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大砂塵にまみれながら観た西部劇 [「動画」の自分史]

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大砂塵にまみれながら観た西部劇

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  中学生の頃(1953~55/S28~30)、歳の離れた兄たちからは「フィルムきちがい」と言われながらも、家では暇さえあれば手書きの紙フィルム作り。学校では映写班に属して、時たま16ミリ映写機を触らせてもらっていた頃のこと。映画館で上映される映画は白黒から総天然色に。画面は四角いスタンダードから幅広のワイドスクリーンへ。音響はモノラルからステレオへと大躍進中だった時代。私の映画との接し方は、芸術作品からB級映画まで玉石混交。まさに清濁併せ呑む鑑賞の仕方をしていました。

 
当時の長岡の映画館は、国鉄・長岡駅前からまっすぐに伸びる大手通りを少し行った交差点を右に曲がってすぐ。そのあたりが映画館街になっていて、「銀映」「長映」など、松竹、大映、東宝などの邦画を上映する映画館と洋画専門の「ニューギンザ」「エメラルド劇場」があり、シバタという興行会社が一社で運営していました。中学・高校生時代はすべてこの映画館街で映画を観ていたわけです。

 
上映の順序は、どの映画館でも、まず次回の予告編が上映されたあと、5分程度のニュース映画が上映されます。邦画館では「朝日ニュース」「読売ニュース」「産経ニュース」がありました。また洋画専門館では「パラマウントニュース」「メトロニュース」などを上映していました。それが終わるといよいよ本編の上映ですが、洋画の場合には、時々本編の前にディズニーの短編漫画が上映されることもありました。このように、ミッキー、ミニー、ドナルド、グーフィ、プルートなどが活躍するディズニーの漫画映画は、ものごころついた頃からとても身近なものとして存在していたのでした。

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●1950年代前半、邦画各社のクレジットタイトル

 
当時は家庭ではラジオ、外では映画が最大の娯楽でした。映画館は常に超満員。この頃は入れ替え制ではないので、映画館に到着したら、途中からでもお構いなくそのまま上映中の場内に入り込み、暗がりを透かして空席を探します。空席が見つかればいい方で、大抵はその映画が終わるまで立ち見です。この頃は「二本立て」といって、呼び物の映画の他にもう1本の映画をペアにして公開する興行形態がとられていました。安上がりの料金で長時間楽しめるというお徳用感をアピールして動員を図るという狙いからのようでしたが、映画が始まったばかりで入場すると、ほぼまるまる1本立ち見ということになります。映画の長さは通常1本90分前後。2時間以上の作品は大作というふれ込みで、1本立てロードショーとなるのでした。

 
さて、途中から観た映画が終わって場内が明るくなっても、たいてい頭からきちんと観ている人はいませんから、休憩時間になったからといって出て行く客はあまりいません。つまり席が空かないのです。場内ではちょうど駅弁売りのような格好で、お菓子やアイスクリームなどが入った箱を肩紐で下げた売り子、といっても女の子に限らずおじさんだったりするのですが、「えー、おせんにキャラメル! いかがですか」と回ってきます。でも、それどころではありません。やっと空席を見つけて「そこ空いてますか?」と聞いても大抵はノー。たずねたずねて最前列のあたりまでいくことになります。場内がどんなに混雑していても、さすがに前から2~3列あたりは空いています。背に腹は代えられずに何とか座るのですが、そこはかぶりつき。席に座るとスクリーンは眼前にそびえ立っています。

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●1950年代前半、洋画各社(アメリカ)のクレジットタイトル

 
映画がスタンダード画面(縦横比3:4)の場合は何とか集中して観ていられるのですが、シネマスコープ(縦横比1:2.39)だったらもう大変。頭を左右に動かさなければ画面全体を見ることができません。まさに風景を眺め回している感じ。また当時は日本語の翻訳スーパーは画面右に縦に出るようになっていましたから、登場人物の動きを追うのとスーパーを追うのとで大忙し。その上スクリーンの画像は離れて見てこそクリアなのですが、前の席では拡大されたフィルムの粒子がちらちらと踊っているのです。

  それはそうでしょう。映画フィルムのひとコマは普通の切手ほどの大きさ。それが横10mほどもあるスクリーンに拡大されるのですから。ところが、それがかえって西部劇の醍醐味である荒野のシーン、広漠たる砂漠のシーン、あるいは息詰まる決闘シーンなどでは荒涼感を増幅させてくれ、まさに砂ぼこりを浴びながらの臨場感で、眼前で展開するクライマックスシーンにどっぷりと浸ることができました。

