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ペトリ、ヤシカ、オリンパスペン、アサペン [「動画」の自分史]

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ペトリ、ヤシカ、オリンパスペン、アサペン

アナログフォト&ムービーのカメラ遍歴

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●「ペトリ」は大衆機でしたが、数々のアイディアを搭載した高性能機でした。

社会人1年目、8ミリ映画はおあずけ 1959(S34)
 
私が社会人となったのは1959(S34)年3月。最大の目標は、この頃から話題に上り始めた8ミリ映画の撮影機(カメラ)を買うことでした。けれども3万円前後もする8ミリカメラは、当時その4分の1ほどの薄給の身ではすぐには叶いません。とりあえず少しずつでもと貯金をしている内に2年目になりました。多少給料も上がったのですが、休日に課のみんなで親睦旅行をするような機会も出てきたので、8ミリカメラはしばらく棚上げにして、とりあえず普通のスチルカメラを買う必要に迫られました。

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●1953年、キヤノンはすでに距離計連動式、フォーカルプレーンシャッターカメラ 「キヤノンⅣ-Sb」を発売していました。(写真は講談社)

 当時、スチルカメラといえばその筆頭がニコン、キヤノン。ミノルタ、アサヒペンタックスが僅差でそれに続いていました。この頃はまだ一眼レフと呼ばれるタイプは誕生しておらず、どれもボディの上部がファインダーになっていて、それを覗いて構図を決めます。また、レンズもズームレンズではなく、標準レンズが1本付いているだけ。ただ、これらの高級機は超望遠から超広角まで完備されたレンズ群を交換して使えるマウント方式のため、すべてがプロ仕様です。価格もそうですが、技術的にも素人にはとても手が出せません。

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●望遠のアタッチメントレンズを取り付けた「ペトリ2.8」。
 そのためのファインダーが取り付けられています。


 
そういう初心者向けにはそれなりの中級機もちゃんと売られていて、その中で人気のあったカメラが栗林写真工業製の「ペトリ2.8」でした。高級機の方がいいに決まっていても、買うことに無理があればそれが現実。良くも悪くも「分相応に生きよう」と考えていた私には、プロになるわけじゃないんだから、と初めからニコン、キヤノンは選択肢の外でした。かといってミノルタ、アサヒペンタックスにも手が届きません。「ペトリ2.8」はデザインも性能も、そして価格も私の購入条件にピッタリでした。 

●社会人2年目、「ペトリ2.8」購入 1960(S35)年
 
「ペトリ2.8」の2.8とはレンズの明るさ(F値)を表しています。当時のカメラレンズの多くは3.5程度、それと比べてかなり明るいレンズを搭載していたことが大きなセールスポイントになっていました。シャッタースピードはB(バルブ)から500分の1秒まで。500分の1秒というのは当時としてはかなりの高速です。
 またピント合わせは連動距離計による二重像合致式で、ファインダーを覗きながらヘリコイド(鏡胴)を回して、ファインダー内の二重像がピッタリ合わさるところでシャッターを押せば、パララックス(視差)のない写真が撮れたのも画期的でした。このカメラはレンズ交換は出来ませんでしたが、望遠65ミリ、広角38ミリのアタッチメントレンズが用意されていました。この「ペトリ2.8」が私に写真の楽しさを教えてくれたカメラです。
 

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●左上/「ペトリ2.8」の本体に取り付けられたフラッシュ・ガン

●社会人3年目の暮から8ミリ映画開始 1961(S36)年
 こうしてしばらくは「ペトリ2.8」でがまんした後、社会人3年目、12月のボーナスで、やっと念願の8ミリカメラを買いました。普通、8ミリ映画にしても現在のビデオにしても、動画を撮ろうとする動機の多くは子供の成長記録が圧倒的です。けれども私の場合は違っていました。始めから「映画」を作りたいと思っていましたから、結婚も子供も関係なし。毎日毎日暇さえあれば、集めておいた各社の8ミリカメラカタログとにらめっこ。決めたカメラが「ヤシカU-matic s」でした。
 それからというもの、当然休日にはこのカメラを持って出かけることが恒例となりました。「ヤシカUs」は、その後の8ミリ映画の技術革新で新しい規格に変わるまでの11年間、動く写真で我が家の家庭記録と私の遊びごころを満たしてくれたのでした。
「ヤシカUs」の詳細については、後ほど「小型映画ミニミニ博物館」のカテゴリーでご覧頂くことになります。 

