三級、簿記初級が卒業の条件
 
商業高校は実業高校ですから、卒業したらすぐに商業分野の職業に就けるように、経済や商業に関する広い知識と具体的な技術を学びます。その代表的なものが簿記(商業簿記、工業簿記)と珠算(計算実務)でした。当時はもちろんパソコンなどはなく、計算実務はすべてそろばんで処理していた時代です。つまり、毎日の商取引を仕訳し、貸借対照表・損益計算書など最終的に財務諸表というものを作成するのですが、その計算はすべてソロバンで行っていたのです。

 卒業の条件として、3年間の在学中に、日本商工会議所主催の珠算検定で三級、簿記検定で初級以上を取らないと単位がもらえません。両方ともそれ程高いレベルではないので、みんな比較的簡単に合格していました。けれどもその上のランクとなると急に難しくなり、なかなか合格できませんでした。
まず珠算検定の二級ではかなりの桁数の暗算が加わります。暗算は頭の中にソロバンをイメージし、出題者が矢継ぎ早やに読み上げる数字を頭の中で弾いていくのですが、たちまち追いつけなくなってしまいます。また簿記検定中級では決算の勘定科目が細かくなり、全科目の帳尻を合わせるには相当高度な処理の仕方をマスターしていなければなりませんでした。

 
この他簿記では銀行簿記もありましたが、学校での科目としては選択でした。私は将来経理事務に就く気は全く無かったので、というよりも、初めから数字はとにかく苦手でしたので、卒業の条件を満たす最低レベルの資格を取っただけでやめにしました。 

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●校舎左側は新館 2階が「商業実践」専用教室

●楽しかった「商業実践」は、ままごとの本格派
 商業学校特有の教科で楽しかったのは、3年生で学ぶ「商業実践」でした。これは今の言葉で言えば商取引のシミュレーション。「商業一般」に始まり「経済」「経営」「商品」「商業法規」「文書実務」「計算実務(珠算)」「商業簿記」に至る3年間で学ぶ教科のすべての要素を織り込んだ応用授業で、言い換えれば1年がかりの壮大なスケールのままごとです。

 校舎の2階はずれの新館にある二つの教室が「商業実践」専用の教室になっていました。片方は「長岡」。もう片方は「東京」という想定です。生徒は例えば「○○商事株式会社」というようにそれぞれ自分の苗字を冠した企業名を名乗り、取り扱う商品を決め、長岡と東京に分かれて商取引を行うのです。
この二つの教室の中間は細長いガラス張りの部屋になっていて、東京と長岡の両方を展望することが出来ます。そこには「銀行」「証券会社」「運輸会社」「郵便局」など、長岡と東京の取引の仲立ちをする機関・組織が入ります。この役割を担うのは、銀行簿記など選択で授業を受けている生徒です。

 
まず全員に等分に、おもちゃの紙幣と自社の株券が配られます。この紙幣で実際に商取引を行ったり、投資をしたり、株の売買を行ったりして事業を進め、1年後の決算でどれだけ利潤を得たかが成績として評価されるのです。

 
授業時間は連続3時間。すべては実際の商取引通り。「注文書」「注文請書(うけしょ)」なども商業実務の授業で教わった要領で作成し、郵便局を通してやり取りします。授業時間中はどのように行動しようが自由なので、この3時間は自由時間のような気安さがありましたが、年度末までには業績を上げなければならないので、気は許せません。壁には毎日、本物の新聞の経済欄と株式市況のページが張り出され、社会の動きを読みながら事業を展開して行きます。中には通常の取引よりも株に興味を示してそれで業績を上げる者、他の企業に投資して儲けるものなど、すでに社会人になってからの世渡り上手を彷彿させる者もおりました。


■すべてが桁外れ。もうすぐ花火の「長岡まつり」です!
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 真夏といえば花火。花火といえば長岡の大花火大会。
 8月2日・3日の「長岡まつり」では、正三尺玉、大ナイアガラ、フェニ
  ックス花火など、びっくり仰天のスケールで今年も話題をさらいます。
  詳細は下記長岡市のHPを。
 
http://nagaokamatsuri.com/index2.html
 「長岡まつり」から「2007年のようすはこちら」「これぞ長岡花火」
 と辿ると、呼び物の超大型花火の動画(4種)が見られますよ。
 ぜひご覧ください。



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