 
ところで二本立てでは、途中から観た映画が終わるとすぐに次の映画が始まります。だからさっき見た映画の頭は、次の映画の後まで待たなくてはなりません。とにかく映画が始まると、最初に映し出されるのがクレジットタイトルと呼ばれる映画会社のマーク。各社とも企業色を明確にアピールするデザインで、「さあ、わが社が腕によりを掛けて製作した映画ですよ。面白いですよ」と呼びかけてくるようで、どれ、と期待感が高揚します。
 家で紙フィルムを作って遊んでいる中学生にとっても、自分のフィルムの頭に付けるクレジットタイトルのデザインをどうしようかという思いがよぎります。

 
私の映画鑑賞法ですが、必ず2回観ることにしていました。1回目は大抵途中からですし、何と言っても学校では演劇部ということで、俳優の演技を観察するチャンスだと思っていたからです。そのかわり2回目は純粋に映画を楽しみます。
演技を見る場合は、邦画だったら台詞回しや間のとり方、台詞がないときの動き、リアクションなどに注視しました。ところが考えてみると、映画はリアルタイムで進行する舞台と違って、撮影後に編集して組み立てなおすものだということに気づきました。そう考えれば戯曲とシナリオにおける形式のちがいが分かりますし、演出の仕方や演技術が大きく異なることも分かってきます。
  このように、映画を2回観ることで映画と演劇の特性をはっきりと認識できたことは大きな収穫だったと思います。

 それはともかく、場内が満員大混雑の上、館内の空調がうまく働かないものですから、映画が終わって帰るときには必ず頭の芯がズキズキといつまでも痛んで辛い思いをしました。2本立てを2回、合計6時間以上も映画館に入り浸っていられるのは学生の特権とはいえ、払った代償も大きかったのでした。

 

フィルムフリークが考えた、幻のフィルム規格 [「動画」の自分史]

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フィルムフリークが考えた、幻のフィルム規格
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●シネマスコープ初公開は1953年

  
映画が飛躍的な進化を見せた技術の一つがワイドスクリーン。その代表格が20世紀フォックス社開発によるシネマスコープですが、その第1作「聖衣」が、お正月を飾る大型映画として日本で初公開されたのは1953年(S28)の暮れでした。日本のテレビ放送が始まったのもこの年からでした。私が中学1年生の頃ですが、テレビの登場と共に、NHKがそれまでラジオで放送していた「のど自慢」「二十の扉」「ゼスチャー」「三つの歌」や「大相撲」「プロ野球」「ボクシング」などの人気番組はテレビでも放映されるようになったらしいのですが、東京から上越国境を越えて長岡にまで届くテレビ電波はまだなく、家庭の娯楽はラジオが主流という状態はまったく変わらず、映画は相変わらず娯楽の王者でした。

 中学時代の私は、映画館では必ず2回繰り返して観ることを信条としていました。それは前回述べたように、途中から見ることが多かったからということ、それに演技の勉強という理由からでしたが、実はあと二つ、面白い映画の内容をよく覚えておきたかったこと、それに、起承転結という構造を持つといわれる物語の展開がどのように仕組まれているのか、つまり「構成」に興味があったのでした。


 帰宅後、映画の流れを思い出しながらストーリーをメモしていくのですが、「なるほど、始まりはその手で来たか」「これで登場人物は出揃った」「あ、新しい局面が始まったぞ」「これはまた別の展開だ」「二つの局面が合流したぞ」「さあ、これからがクライマックスだ」「なるほど、おしまいはそうまとめたか」という具合に起承転結を意識的に把握するようにまとめていく反芻作業は、結構楽しいものでした。


 こうして書き留めたメモは、今風にいえば映画のノベライゼーションのようなものなので、それを豆本にすることにしました。中学生がまったくの遊びで作るままごとに等しい行為なのですが、一本の映画を豆本1冊にまとめてみると、<1冊だけでは寂しい。観た映画はみんな豆本にして映画全集にしよう>、などと遊びごころが膨らみます。こうして、その頃観た西部劇「シェーン」に始まり、SFの「放射能X」「ゴジラ」などがシリーズに連なりました。