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●初めて買った念願の8ミリ映画カメラ「ヤシカ8 U-matic S」
  3倍ズーム付きの優れものです。


●社会人7年目。新婚旅行に「オリンパス・ペン」携行
 入社6年目の1965(S40)年3月に結婚。新婚旅行は前年10月のオリンピックに合わせて開通したばかりの東海道新幹線で京都、奈良、紀伊白浜へ。この時はメインに8ミリカメラの「ヤシカ8 U-matic s」を同伴。スチル写真も撮りたいけれど「ペトリ2.8」では重くて荷物になるということで、当時、同じ35ミリフィルムで倍の枚数を撮影できるという小型軽量のハーフサイズカメラ「オリンパス・ペン F」を持って行くことにしました。
 「オリンパス・ペン」の誕生は1955(S30)年ですが、人気機種として毎年改良を重ね、「ペンF」は当時35ミリ高級機が採用し始めた一眼レフ方式をいち早く採用。新開発のチタン幕のロータリーシャッターを搭載し、レンズ交換も可能。スタイルも一新した革新的な新型機種でした。このカメラにより、高価なカラーフィルムが節約できたことは言うまでもありません。
 
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●「オリンパスペン」の歴史 上左/1955年 上右/1961年
 下左/1963年「オリンパス
ペンF」 
 右の写真の上は通常の35ミリネガ 下が「オリンパスペン」の1/2サイズのネガ
 (オリンパスペンの写真は同社ホームページより拝借)

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●カラーフィルムは近くに取扱店が無いため、そのつど現像所へ送り、現像上がりを待ちました。

社会人8年目 「アサヒペンタックス」購入 1967(S42)
 
長男が1歳になったのを契機に、1967(S42)年に35ミリカメラを普通の一眼レフにすることにしました。例によってニコン、キャノンは柄ではない、という選び方ですから、あとはミノルタかアサヒペンタックスです。そしてこの当時のアマチュアに人気が高かったのが1964(S39)の発売以来売れ続けている旭光学工業の「アサヒペンタックスSP」(通称・アサペン)でした。

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●1954、業界初の一眼レフカメラ「アサヒフレックスⅡB」(写真は講談社)
●その流れを汲んで一眼レフ大衆機として親しまれた「アサヒペンタックスSP」

 旭光学では業界に先駆けて早くも1954(S29)年に国内初のクイックリターンミラーを採用した一眼レフカメラ「アサヒフレックスⅡB」を売り出した実績を持っていました。その10年以上の経験を反映させた機種ですから安心できる、ということで、迷わず決めたという訳です。

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●高価だったカラーフィルムも、ようやく日常的に使えるようになりました。
 

 なお、「ペトリ」と「オリンパス・ペン」は、3年前に相次いだ2度の引越しで、泣く泣く捨てました。「アサヒペンタックスSP」には深い思い出もあり、数年ごとにオーバーホールを続け、時折気まぐれに撮影することもあります。「ペンタックスSP」8ミリカメラ「ヤシカ U-matic s」については日を改めてお話したいと思います。


川崎名物・駅前屋台村 [「動画」の自分史]

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川崎名物・駅前屋台村

1961年・20歳、8ミリ映画事始め―1

「アート・プロダクション」発足

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●国鉄・川崎駅と駅前広場 手前はトロリーバス 並行する線路は京浜急行 1960

●昭和36年。夜の川崎駅前は屋台村だった

 神奈川県川崎市。今でこそ人口139万人を超える(2008.10.1現在)指折りの大都会ですが、50年ほど前の人口は確か70数万人。重工業や化学工業のプラントが林立する京浜工業地帯を形成する労働者の街として知られていました。日本の振興の要である鉄や石炭に代表される基幹産業が集積していたところですから、辺りを見回すとブルーカラー族ばかり。国鉄・川崎駅を一歩出たら、もう油臭さが漂っているような街でした。(ブルーカラーはホワイトカラーの対語で、ホワイトカラーは事務職。ブルーカラーは作業服の色から労働者層を指しました)

 私が川崎に就職した1959(S34)年は、川崎駅が新しく生まれ変わった翌年でした。西口には改札を出てすぐに東芝(東京芝浦電気)の工場が陣取り、夜は全く人気がなく、文字通りの真っ暗闇。東芝に用のない人には無関係の地域でした。

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●左/川崎駅前ロータリー       ●駅前を横切る京浜急行(写真の右)