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●1954年、中学2年生の時、「放射能X」を観て作った豆本(絵も文字も下手なこと)
たまたま発見! 絶対お勧め。
 今ならGYAOで「放射能X」を全編無料で見られます。(10/1正午まで)
 

http://www.gyao.jp/sityou/catedetail/contents_id/cnt0042284/


 
けれども頻繁に映画を観る訳ではないので、そのうちに自分で考えたお話も加えることにして、全部で10冊ほどの豆本を作りました。こうしてまとまった豆本全集は、もう一つの遊びであった紙フィルムづくりにつながり、同タイトルの紙フィルムが作られていきました。ちょっと大げさに言うと、昔、「角川書店」がその出版物を「角川映画」で映画化し、相乗効果による売り上げ増進を図ったと同じ構想、つまり映画と出版のタイアップによるクロスメディア戦略が、そうとは意識しない子供の遊びの中で行われていたのでした。

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●自作のシナリオや物語の豆本

 
ところで自作の紙フィルム。本物の映画会社に倣い、自分の苗字に「映画社」の文字を付けた「○○映画社」を標榜していたのですが、業界が急速にワイドスクリーンに変わってきたので、我が社としてもワイドスクリーンを検討せずにはいられなくなりました。そこで、兄が持っている視聴覚教育の資料をめくり、多分その中からシネマスコープの概要をつかんだのではないかと思います。

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●左はシネマスコープフィルムの1コマ。左右が圧縮されて撮影されている。
●右はスクリーンに上映した場合。


 それによるとシネマスコープの縦と横の比率(アスペクト比)は1:2.39。いわゆるスタンダード画面(1:1.33)の2倍近い広がりを持っています。ところがフィルム幅は通常の35ミリなのです。それでなぜ、2倍近い横長画面にできるのか。それは撮影時に歪像レンズ(アナモルフィックレンズ)と呼ぶ特殊なレンズを使って、左右に広い情景を縦に圧縮(スクイーズ)して写し撮り、映写時にはまたそのレンズを使って上映することで、画面を元の広さに戻しているというのです。なるほど。本来スタンダード1コマ分の面積がシネマスコープではほぼ2倍に拡大されるから、スクリーンの近くではフィルムの粒子が踊って見えるほどに荒れるんだ。と納得がいきました。

 そこで我が紙フィルムメーカーとしてはどうすべきか。考えたらすぐにアイディアが浮かびました。当社はまったく資金力がありませんから、そんな特殊なレンズを使わなくても、同じ35ミリフィルムを使ってそのままワイド画面の映画が作れるという、いかにも中学生が考えそうなアイディアです。

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●左/シネマスコープのフィルム
●右/左の1コマを横に二等分した形でシネスコの縦横比を得るというアイディア


 それは単純に、スタンダード画面の1コマを横に2等分するというものでした。すると横長になった1コマはほぼシネマスコープの縦横比に匹敵します。その代わり本来の1コマを2コマとして使うので、フィルムの粒子は半分、つまり解像度は二分の一になります。けれども経済的にみたら、この方式ならカメラや映写機をちょっと改造するだけで済むはずだし、フィルムのプリント費が半分になる。また、同じ大きさのリールで2倍の時間上映が可能だから映写技師の手間が省ける。しかもフィルムを輸送するにも半額で済む。すばらしい。自画自賛しながら、それ以降「○○映画社」の紙フィルムはこのアイディアをもとにワイド仕様に変わるのですが、これを実際の問題として考えるとどうなのか。果たして使い物になるアイディアなのか、それが知りたいと思いました。

 
35ミリフィルムの1コマを横に2分してシネマスコープの画面をつくるというこのアイディア。実はずっとあとで知ったことですが、この方式は実際にアメリカにおいて「テク二スコープ」の名で1960(S35)年に開発され、数本の映画も製作されたというのです。また日本でも1958(S33)年頃同様のアイディアで、USS(ウルトラ・セミ・スコープ)と名づけたワイド方式が開発されたとのことでした。ちなみに私がこのアィディアを思いついたのは、生まれてはじめてみたシネマスコープ映画、ロバート・ミッチャム、マリリン・モンロー主演の「帰らざる河」(1954/S29)の直後、中学2年生の時でした。

 その頃の私はそれらの方式で公開された大型映画を知りません。そこで調べてみましたら、両方式とも、1954年(S29)に登場していたパラマウント社・ビスタビジョンの鮮明な大画面に押されて自然消滅したらしいのです。まさに大型映画の世界的開発競争の渦中で忘れ去られていった泡沫的なアイディアだったのです。
 ビスタビジョン第1作「ホワイト・クリスマス」の公開は、奇しくも我が「○○映画社」が上記のワイドスクリーンアイディアを思いついた年でした。だからアイディアとしてはすでにパラマウント社に大きく水をあけられていたのですが、曲がりなりにも自分が中学生時代に考えたことが、現実の世界で実現していたのだと思うだけですごくうれしいことでした。