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●駅前商店街 上/銀柳街 下/仲見世通り 1960

東口は駅前ロータリーを経て繁華な市街地が広がり、デパートや商店街、映画街などがありましたが、目の前を横断している京浜急行の踏切が通せんぼをしていました。駅の両サイドからは2本の太い通りが東に向かって延び、第一京浜国道を横切って、京浜工業地帯と呼ばれるエリアにつながりますが、その間に川崎球場、競輪場、競馬場があります。

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●駅の南「さいか屋デパート」(左)と新川通り(右) 1960

 早朝の第一国道。それは一種のハローワーク。次々に大型トラックが止まると、その日の仕事を求めて集まった労務者の群れから何人かが引き抜かれて、荷台に乗せられてどこかへ走り去って行きます。全員に仕事があてがわれることはなく、いつも何人かが取り残されていました。日雇い労務者は日当が240円だったところから「ニコヨン」と呼ばれていましたが、このころはもう少し高かったと思います。

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●左/川崎駅の北、多摩川 鉄橋は国鉄・東海道線

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●昭文社「川崎市街図」1967.7刊行

第一京浜国道に接して多摩川寄りには「堀の内」、反対の横浜寄りには「南町」という、知る人ぞ知る花街がありました。1956(S31)年に売春防止法が施行されましたが、夜になると二つの街はまだその余波を残している雰囲気でした。また川崎の駅前は、朝は三和銀行前に陣取ったバナナの叩き売りで始まり、夜はずらりと飲み屋が並ぶ屋台村に様変わり。仕事帰りに一杯引っ掛ける作業員たちや、飲んだくれて千鳥足の労務者などで、いつも遅くまで賑わっていました。

●成人のお祝い。自分に8ミリカメラをプレゼント

 さて、カテゴリー「動画の自分史」の14回で、高校3年生の時に、借りた8ミリカメラで上野や有楽町界隈を撮影した話を書きましたが、私が自分の8ミリカメラを始めて手にしたのは、1961(S36)年12月。自分自身の成人のお祝いに、高卒後社会人3年目の冬のボーナスに貯金を加えてようやく購入したのが始まりでした。今で言う「がんばった自分へのプレゼント」のはしりです。

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●ダブルエイト 8ミリシネカメラ 「ヤシカ8U-s」

機種は「ヤシカ8-Us」。一眼レフ、3倍ズーム、自動露出付きの新鋭機。それまでに散々各社のカタログを比較して、絞りは0まで絞りきれるか、フィルムの巻き戻しができるか、1駒撮りができるか、というふるいに掛けて最後に残った機種で、新発売の時点から決めていたものでした。撮影したものをそのまま映写して見るだけで十分というなら、そんな小難しいメカは全く必要ないのですが、本物の映画の真似事をやってみたいということになると機種は絞られます。その中で高性能・高品質・低価格という観点から選んだものでした。

8ミリ映画は今日のビデオのように、撮ってきたカメラをそのままテレビにつなげば見られるというものではありません。撮影したフィルムを現像し、そのフィルムを映写機に掛けて上映しなくては動きを楽しむことはできません。けれども、一度にカメラと映写機を買うのは無理なので、とりあえずカメラを買い、フィルムを何本か写したあとに映写機を、と考えました。カメラは付属品とも27,800円。当時の給料は手取り9,792円。約2ヵ月半分の生活費をはたいたことになります。

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●1961.4月の小遣い帳 仕事で寝る間もない時間を割いての走り書き
 給料は手取額。それにしてもネクタイ90円とは…。格好なんか気にしない? 

1962(S37)年、アート・プロダクション発足

8ミリカメラを買った動機は、口幅ったいことながら「映画を撮る」ことでした。学生なら友だちを集めてドラマを作るということも考えられますが、社会人では難しい話です。私は始めから、自分が働いている川崎という地域をドキュメンタリーとしてまとめてみようと考えていました。またこの先、アマチュアとして結婚や育児記録などのプライベートな作品づくりは当然からんでくるとしても、それだけではいきたくないという気持ちが強く働いていました。

私はもう、いっぱしの映画会社を立ち上げたプロデューサーの気分でした。とりあえずは社名とシンボルマーク(ロゴタイプ)を決めなければ。社名はこれまでの苗字を冠した「○○映画社」ではいかにもダサい。マークももっと斬新なものに。それに、ライティングで影が出るように立体的なものが欲しい。

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●「アート・プロダクション」の初期のロゴタイプ(のちに変更)

こうしていろいろ検討の末、社名はやはり横文字がいいだろうと思い、アルファベットの最初のaを使うことを考えたらスラスラと「art」という言葉が浮かび、「アート・プロダクション」と決定。ロゴはなぜか小文字の「a」をデザインしたもので、1cmの厚さのラワン板をイトノコで切り抜いて白いポスターカラーを塗ったもの。「Art Production」の文字は厚紙の切り抜き。そして背景にはカーテン地を敷くことにしました。

こうして、1962年1月1日をもって、バーチャルカンパニー「アート・プロダクション」が発足することになりました。
(結局、「アート」にふさわしい作品など作れなかったのですが…爆)                            つづく

2分34秒 BGM付き
●記録映画「川崎」より抜粋 1962年6月より撮影開始 
 川崎駅前、駅前商店街、第一京浜国道、夜の駅前 駅前屋台村
  この「川崎」の一部は、NHK「映像の戦後60年」で放送されました。 


 


危険がいっぱい。夜の花街、隠し撮り [「動画」の自分史]

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危険がいっぱい。夜の花街、隠し撮り
8ミリ映画事始め―2
ドキュメンタリー映画「川崎」制作エピソード 

 
さて、8ミリカメラを買って発足したばかりの「アート・プロダクション」。早速取り組んだのが、自分の働いている川崎市の様子をドキュメンタリー映画としてまとめてみようという、たいそうな構想でした。
 
1961(S36)年は、大ヒットした歌謡曲「上を向いて歩こう」の通り日本の経済は上向きで景気も上昇中です。この躍進目覚しい日本を支える基幹産業の集積地・工都川崎の表情を力強いタッチで描く…この構想があったためにカメラを買ったというところもありましたから、ストーリーの大筋は考えてありました。 

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●「アート・プロダクション」の初期のクレジットタイトル

●タイトルはずばり、「川崎」
 
手元に残されている当時の制作メモを覗いてみると、1962(S37)年の3~5月で構想を固め、全体の流れを構成。クランクインは6月始めで12月までかけて撮影。編集は翌年…という、ほぼ1年がかりのスケジュールが組まれています。

 
川崎市は東京都と横浜市に挟まれた東西に長い地域で、東は多摩川の河口をはさんで羽田空港に隣接する工業地帯から、西は多摩川沿いに遡って東京都南多摩郡の手前まで。この長大な川崎市の特徴を、駅前から郊外までひと通り押さえることにし、前半は市街地、後半は郊外というラフな構成とロケ地について、当時のメモには下記のように記されています。 

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■ドキュメンタリー映画「川崎」(20分)構成案
.プロローグ      
      …川崎駅の朝、改札ラッシュ
.躍進的な工都川崎の概要
      …川崎市の中心街の紹介を背景に 
.産業の基軸となる交通網
      …第一京浜国道、産業道路、新鶴見操車場
   ますます増加する車 ……自動車教習所、第二京浜国道
.活気溢れる京浜工業地帯 
      …基幹産業プラントの数々、重機類、働く人たち
.労働者の生活(娯楽、安らぎ、福祉)
   …川崎球場、競輪場、競馬場、宝くじ
   
…夜の川崎駅前繁華街、屋台村、特飲風俗街
   …
川崎大師、丸子多摩川、関東労災病院
.生活の交通網  
   …国鉄南武線、東急東横線/田園都市線、小田急線
.郊外の行楽地  
   …ロマンスカーで向ヶ丘遊園、稲田堤の桜と秋の梨狩り
.新しい生活が始まる 
   …新興住宅地である小田急線・百合丘団地を紹介   
.エピローグ   
   …京浜工業地帯を拡大する東京湾埋め立て工事
 

 
以上が全体の流れですが、これだけのシーンを入れ込んで、モノクロで20分程度の作品にまとめる積りでした。フィルム代は1本約3分で500~600円でしたから、7本で4000円。NGをその3倍として少なく見積もっても12,000円。手取り給料のほぼ1.5倍になってしまいます。これは痛い。でも考えていても始まらない。見切り発車で休日を待ちかねては市街地や工場地帯、埋立地や郊外へと8ミリカメラと三脚を担いで出かけていきました。 

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●「川崎市街図」より 昭文社 1967.7

●苦労して撮っても、NGはNG(No Good)
 川崎には第一京浜国道に面した「堀の内」「南町」という二つの風俗街がありました。川崎の持つ俗っぽい部分として、売春防止法施行後の花街の様子をぜひ撮りたいと思いました。
 