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私が見たのは「四丁目の夕日」 [「動画」の自分史]

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私が見たのは「四丁目の夕日」
その時東京タワーの完成は目前だった 

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●有楽町「日本劇場(日劇)」 学研「証言の昭和史8」より 
高層ビルも高速道路も無く、高架線を行く湘南電車,都電,自動車などに時代が感じられます。この写真はカラーではなく、当時の絵葉書に多かった人工着色のようです。


 高校時代、毎日の出来事を書き込む日記とは別に、特別な場合にはもっと詳しい記録をとっていました。それは日記帳に書ききれない特集記事ですから、ノートを使ったり、罫線だけの手帳であったりしました。今、手元に残っているのは「田舎学生単身上京記」と題したバインダー式の手帳で、高校3年の夏休みに東京・築地の叔父さんに会いに上京した時の記録です。
日付は1958(S33)年8月17日。ちょうど50年前になります。
 

■「田舎学生単身上京記」より
 以下は、築地から晴海通りを北上。銀座四丁目を通って有楽町まで歩き、日劇(現在のマリオン)で「秋のおどり」を見せてもらった時の描写です。()は注釈です。

 
夕方、叔父さんの案内で築地に出かけた。魚河岸を一周して東京の魚市場を余すところなく見せていただいた。どんよりと黒い隅田川。勝鬨橋の向こうは月島という。(当時の隅田川はどぶ川で悪臭ふんぷん。岸辺には日中ドブネズミがうろちょろ。勝鬨橋の開閉は行われていた)少し行くと霞んだ向こう(排気ガスと煤煙のせい)に浜離宮が見えた。エッフェル塔より何メートルか高いというテレビ塔(東京タワー)が、もうほとんど完成した形で見える。

 午後5時過ぎ。ちょうど人が出始める頃か、それこそ人の波。東劇の前で機械が自動で好みのレコードを演奏する(ジュークボックス)のをしばらく聞いた。銀座の人出はそれこそすごい。(銀座四丁目の)交差点にある交番ではお巡りさんが20人くらいも出て整理に当たっていた。このあたりに森永の地球儀や星の形をした大きいネオン塔(松竹会館か?)が密集している。向こうを見ると省線(国鉄の高架線)の手前にもロクロ首のようなネオン(ポポンS)が見えた。

 
少し行くと丸味を帯びた大きな劇場があり、そこが雑誌の写真で見知っていた日劇だ。叔父さんから切符を買ってもらって中に入った。なんと2階のボックス席。私が演劇狂だということを知っていた叔父さんは、そのいちばん前の席を奮発してくれたのだ。見下ろすと真下にオーケストラボックス。その奥に舞台が手に取るように見える。開幕前に手洗いから戻ると、ロビー(ホワイエ)に間もなく第一景に出演する踊子たちが大勢歩いてきた。

 席に着くと、開幕と同時に軽快な音楽に合わせて階下の観客席通路の奥まで踊子たちが入り込み、場内全部がステージのようになった。観客を丸ごと包み込んでしまう壮大な演出だ。
 きらめく衣装、七色のライト、華麗なステージ。私のいるボックス席からは舞台がせり上がるのや、踊子を乗せた台が横から滑り出してくるのやら、ボートやケーブルカーにつながった針金を裏方が操るのやら、照明係の動きまで何から何まで良く見える。オーケストラボックスの演奏者も実に堂々としたもの。フィナーレも最高潮に盛り上げて、それはうっとりするような数時間だった。

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●写真左/完成間近かの東京タワー 毎日新聞社「昭和史全記録」より
 写真右/8ミリ映画で私が撮影した日劇 (この後1982年閉館)

 
初めて見る本物のレビュー「日劇・秋のおどり」のスケールと迫力は目を見張るほどすばらしいものでしたが、ノートにはステージの出し物についての感想が全くありません。もっぱら装置や照明など、裏方の動きに関心があったようです。ただ、幕間に展開された寸劇の趣向にはびっくりしました。それは今でもはっきり覚えています。

 
ステージ中央に1台のオープンカー。この車に二人の男性が乗りこむところからコントが始まります。世界の名所旧跡を巡るというようなストーリーだったと思います。とにかくこの車がすごい。水陸両用どころではありません。ものすごいスピードで陸上を突っ走ったかと思うとそのままザンブと海中へ。海底に眠る古代都市跡を経巡るうちに火山の噴火に遭遇し、危機一髪というところで思いっきり上空へ噴き上げられ、ホッとしたとたんに今度は車のトラブルでキリモミ状態で墜落。みるみるうちに迫って来る地上。絶体絶命。あわや……というように縦横無尽に走り回るのです。
(フジテレビ、月曜午後7時からの「ネプリーグ」の元祖でしょうね)

 
ステージにそんなに壮大なセットが組まれているわけではありません。仕掛けはオープンカーとその背後のスクリーンに映し出されるシネマスコープ映画です。つまり、映画は背景として迫ってくる情景だけを映し、ステージ中央のオープンカーは、それにつながるワイヤーを舞台両袖の裏方数人が呼吸を合わせて上下左右に揺り動かすだけ。それだけで猛スピードで走り回る感じが出るわけです。車の二人は観客に背を向けて運転しているので、観客もいっしょにシネマスコープのワイドな景色の中を突っ走るという感覚になります。それはまさに陸海空を自在に飛び回るジェットコースター。そのスリル満点のスピード感にびっくり仰天。痛快極まりないムービー・マジックに身体全体で魅了されていました。(毎週月曜日、フジテレビ系午後7時からのクイズ番組「ネプリーグ」がこれと同じ趣向です)

 
これは映画のスクリーンプロセスという技法をショーアップして見せたものなのですが、高速感が出るように撮影されたスクリーンの情景は、綿密にステージライブの進行と同調するように秒刻みで編集されなければなりません。この日、日劇で見た本場のレビュー体験は、私の演劇的関心と映画的興味を大きく増幅させることとなりました。

 
それから約4ヵ月後のこの年の暮れ、12月23日に東京タワーが竣工しました。全国的にテレビが楽しめる放送新時代が到来したのです。それは情報が音声だけでなく映像を伴って家庭に届くという夢のような時代の幕開けでした。

【余談】 
あとで知ったことですが、この幕間をつないだコントの芸人は、一人は後にフウテンの寅さんで有名になる渥美清さん。もう一人は映画で憲兵など怖い兵隊をやらせたら右に出るものがなかった予科練帰りの南道郎さんが演じていたのでした。
ついでに言うと、やはり憲兵役では松竹映画「人間の条件」の安部撤さんのすごかったこと。いわゆる悪役ですが、忘れられません。悪役ついででは時代劇の進藤英太郎さん。悪代官など決まっていましたね。晩年はテレビで好々爺を演じていましたけれど。

 

※この上京の際、初めて8ミリ映画カメラを持って行きました。その時撮影した映像は下記のページに掲載しました。どうぞお立ち寄りください。
http://fcm.blog.so-net.ne.jp/archive/200809-1


初めての8ミリ映画、50年前の上野・有楽町 [「動画」の自分史]

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初めての8ミリ映画、50年前の上野・有楽町

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●有楽町/「日本劇場」跡に立つ「有楽町マリオン」と朝日新聞社(右)
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●昭和30年代の数寄屋橋 左奥/日本劇場(円形の建物) 正面/朝日新聞社

●動画制作がはじめてアマチュアの手に
 前回「動画の自分史-13」で、高校3年生(1958/S33)の頃、単身上京した思い出を書きました。実はその際、東京の叔父さんに会うこと以外にもう一つの目的がありました。それは、上京した機会に8ミリ映画のテスト撮影をしてみようというものでした。

 8ミリ映画はご承知のように、現在のビデオ以前に一般家庭向けに開発された動画の方式で、8ミリ幅のフィルムに連続写真を記録するものです。アマチュア用小型映画の代表としてはこの他に16ミリがあり、戦前までは小型映画といえば16ミリを指していました。けれどもそれはまだごく限られた人たちのものでした。

 
日本では1937年(S12)にエルモ社が「シネエルモ」を発売して8ミリ映画に先鞭をつけましたが、戦後の混乱が落ち着いて生活に余裕が出来るに連れ、1950年代に入るとカメラメーカーや精密機器メーカーなどが揃って参入し、加速度的に人気が出てきました。この8ミリ映画の登場で、ようやく普通の人たちが個人で映画を撮れる(動画を作れる)時代が到来したわけです。

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●中学生の頃に欲しかった8ミリカメラ「シネエルモ8―AA」エルモ社製
  機体右のハンドルでゼンマイ(スプリング)を巻いて撮影しました。