6月。ロケハンのつもりで出向くと、「堀の内」の通りは真っ暗です。ライトを使うことなど考えられませんから撮影は不可能でした。「南町」は会社の寮から歩いて10分足らず。高感度フィルム(ASA200)を使えば何か写るかもしれない、という感じでした。

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●左/夜の川崎駅前 1960             右/8ミリムービー
カメラ「ヤシカ8U-s」

 
見世の前には女たちが立ち、嬌声を上げて呼びかけて来ます。8ミリはサイレント(無声)ですから声は収録できませんが、そんな雰囲気を撮りたかったのです。それから5日間連続、よれよれの作業服で、紙の手提げ袋に8ミリカメラを忍ばせ、毎晩「南町」に出向きました。  
 狭い通りの両側にまばらに見世が並び、客を引く女たちに混じってステテコに晒を巻いた見るからにヤクザと思しきおあにいさんもいっしょ。キャバレーのサンドイッチマンが近づいて、「何かの取材ですか。物騒ですから気をつけてくださいよ」と忠告されたことで、初めて危険なことをしようとしていると自覚。「南町」の入口まで戻ってタクシーを拾うことにしました。
 「運転手さん、南町を一回りしてくれませんか」「観光新聞かなんかの方ですか?」観光新聞とはもっぱらエロを売り物にしていたタブロイド紙のこと。こちらはどこかプライドを傷つけられながら「うん、まあね」と乗り込む。「もっと遅く走れない?」「ノロノロは危ないですよ」などと言いながらも運転手さんは、適度に緩急をつけて走ってくれました。

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●ドキュメンタリー「川崎」を撮影した8ミリムービーカメラ「ヤシカ8U-s」

 さて、苦労して撮ったフィルムは…。現像の結果は残念ながらやはり暗すぎてバツでした。今のビデオならバッチリ写せたはずなのですが…。
 

●処女作「川崎」は、意気込みだけで結局挫折
 
この作品は、実は1/3ほど撮影したところで中止せざるを得ませんでした。初めての意気込みで張り切っていたのですが、仕事が忙しくなりすぎてその時間が取れなくなってしまったからでした。


ドキュメンタリー「川崎」1962 より 1分34秒
●京浜工業地帯/プラント建設を待つ浮島町の広大な空き地 
 この、空を覆う煤煙や排気ガスは、撮影しながらとても気になっていました
●百合ヶ丘団地/一般生活者垂涎の的、白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機の「三種の神
 器」を揃えた最先端の文化生活が営まれていました
これらのシーンはNHK「映像の戦後60年」で放送されました。

 
今では、川崎駅前を走る京浜急行はとうの昔に高架になり、東口の商店街、繁華街はみごとに整い、映画街はイタリアンムードの「ラ・チッタデッラ」に変身。さらに、真っ暗だった西口にはピカピカに光り輝く「ラゾーナ川崎プラザ」が誕生したばかりです。
 
 
およそ半世紀前、工場と労働者の街だった地方都市・川崎は、今では時代の最先端を行くハイテク企業とファッショナブルな大都会に変貌しました。また、広大な緑地や土煙に霞んでいた郊外は新しいおしゃれタウンとして開発され、新興セレブに向けたマンションや高級住宅街があちこちに誕生しています。

 長編を想定したドキュメンタリー処女作「川崎」は未完に終わりました。けれども
その心意気は失いたくありません。私は今でも、現在住んでいる街の変貌をビデオで撮り続けています。


一度はやってみたいアニメーション [「動画」の自分史]

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一度はやってみたいアニメーション
8ミリ映画事始め―3

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●切り絵アニメ/平面の絵ではなく、多少立体感を出してみました。

  
  あなたが初めてビデオカメラを買ったら、先ず何をしますか? 多分、いろいろな情景を試し撮りするのではないでしょうか。
1962(S37)年の正月から始めたダブル8方式の「ヤシカ8Us」による私の8ミリ映画も同様に、まずテスト撮影からでした。

 
真っ先に「フェーディング」と呼ばれるもの。画面が次第に明るくなって始まり(フェードイン)、次第に暗くなって終わる(フェードアウト)という、映画のもっとも基本的な手法です。
 
次に「1コマ撮影(1コマ撮り、コマ撮り)」。これはメモモーションとも呼ばれるもので、時間を短縮して見せられるため、科学や自然現象などのドキュメンタリーなどに良く使われますが、ちょうど早朝、霜が降りたので、田んぼの霜が解けていく様子を撮りました。
 