●はじめはもっぱら8ミリカメラのカタログ集め
 
ところがカメラは高価で高嶺の花。おまけにフィルムもお金がかかる上、撮影しても現像に出さなければ見られませんし、観るためにはカメラよりも高価な映写機が不可欠です。いくらアマチュア映画が一般の手に届くレベルになったとはいえ、まだまだお金持ちしか楽しめないのが現実でした。
 とはいえ8ミリ映画時代の到来は、映画フリークとして育った私にとっては居ても立ってもいられないほど浮き足立つ気持ちでした。しかし高校生の身ではどうにもならず、ひたすら新聞、雑誌の記事や広告を切り抜いたり、学校帰りに長岡のカメラ屋さんに立ち寄ってカタログ集めをしたりしていました。

 最初にカタログで見た8ミリカメラは忘れもしないエルモ社の「シネエルモ」です。この丸っこくてかわいらしく、しかも頑丈なスタイルは、戦時中から戦後に掛けて主にニュースやドキュメンタリーの現場で活躍した米国ベルハウエル社製「アイモ」にそっくりでした。報道のプロ向け「アイモ」は16ミリで、レンズは広角、標準、望遠の3本のレンズを取り付けたターレットと呼ぶ回転盤を、カチッ、カチッと切り替えて使える仕様でしたが、8ミリの「シネエルモ」は標準レンズがカメラ本体に1本付いているだけでした。

 それでは不便ということで、各社はいっせいに標準と望遠レンズをセットした2本レンズターレットのムービーカメラの開発に取り組み、その先鞭を切ったのが瓜生精機の「シネマックス8」(1955/S30)でした。以後、レンズを2本つけた8ミリムービーカメラが続々と登場します。

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●「シネマックス8」瓜生精機製 左/1954年製 右/1955年製
 ほぼボディは同一のまま、標準・望遠の2本ターレット式に進化しました。


●カメラはゼンマイ仕掛け。フィルム1本でたった3分
 さて、私が8ミリ映画のテスト撮影を思い立つには、当然8ミリカメラがあることが前提になります。実は家の知り合いが物珍しさに吊られて購入したらしく、それを貸してもらえることになったからでした。機種は「ヤシカ8」の2本ターレットでした。このカメラに初めて購入したモノクロフィルムをセットして上京したわけです。当時すでにカラーフィルムもあったと思いますが、フィルムはとても高価でしたから、中学生の身では、節約して貯めた小遣いでモノクロフィルム1本を買うのがやっとでした。

IMGP5537.JPG●「ヤシカ8 T2」

 ところで当初の8ミリ映画は現在のビデオと違い、電池ではなくハンドルでゼンマイ(スプリング)を巻き上げ、その反発力を利用してカメラを回します。フィルム1本で撮影できる時間もたったの3分。ギリギリ3分20秒しかもちません。これで昼と夜景の両方を試し撮りする積りでした。
 1カットを5秒としても全部で30カットくらいしか撮れません。普通のスチルカメラもフィルム1本36枚撮りですから、それと同じ要領で撮影していけば、1本のフィルムで1日の情景を収めることは可能かも知れません。ただそれはいわゆる写真の場合で、映画は一つの情景をいくつものカットで構成します。また、動くものを追って撮影したりすれば、すぐに10秒位回ってしまいます。とにかく現在のビデオのように湯水のように回しっぱなしなどもっての他。節約しながら撮影することが絶対条件となります。

●撮影目的が低次元だったことを後悔
 
最初から計画して出掛けた訳ではなく、出たとこ勝負でどんな情景に出会うか分からないので失敗は許されません。1カット1カット、ピントを確かめて、手ブレしないようにしっかり構えて……と一生懸命で私が撮った初めての8ミリ映画、名づけて「1958年/東京寸景」はこの下にあります。
 あまり節約し過ぎてフィルムを1分も余らせてしまいました。何ということを。折角の上京機会だったのにこんなカットしか撮らずにもったいない。その時の私に「東京の中心<銀座の今>を記録しておくんだ」というしっかりとした狙いがあれば、たった3分とはいえ、もっとあちこちを撮り回ったと思います。けれどもその時は単純に「自分にも写せるのか。夜景はどの程度写るのか」というテストしか頭に無かったのが大いに悔やまれます。
 という訳で、格別貴重なものでも面白いものでもありませんが、どうぞ2分間だけお付き合いください。なお音声はありません。
 

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●「日劇」秋のおどり         ●日劇わき 戦後のモボ・モガ
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●写真左と右は同じ場所    駐留軍のお偉いさんたち
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●「日劇」前を行くボンネットバス
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●銀座4丁目交差点 周囲に高いビルはなく、誇らしげに電柱が立つ
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●銀座4丁目からマリオン(日劇)方面を望む
 手前の円筒形のビルが「森永広告塔」のビルがあったところ