この他テスト撮影には、やってみたくて手ぐすね引いていたアニメが含まれていました。なにしろ特殊な効果や動画を遊んでみたいばかりに、「普通の8ミリづくりではマニアックな機能は不要」と他社が切り捨てた高度な特撮機構を備えた「ヤシカ8Us」に決めたのですから。

P1010511-2.JPG●特殊撮影何でもOKの「ヤシカ8Us」

 
また、そのうち結婚して、子供たちが小学校にでも上がるようになったら、撮影速度を変える「スローモーション(高速度撮影)」や「ハイスピード(微速度撮影)」を使ったお遊びや、「フィルム巻き戻し機構」を使った「ディゾルヴ」「オーヴァーラップ」といった多重露光を応用したトリックなどにも挑戦して、子供たちを主役にした忍術映画や一人二役映画を作ってあげるんだ、などと考えていたのでした。 

 
今、ビデオをお使いの方はここまで読まれてお気づきでしょうか。いろいろな画面づくりのほとんどが、撮影技法としてカメラ側に依存しているということなのです。ビデオなら編集段階でパソコン上で処理する作業が、8ミリ映画の場合はほとんど撮影段階に委ねられているということ。これが8ミリ映画(アナログ動画)とビデオ(デジタル動画)のいちばん大きな違いなのです。
 
ここから先の話は、現在ビデオをパソコンで編集(ノンリニア編集)されている方には、8ミリ映画というアナログメディアの編集がいかに勘に頼らなければならないものであったか、また時間と手間のかかるものだったのか、ということに驚かれるでしょう。 

●フェードイン(溶明)、フェードアウト(溶暗)
 フェードイン(溶明)は、まず絞り切り機構をクローズして光を通さない状態にしたあと、撮影開始と同時に少しずつ絞りリングを回して適正露出になったところで止めて撮影を続けます。これで溶明となります。溶暗はこの逆の操作です。
 溶明、溶暗にかける時間の長さは、パソコン編集のようにきっかり1秒などというものではなく、勘で行います。

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●中央の赤い数字のダイヤルが絞り。0が絞り切り。
 撮影しながら適正露出の絞り数値まで回転させるとフェードインになる。

 
ちなみに「白フェード」。ひとつのシーンが真っ白から始まって継続し、最後は次第に真っ白になって終わるという表現ですが、これはフィルムではほとんど見受けられず、ビデオの時代から始まったようです。
 現在、フェードを掛ける場合はパソコン上の編集ソフトで、1秒でも2秒でも、意図通りにきっかり指定できますね。
 

1コマ撮り微速度撮影のテスト(動画参照) 
 8ミリカメラを買ったのは暮れだったので、早速正月の風景を撮影しました。ここでは1コマ撮りによる時間の短縮効果を試してみました。最後のカット、田んぼに降りた霜が太陽が昇るに連れて解けていく様子をご覧ください。
 
これはカメラの「1コマ撮り」用の接点にレリーズをつないで1コマずつ指で押して撮影したものです。寒風の中、カメラ脇に立ちっぱなしの手作業です。このダブル8の場合は1秒16コマの速度ですから、5秒間見せたい場合は80コマを必要とします。1分ごとに1コマずつ撮影することにした場合、5秒間の映像を撮影するのに80分も吹きさらしの中に立っていることになります。この場合はもっと長かったと思います。

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●「ヤシカ8Us」 1コマ撮影は1と書かれたところにレリーズを指して撮影


 このような特殊撮影は、現在のビデオではお茶の子さいさい。撮影はカメラを三脚に据えたら、あとは1分ごとに1コマのインターバル撮影をセットしてお任せ撮影。これでOKですね。
 このように、今ではパソコン上でいとも簡単にやってのけられるテクニックを、8ミリ映画ではどんなに苦心して撮っていたことかと、技術の進展には驚くばかりです。
 


●8ミリ映画「お正月」冒頭24秒 最後のカットをお見逃しなく。

1コマ撮りアニメのテスト(動画参照)
 
アニメのテストでは、プラモデルの戦車を使ったりしていろいろ試してみましたが、ここでは下記の3種を動画でご覧頂きます。

戦車2.jpg戦車.jpg
●プラモは真っ先に動かしてみたくなりますね。
 右は砲弾を発射したところ。この頃からヘビースモーカーに向かってまっしぐら。


①「おもちゃのまち」 
積み木とプラスチックの電車を使ったもの。
 
もっとも初歩的なアニメで、単純に積み木を増やしながら建物をかたちづくり、建物が完成後、その前を2両連結の電車が通り過ぎる、というもの。

電車.jpg

②「おでかけスカンク」
瀬戸物の置物を使ったもの。
2匹の子供スカンクのあとから「急がないで、気をつけて」とお母さん。そんなことにはお構いなく、やんちゃ小僧は逆立ちして例の一発を、というストーリー。
置物自体は動かないので、子供と母親の歩き方や逆立ちにひと工夫。関節が動かせる人形をアニメートとしたものはマペットアニメと呼ばれます。

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③「CMもどき・ポポンS」
「おいしいご馳走を食べたあとには,ポポンSをお忘れなく」という、コマーシャルの真似ごとです。
食堂のテーブルに冷蔵庫の中のあれこれを並べて動かしたもの。
①②と同じ1コマ撮りですが、例えば「味の素」に回転を加えるなど、動きをかなり細かくしています。こんなものでも一晩徹夜でした。

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●上記アニメ3種 83秒

 
アニメーションには、一般的な紙に書くもの、切り絵、影絵、粘土や針金などを使った立体的なもの、最近ではパソコンソフトで動かすもの、CGを使うものなど、アイディア次第で数え切れないほどの表現が可能です。たとえパソコンを使っても、その動きはアニメならではの魅力があります。 型にはまらないものがアニメーションの魅力だと言っても過言ではないでしょう。

 ということで、「一度はやってみたいアニメーション」。でも、その苦労を考えると「何度もやりたくないアニメーション」、なのでした。

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東映「白蛇伝」に、日本アニメの未来を見た [「動画」の自分史]

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東映「白蛇伝」に、日本アニメの未来を見た


白蛇伝.JPG●東映動画「白蛇伝」1958

●「アニメーションといえばディズニー」の時代だった

 私にとってアニメーションの魅力とは、絵に書いたものが動くという驚きに他なりません。私は子供の頃に芽生えたこの単純な疑問をずっと抱き続けて成長しました。それは小学生から中学生にかけて学校ぐるみで観たディズニーの長編アニメーション「ダンボ」と「シンデレラ」の強いインパクトによるものです。

それ以来、「アニメーションといえばディズニー」というフレーズは一種の呪文として、またある種の刷り込み現象のように私の中に沈殿していったのですが、その後、映画館に足を運ぶようになってから、本編の前に上映される「ミッキー・マウス」「ドナルド・ダック」「グーフィ」「プルート」などが主役のウォルト・ディズニー短編アニメーションにも接するようになって、さらに親しく感じられるようになりました。その一方で、日本のアニメーションはどうなんだろうという思いが密かにありました。
(戦前・戦中にもディズニーに勝るとも劣らない精緻なアニメーションが作られていたことを知るのは、ずっと後の話になります)

1958(S33)年、日本製長編アニメ「白蛇伝」誕生

 私がアニメーションといえばディズニーしか知らなかった高校3年生のとき、日本で初めての長編アニメーションが公開されました。それが東映動画H10.10月より「東映アニメーション」)によって製作された「白蛇伝」でした。東映という映画会社はその頃「時代劇の東映」を標榜していましたから、それとアニメーションはとっさには結びつきにくかったのですが、新聞で紹介された力のこもった記事を読んで、これはある意味で日本の動画がディズニーに突きつけた挑戦状だと感じました。

「白蛇伝」は中国の故事で、私も後日テレビで四川省の伝統芸能である川劇の舞台を見たことがありますが、日本では1956年に豊田四郎監督による「白夫人の妖恋」という劇映画も作られていて、なじみのある物語でした。私は気になっていた日本製長編アニメーションがどのようなものかという関心もあって、弟を連れて長岡の映画館に観に行きました。

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●すべての登場人物の声を森繁久弥と宮城まり子が演じ分けた、ユニークな演出

●ディズニーに追いつけ。追い越せ!