【試作フィルム 画面説明】(無音)
・クレジットタイトル
 
  「○○映画社」のマークです。こんなフィルムですらマークは大切に考えていまし
  た。(爆)
・メインタイトル「試作フィルム」(1958/S33)
 
   帰宅後、部屋のガラスに白いポスターカラーで文字を書き、窓の外の景色を背景
  に撮りました。
・上野公園/西郷銅像~不忍池~懸垂式モノレール
  池之端にはビルが全く見当たりません。モノレールはまだ新しかったと思いま
  す。それにしても乗客か少ない。
・隅田川
 
   勝鬨橋のたもとから撮影。沿岸にピルが見当たりません。この船は汚わい船とい
  う話も。
・有楽町/そごう~日劇前、銀座方面を望む~日劇~ポポンSの広告塔~森永広告塔
  ~エンゼル前
 
  「
AVE.」という道路表示や制服姿の米国軍人など、「進駐軍」が「駐留軍」と名を
  変えた頃だったでしょうか。
・夜景/上野駅前
  帰り際にテスト撮影した夜景。デイライトフィルムでもネオンは良く撮れていま
  した。よ~く目を凝らすと画面上方に電光ニュースも流れています。
・エンドタイトル代わりのクレジットタイトル
 

※なお、この上京時の関連記事は下記にあります。よろしかったらどうぞ。
 
 http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2008-08-28 
 「私が見たのは四丁目の夕日」


小説より好きだった戯曲とシナリオ [「動画」の自分史]

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小説より好きだった戯曲とシナリオ 

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●カタログで学んだ映画の知識
 
高校時代、勉強は二の次で、ほとんどの時間を演劇活動に打ち込んでいた私ですが、もう一つの興味は、1955(S30)年頃から急速に脚光を浴び始めた8ミリ映画でした。子供の時から映画のフィルムをおもちゃにしてきた私が「8ミリ」に関心を持たないはずはありません。高校3年の夏には借り物の8ミリカメラで有楽町界隈を試し撮りしましたが、それはあくまでも借り物。簡単に8ミリカメラを買うことなどできませんから、せいぜい長岡のカメラ店で各社のカタログをせっせと集めていました。時々16ミリのカタログも店頭に置かれていることがあり、なかなか手に入らないものだけに、それを手に入れた時の喜びは8ミリに増して大きいものでした。
 
 
カタログによる検討は、詳しく知ろうとすればするほどスペック(技術仕様)を詳しく掘り下げていくことになります。その過程で専門知識が知らず知らずのうちに身に付きます。いろいろ集めた各社の8ミリカメラカタログを比較しているうちに専門用語も覚え、単に8ミリ映画に留まらず、「映画」そのものの本質や技術的な部分をも知らず知らずのうちに学んでいたような気がします。とに角カタログはタダである上、最高の教科書でした。 

●高校3年はテレビ元年。電気屋さんに入りびたり 
 長岡市でモノクロテレビの画像が一応見られるようになったのは1959(S34)年でした。この年が開け、高校生活もあと3ヶ月という頃、毎日のように近くの電気屋さんに入り浸って、デモ用に展示されているゼネラルテレビで、地元劇団の仲間たちといっしょに、NHKで放送される劇場中継に目を凝らしていました。

IMGP0269-2.JPG●1950年代半ばの14インチモノクロテレビ

 
そのころ劇場中継された舞台は、当時の日記によると下記の通りです。
2/8 俳優座、文学座、民芸による新劇合同公演。千田是也演出。滝沢修、山田五十鈴、東山千枝子「関漢卿(かんはんちん)」。回り舞台を十二分に活用した伊藤憙朔の舞台装置は驚きでした。
同日、木下恵介監督初のテレビ時代劇「最後の鎧武者」。伊藤雄之助、音羽信子、芥川也寸志、石浜朗主演。明治初頭の古い思想と新しい思想との対立は、現在の父子にも通じるところがあると思いました。
2/28 日劇「春のおどり」ライブ中継 
3/7 俳優座。田中澄江作「がらしゃ細川夫人」。
 
 
この当時のテレビは録画という概念も装置もまだなく、すべてライブ(なま)で演じられていました。いわゆる「ぶっつけ本番」。そのために山村聡、桑野みゆき主演のテレビドラマ「落陽」では、役者に台詞を陰で教えるプロンプターの声がはっきりとマイクに入っていたり、人気番組「事件記者」では、電話ボックスの壁にマイクの影が写っていたりしました。
 

●小説より好きだった戯曲とシナリオ
 
私にとっての映画は演劇の延長線上にありましたし、その関連で戯曲とシナリオにも興味がありました。小説も嫌いではありませんが、演劇三昧の毎日では読む時間がありません。都合のいいことに、当時は古今の名作がどんどん映画化されていましたので、これ幸いと小説を読まずに映画で済ますことになってしまいました。

 
また、小説と戯曲/シナリオを比べた場合、もちろんそれぞれの文学的特質を理解した上ですが、小説は情景描写や心理描写がくどくどしくて文体によっては読みにくい。それに比べると、ほとんど台詞だけで書かれている戯曲とシナリオの方が読みやすい。また、情景描写が最小であるため、自分で状況を想像できるという楽しみがありました。それに戯曲は日常の演劇活動で接していますし、シナリオは大好きな映画に直結するものだということが、小説よりも戯曲/シナリオが好きといういちばんの理由でした。

 当時、前の年に話題を呼んだ映画シナリオを集めたシナリオ作家協会の編纂による「年鑑代表シナリオ集」を書店で見つけ、早速購入(1.500)し、読み漁りました。これは楽しんで観た映画とシナリオを対比して二度楽しむことができ、とても勉強になったのですが、例えば1957年版では
「ビルマの竪琴」「真昼の暗黒」「夜の河」「猫と正造と二人のをんな」などが掲載されていました。この他、1955(S30)年に大ヒットし、ポケットサイズの単行本として売られていた木下恵介監督「野菊の如き君なりき」のシナリオも映画のシーンを思い浮かべながら熟読しました。こうした興味から私がシナリオの習作を書き始めるまで、そう時間はかかりませんでした。

 
いずれにしても、演劇も映画も文章を書くことも高校生レベルでの独学ですから全くのアマチュアです。その上、知識や体験といっても極めて初歩的で断片的なものです。けれども、専門用語の一つでも聞きかじっておいたことが、社会に出て実際にそうした現場に立ったり専門書を見たりすることによって、次第に整理され、体系化されていきました。高校生時代に「ただそれが好き」というだけで一直線に突き進んだ体験も、決して無駄ではなかったと思っています。
 

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●高校の文芸同人誌に、創作やシナリオのようなものを書いたりもしていました。

●高校生の頃観た映画
高校2年生 1957(S32)で観た映画全記録
(この年は日記によるものですから製作年度とはズレがあります)
  2/10 「首輪のない犬」「回転木馬」2本立て
  2/17 「最後の橋」「底抜け西部へ行く」生徒会で割引券
  3/ 1 「青空の仲間」(日活)
  3/14 「居酒屋」「銀盤のリズム」2本立て 150円
  3/24 「米」(松竹)「花は嘆かず」(松竹)
  4/ 2  「白鯨」「攻撃」
  4/20 「白い山脈」「ジャズ娘誕生」(東宝)
  4/30  「愛ちゃんはお嫁に」地元婦人会の映画会にて
  5/11 「戦争と平和」初めてのオードリー
  7/ 2  「南極大陸」「象」
  7/13 「沈黙の世界」「失われた少年」「赤い風船」3本立て
  7/20 「人間と狼」「無法の王者」
  8/19 「春の夜の出来事」
  8/29 「あらくれ」
  9/15 「東京上空30秒」「戦艦シュペー号の最期」
  10/6 「道」「ハッピーロード」
  10/23 「失われた大陸」「抵抗」
  12/15 「雪は汚れていた」「東京特ダネ部隊」

高校3年生 1958(S33) 
   
「八十日間世界一周」「誇りと情熱」「陽はまた昇る」「戦場に架ける橋」
  「火薬に火」「汚れなき悪戯」
  「蜘蛛巣城」「雪国」「喜びも悲しみも幾歳月」「純愛物語」
   
「眼下の敵」「突撃」「情婦」「十戒」「武器よさらば」「ヴァイキング」
    「手錠のままの脱獄」「老人と海」「めまい」「大いなる西部」
    「眼には眼を」
「鉄道員」「女の一生」「河は呼んでる」
   
「死刑台のエレベーター」「ぼくの伯父さん」
  「駅前旅館」「鰯雲」「隠し砦の三悪人」
     そして「人間の条件 一/二部(1959)」を最後に高校を卒業しました。

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●「東洋のハリウッド」元大映撮影所。昔「羅生門」「雨月物語」など数々の名作が生み出されました。現在は角川大映撮影所 東京都調布市

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●撮影所に隣接して立つ「調布映画発祥の碑」と
 日本映画の全盛期を彩った俳優を讃える「映画俳優の碑」
 


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