 「白蛇伝」は悲恋物語です。昔、青年に助けられた白蛇の精が、青年を慕って美少女の姿で現れるのですが、その正体を知る和尚に妨げられ、ついに青年は命を落としてしまいます。その命を助けるためには龍王の許しがなけばなりません。白蛇の精は命を賭して龍王の試練に立ち向かいます。

映画は1秒につき24枚のセル画を1コマずつ手書きした総天然色のフル・アニメーションです。青年が少女を探し回る遠近感のある難しいシーンでは、キャラクターの動きが少しぎごちないようなところがありました。けれども、脇を固める侍女の可愛らしさ、悪の手下たちの生き生きとした動き、湖の大波などの自然描写、そして天空をとどろかせて展開する龍王との妖術合戦など、スペクタクル描写はみごとと言うほかありませんでした。

「白蛇伝」には、その頃、映画雑誌か何かで聞きかじっていたディズニーのアニメ手法がかなりの部分導入されているという気がしました。例えばこの映画では、当時新人女優として登場したての佐久間良子がヒロインの動きをライブで演じ、それがアニメートに生かされたと聞きます。また、画面の奥行きを出すために背景と動画を何層にも重ねる撮影台のシステム(マルチプレーンキャメラクレーン)も、ディズニーの手法が反映されていたと思います。これらのテクニックはそのまま、日本のアニメ製作現場におけるテストケースとして大成功を収めたのでした。

●熱気あふれる東映動画とディズニーの競合時代

東映動画はその後、「少年猿飛佐助」(1959)、「西遊記」(1960)、「安寿と厨子王丸」(1961)、「シンドバッドの冒険」(1962)、「わんわん忠臣蔵」「わんぱく王子の大蛇退治」(1963)、「ガリバーの宇宙旅行」(1965)、「太陽の王子 ホルスの大冒険(1968)、「長靴をはいた猫」(1969)…と毎年のように公開され、私はそのたびに観に行きました。

その間、ディズニーは「眠れる森の美女(1959)」「101匹わんちゃん(1961)」「王様の剣(1963)」「ジャングル・ブック(1967)」を公開しました。

1960年代、メジャー・アニメーションの世界はまさに東西両巨頭のコンペティションという様相を呈し、ケンを競い合っていました。この期間、東映動画は製作本数においてディズニーをはるかにしのいでいます。それはそのまま東映動画の心意気を示すものでした。

1970(S45)年代に入ると私も30代を迎えたこともあって次第にアニメの観客からは遠ざかってしまいましたが、それまでに観た長編アニメーションの中で1本だけ選ぶとすれば、私は迷わず、ディズニーなら「眠れる森の美女」、東映動画では「太陽の王子 ホルスの大冒険」、この2作品を最高傑作として挙げたいと思います。巧みなストーリーの展開法、生き生きとしたカメラワーク…。この2本は私にとって、その後社会に出てから携わるようになる映像づくりのバイブル的作品なのです。

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●日本アニメの国際化は東映動画から輩出されたアーチストによるところが大きい。

●ディズニーはパートナーに日本のアニメを選んだ

 このようにして新しい時代を迎えた日本のアニメーションは、今世紀に入って「ジャパニメーション」という言葉でもてはやされるほど世界的に高い評価を受けるようになりました。また東映動画で数々の名作を生み出してきた人たちが、新しいステージに立って名作を生み出し続けています。例えば宮崎駿・高畑勲両監督の「スタジオジブリ」では「もののけ姫(1997)」「千と千尋の神隠し(2001)」「ハウルの動く城(2003)」などが海外でも好評を博していることが評価され、いい意味でのライバルだったウォルト・ディズニー社との提携が実現。同社を通じて世界に配給されるという快挙を成し遂げたのでした。

デジタル技術による急速な進化で、アニメの製作環境の変化は著しいものがあります。東西二つの力を結びつけて、アニメーションはこれから私たちにどんなすてきな世界を見せてくれるのでしょうか。

★ポスター、スチルは東映アニメーションHPより使わせて頂きました。

■「白蛇伝」以外に1958(S33)年に観た映画
(16歳~17歳 高校3年生 長岡にて)

1/ 7 「嵐を呼ぶ男」「地球防衛軍」

1/10 「花くれないに」「戦雲アジアの女王」

1/29 「顔役(ボス)」「開拓者の決闘」エメラルド劇場

 2/23 「陽はまた昇る」「怒りの孤島」ニューギンザ劇場

 3/19 「翼よあれがパリの灯だ」「ニューヨークうろちょろ族」

 以下、日記が無いため日付不明

      「愛情の花咲く樹」
      「熱いトタン屋根の猫」
      「大いなる西部」
      「眼下の敵」
      「ゴーストタウンの決闘」
      「死刑台のエレベーター」
      「シンバッド七回目の航海」
      「地下水道」
      「手錠のままの脱獄」
      「深く静かに潜行せよ」


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